第3話 王直属メイド 後編
リンネの後を追いながら、アイリスは王城の廊下を歩いていた。
高い天井には、繊細な装飾が施されている。
大きな窓からは朝の陽光が降り注ぎ、磨き上げられた床が鏡のように輝いていた。
壁には歴代国王の肖像画や、この国の風景を描いた絵画が飾られている。
どれも派手ではない。
だが、長い歴史を歩んできた王国の誇りが、静かに伝わってくる。
「見惚れてると柱にぶつかるよ。」
リンネが振り返り、くすっと笑った。
「あ……。」
アイリスは少し照れたように頬を赤くする。
「すみません。」
「謝んなくていいって。」
リンネは肩をすくめた。
「初めて来たら、みんなそんな顔するから。」
そう言うと、再び歩き始める。
「王城にはいろんな部署がある。」
「直属メイドだけじゃ城は回んないんだ。」
角を曲がると、数人の一般メイドとすれ違った。
「リンネ先輩、おはようございます!」
「おはよう。」
リンネは軽く手を上げて応える。
気取った様子はない。
だが、その自然なやり取りから、周囲に慕われていることが伝わってきた。
さらに進むと、若い騎士が敬礼する。
「リンネさん、お疲れ様です。」
「朝から鍛錬ご苦労さん。」
短い会話。
それだけで互いの信頼関係が感じられる。
(みんなから慕われている……。)
アイリスはその後ろ姿を見つめた。
頼れる姉のような人。
そんな印象が少しずつ強くなっていく。
「まずは厨房。」
大きな扉を開ける。
途端に焼き立てのパンの香ばしい匂いと、温かな湯気が二人を包み込んだ。
広い厨房では、大勢の料理人が忙しそうに動いている。
鍋からは湯気が立ち上り、野菜を刻む音、包丁の音、食器の触れ合う音が絶え間なく響いていた。
「おはようございます。」
リンネが声を掛ける。
「おう、リンネ!」
白い帽子を被った料理長が振り向き、豪快に笑う。
「今日は新人連れか!」
「ええ。」
リンネはアイリスを軽く手で示した。
「今日から直属メイドに入ったリナ。」
「ほぉ。」
料理長は腕を組み、アイリスを見る。
「食べるのも仕事のうちだぞ!」
「しっかり食って、しっかり働け!」
厨房中に笑い声が広がる。
アイリスは少し驚きながらも頭を下げた。
「よろしくお願いいたします。」
「いい返事だ!」
料理長は満足そうに頷いた。
厨房を出ると、リンネが小さく笑う。
「あの人は料理長のゴードンさん、声は大きいけど優しいから。」
「困ったら遠慮なく頼っていい。」
「はい。」
「ただし、朝は一番忙しい時間だから邪魔だけはしないこと。」
「覚えときな。」
「分かりました。」
二人は次に洗濯室へ向かった。
室内には真っ白なシーツが何枚も吊るされ、窓から吹き込む風を受けてゆっくり揺れている。
大きな桶を囲み、何人もの使用人が息の合った手つきで洗濯を進めていた。
誰も無駄話をせず、それでも張り詰めた雰囲気ではない。
穏やかな空気の中で、手だけが忙しく動いている。
「見事でしょう。」
リンネが誇らしげに言う。
「はい……。」
アイリスは思わず見入っていた。
「この人たちが毎日これだけの洗濯をしてくれるから、王城はいつも綺麗なんだ。」
「みんな、自分の仕事に誇りを持ってる。」
その言葉に、アイリスは静かに頷いた。
王城は王や騎士だけでは成り立たない。
名も知らぬ多くの人々が支えている。
そのことを改めて実感する。
その後も書庫、応接室、王族専用廊下などを巡りながら、リンネは一つひとつ丁寧に説明していった。
「ここから先は許可がないと入れない。」
「応接室は来賓が使うから、掃除も特に気を遣う。」
「こっちは王族専用。」
「勝手に入ったら、あたしでも怒られる。」
最後の一言に、アイリスは思わず笑ってしまう。
「笑うとこじゃないって。」
リンネもつられて笑った。
「本当に怒られるから。」
書庫を出て廊下を歩いていると、向こうから二人の若いメイドが並んで歩いてきた。
年の頃はアイリスと同じくらい。
一人は、柔らかな金色の髪を揺らし、品のある立ち居振る舞いが印象的な少女だった。
もう一人は、肩まで伸びた茶色の髪を揺らす、小柄でどこか親しみやすい雰囲気の少女。
二人はリンネの姿に気付くと、足を止めて揃って一礼した。
「リンネ先輩、お疲れ様です。」
「お疲れさまです。」
「お疲れ。」
リンネは軽く手を振って応える。
「ちょうどよかった。」
「紹介しとくね。」
二人は少し緊張した面持ちでアイリスへ視線を向けた。
「今日から直属メイドとして入ったリナ。」
「二人とは同期になる。」
その言葉に、金髪の少女がぱっと表情を明るくした。
「えっ、本当ですか?」
嬉しそうに一歩前へ出る。
「私はフィオナです。」
「よろしくお願いします。」
その笑顔は人懐っこく、初対面とは思えないほど親しみを感じさせた。
アイリスも微笑み返す。
「リナです。」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
「同期が二人もいて安心しました。」
フィオナは胸へ手を当て、ほっとしたように笑う。
「皆さんと一緒なら頑張れそうです。」
その素直な言葉に、アイリスの緊張も少しだけ和らいだ。
続いて、小柄な少女が一歩前へ出る。
「私はサリーと申します。」
丁寧に頭を下げる。
「よろしくお願いいたします。」
落ち着いた声だった。
華やかさはない。
それでも誠実さが自然と伝わってくる。
「リナです。」
「よろしくお願いいたします。」
