第4話 約束の髪飾り
森へ通うようになってから、季節は少しずつ巡っていた。若葉は深い緑へと色を変え、小川の水も春より少しだけ温かくなっている。樫の木の下には、今日も白銀の猫がいた。
「お待たせ。」
アイリスが声を掛けると、ソルはゆっくりと目を開ける。短く「にゃあ」と鳴いてから、静かに歩み寄ってきた。
「ふふ。」
「ちゃんと待っててくれた。」
しゃがみ込んで頭を撫でる。さらり、と白銀の毛並みが指先を滑った。ソルは気持ちよさそうに目を細める。
その様子を見ていると、不思議と胸の奥が温かくなる。いつの間にか、この時間はアイリスにとって一日の中で一番好きな時間になっていた。
◇
その日も、二人は樫の木の下で並んで座っていた。風が優しく吹き抜ける。木漏れ日が二人の影を静かに揺らしていた。
しばらく何も話さない時間が続く。それでも、不思議と気まずくはなかった。アイリスは膝を抱えたまま、小さく空を見上げる。
「ねぇ、ソル。」
白い耳がぴくりと動く。
「最近ね。」
少しだけ困ったように笑う。
「また夢を見るようになったの。」
ソルは静かに耳を傾けていた。
「お花がたくさん咲いてる場所なの。」
風が吹く。花びらが舞うような仕草を、アイリスは指先で描いてみせる。
「白い花も。」
「青い花も。」
「黄色い花も。」
「いろんな花が咲いてて。」
少しだけ目を細める。
「すごく、あったかい場所なの。」
その景色を思い出そうとするように、ゆっくり目を閉じた。
「誰かが笑ってる気がするんだけど……。」
少し考え込む。
「顔は見えないの。」
「目が覚めると、全部ぼんやりしちゃう。」
寂しそうに笑った。
「でも、不思議なんだ。」
「その夢を見ると。」
「なんだか少しだけ安心するの。」
ソルはじっと少女を見つめていた。何も言わない。ただ、その一つ一つの言葉を大切に聞いているようだった。
◇
アイリスは髪へ手を伸ばす。金色の髪を留めている、小さな青い髪飾り。陽の光を受けると、湖のような青い石が淡く輝いた。
「院長先生がね。」
優しく撫でる。
「これは、お母さんが私に残してくれたものなんだって。」
少しだけ笑う。
「小さい頃のことは、ほとんど覚えてないんだけど。」
「これだけは、ずっと持ってるの。」
ソルは髪飾りをじっと見つめていた。
「綺麗でしょう?」
少しだけ誇らしそうに笑う。けれど、その笑顔はすぐに少しだけ寂しそうなものへ変わった。
「でもね。」
青い石をそっと握る。
「迎えに来てくれるって、ずっと思ってた。」
春も。
夏も。
秋も。
雪が降る冬も。
孤児院の扉が開くたび。
誰かが来るたび。
胸が少しだけ高鳴った。
「今日かな。」
「今度こそかな。」
そう思っていた。
でも。
誰も来なかった。
少しだけ俯く。
「だから。」
力なく笑う。
「嫌われちゃったのかなって。」
その言葉は、とても静かだった。
泣いてはいない。
でも。
その笑顔は、泣いているように見えた。
◇
ソルは静かに立ち上がった。
そして。
何も言わず、アイリスの手へそっと額を寄せる。ふわり、と柔らかな毛並みが指先に触れた。その温もりは、春の日だまりのように優しかった。
アイリスは少しだけ目を見開く。
「……慰めてくれてるの?」
ソルは静かに喉を鳴らした。
ごろ、ごろ。
穏やかな音だけが森に響く。その音を聞いていると、不思議と胸の奥の苦しさが少しずつほどけていく気がした。
アイリスは小さく笑う。
「ありがとう。」
「こんな話、君にしかできないや。」
白い頭を優しく撫でる。ソルは気持ちよさそうに目を細めた。
◇
アイリスはもう一度、髪飾りへ視線を落とした。青い石は木漏れ日を受け、淡く輝いている。
「ねぇ、ソル。」
少し照れくさそうに笑う。
「お願いがあるんだけど。」
ソルは首を傾げた。
アイリスは髪飾りをそっと外す。さらり、と金色の髪が肩へ流れ落ちた。掌へ乗せた青い髪飾りを、しばらく見つめる。
「これね。」
「お母さんが残してくれた、大切なものなんだ。」
少しだけ微笑む。
「だから、本当はずっと持っていたい。」
その笑顔は、少しだけ寂しかった。
「でも。」
「君に預かっていてほしい。」
ソルは静かに青い髪飾りを見つめていた。
アイリスは少し慌てたように笑う。
「あっ。」
「そのままじゃ付けられないね。」
薬草籠へ目を向ける。籠を束ねるために結んであった細い革紐をそっと外した。
「これなら。」
髪飾りを傷つけないよう慎重に革紐へ通していく。結び終えると、そっとソルの首へ結んだ。
白銀の毛並みの中で、小さな青い石が静かに揺れる。
「……うん。」
少し離れて眺める。
「すごく似合う。」
思わず嬉しそうに笑った。
ソルは少しだけ首を傾げる。青い石がきらりと光を返した。
「約束だよ。」
アイリスはソルの前へしゃがみ込む。
「いつか。」
「私が大丈夫って思える日まで。」
「預かっていて。」
ソルは静かに少女を見つめていた。
やがて。
ゆっくりと額をアイリスの手へ寄せる。
まるで。
「約束する。」
そう答えているようだった。
アイリスは嬉しそうに微笑む。
「ありがとう。」
「約束だからね。」
森を吹き抜けた風が、樫の木の葉を優しく揺らした。
その約束を聞いていたのは。
二人と、静かな森だけだった。