二人は静かに微笑み合った。
その様子を見ていたリンネが満足そうに頷く。
「覚えることは山ほどあるけど、お互い助け合えば何とかなるよ。」
「はい!」
フィオナが元気よく返事をする。
「はい。」
サリーも真剣な表情で頷いた。
アイリスも二人に続く。
「よろしくお願いいたします。」
「じゃあ、私たちは持ち場へ戻ります。」
サリーがそう言うと、フィオナも笑顔で手を振る。
「また後でお話ししましょうね!」
二人は並んで廊下の向こうへ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、リンネがくすりと笑う。
「あの二人、一昨日くらいに入ったんだ。」
「フィオナは覚えが早いし、サリーは本当に真面目。」
「二人ともいい子だから、きっと仲良くなれるよ。」
アイリスは二人の背中を見つめながら、小さく頷いた。
(私だけじゃない。)
(みんな、それぞれ不安を抱えながら、この王城で歩き始めるんですね。)
そう思うと、胸にあった緊張が少しだけ軽くなった。
「さて。」
リンネが歩き出す。
「次はユズを紹介するよ。」
二人が廊下を歩いていると、一人の少女が向こうから歩いてきた。
黒髪を肩で切り揃え、小柄な体に制服をきっちりと着こなしている。
背筋は真っ直ぐ。
表情は真面目そのものだった。
「ユズ。」
リンネが声を掛ける。
少女は立ち止まり、一礼する。
「お疲れ様です。」
「紹介しとく。」
「今日から直属メイドに入ったリナ。」
「リナ。」
「こっちはユズ。」
「よろしくお願いいたします。」
ユズは静かに頭を下げた。
「ユズハです。皆さんにはユズと呼ばれています。」
「よろしくお願いいたします。」
アイリスも丁寧に頭を下げる。
それだけのやり取りだった。
ユズはもう一度一礼すると、
「失礼します。」
と言って仕事へ戻っていく。
その背中を見送りながらリンネが苦笑した。
「最初はいつもあんな感じなんだ。」
「根はすごく真面目。」
「慣れればちゃんと話す子だから、仲良くしてやって。」
「はい。」
◇
午後になると、いよいよ初めての仕事が始まった。
「今日は応接室の掃除から。」
「基本だけど、一番大事な仕事でもある。」
リンネは掃除道具を手渡す。
「やってみな。」
「はい。」
アイリスは部屋全体をゆっくり見渡した。
窓。
床。
机。
椅子。
花瓶。
まず、光の差し方を確認する。
窓を拭けば、朝の光はもっと美しく部屋へ入る。
椅子は机との間隔がわずかにずれている。
花は少しだけ窓側へ向けた方が、部屋へ入った時に美しく見える。
一つひとつ考えながら掃除を始めた。
棚の埃を払い、窓を磨き、机を丁寧に拭き上げる。
椅子を揃え、花瓶の角度を整える。
物音はほとんど立てない。
誰かがこの部屋を使う時、気持ちよく過ごせるように。
そんな思いを込めながら、静かに仕上げていく。
その様子をリンネは腕を組み、黙って見守っていた。
(……なるほどね。)
教えなくても分かっている。
掃除の意味を。
ただ綺麗にするだけじゃない。
使う人のことまで考えて動いている。
だから所作に迷いがない。
「終わりました。」
アイリスが振り返る。
リンネは部屋をゆっくり見回した。
窓は朝日を美しく映し、床は輝いている。
花瓶も、部屋へ入った瞬間に花が目へ入る位置へ整えられていた。
「……へぇ。」
思わず感心した声が漏れる。
「本当に初日?」
アイリスは少し困ったように笑う。
「孤児院で、毎日掃除をしていましたから。」
「そっか。」
リンネは納得したように頷いた。
「だからか。」
その時だった。
静かな足音が近付く。
イライザだった。
「確認いたします。」
リンネは一歩下がる。
「お願いいたします。」
イライザは何も言わず部屋を歩く。
床。
窓。
家具。
花。
細部まで静かに目を配る。
やがてアイリスへ視線を向けた。
「……及第点です。」
それだけ告げると、静かに部屋を後にした。
アイリスは小さく肩を落とす。
(及第点……。)
まだまだ足りなかったのだろうか。
そう思った瞬間。
「あはは。」
リンネが吹き出した。
「そんな顔すんなって。」
「え?」
「イライザ様が『及第点』って言う時はさ。」
「かなり褒めてる。」
「……そうなんですか?」
「そう。」
リンネは笑いながら頷く。
「あたしなんか初日は散々だったよ。」
「やり直し食らって泣きそうになったし。」
照れくさそうに笑う。
「だから初日で及第点なんて十分。」
「胸張っときな。」
アイリスは目を丸くした。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……ありがとうございます。」
◇
仕事を終え、夕暮れの廊下を歩く。
今日一日で覚えたことは数え切れない。
それでも、不思議と疲れより充実感の方が大きかった。
エレナの優しさ。
イライザの厳しさ。
リンネの面倒見の良さ。
フィオナとサリーとの出会い。
そして、真面目そうだったユズ。
この場所は、まだ帰る場所ではない。
それでも。
(いつか……。)
(この人たちと、一緒に笑える日が来るのでしょうか。)
窓の外では夕日が王城を茜色に染めていた。
その光を見つめていると、
「おーい、リナー!」
廊下の向こうからリンネが大きく手を振る。
「明日寝坊すんなよー!」
その声に、アイリスは自然と笑みを浮かべた。
「はい!」
王城での新しい毎日が、静かに始まった。




