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白銀の猫と創生の魔女  作者: 金林明莉
第三章 王城

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第3話 王直属メイド 前編

 朝日が、薄いカーテン越しに静かに部屋へ差し込んでいた。

 柔らかな光は白い壁を淡く照らし、窓辺へ置かれた小さな花瓶を金色に染める。

 どこからか小鳥のさえずりが聞こえ、澄んだ朝の空気が部屋を満たしていた。

 アイリスはゆっくりと瞼を開く。

 ぼんやりと天井を見つめたまま、小さく息をついた。

(……ここは。)

 一瞬だけ思考が止まる。

 見慣れない天井。

 見慣れない部屋。

 孤児院でもない。

 神殿でもない。

 旅の途中で何度も泊まった宿とも違う。

 静けさの中で、昨日の出来事が少しずつ蘇ってくる。

 王都へ辿り着いたこと。

 王直属メイドの面接を受けたこと。

 そして――リナという名で、この王城へ迎え入れられたこと。

「……そうだった。」

 小さく呟くと、アイリスは寝台から身体を起こした。

 窓へ歩み寄り、そっと開ける。

 ひんやりとした朝風が頬を撫で、長い金色の髪を優しく揺らした。

 眼下には王城の中庭が広がっている。

 色とりどりの花々は朝露をまとい、庭師たちはすでに剪定や水やりを始めていた。

 さらに遠くからは、騎士たちの鍛錬する声が聞こえる。

「はっ!」

 乾いた剣戟の音が朝の空へ響き、規則正しい掛け声が風に乗って届く。

 王城はもう、一日の始まりを迎えていた。

 誰もが自分の役目を果たすために動き出している。

 その光景を見つめながら、アイリスは自然と背筋を伸ばした。

(私も……。)

 今日から、この城で働く。

 神器アイオーンへ辿り着くため。

 ゼノスを救うため。

 そして、自分自身の運命を変えるため。

 窓を静かに閉めると、椅子の背へ丁寧に掛けられた制服へ視線を向けた。

 昨日、エレナから手渡された王直属メイドの制服。

 深い紺色のワンピース。

 真っ白なエプロン。

 袖口まで美しく仕立てられた縫製。

 胸元には、小さく王家の紋章が刺繍されている。

 決して派手ではない。

 それでも、この一着が持つ気品は、これまで身に着けてきたどの服とも違っていた。

 旅装束とも。

 孤児院の質素な服とも。

 神殿の法衣とも違う。

 これは、この国に仕える者の誇りを形にした服だった。

 制服を両手で持ち上げる。

 布地は驚くほど軽い。

 しかし縫い目は細やかで、長く着続けることを考えて作られているのが分かる。

 アイリスは静かに袖を通した。

 腰紐を結び、襟元を整え、鏡の前へ立つ。

 鏡に映る少女は、旅を続けていた魔法使いではなかった。

 一人の王直属メイド。

 その姿に違和感はない。

 それなのに胸の奥が少しだけ締めつけられる。

 自然と胸元へ手を当てる。

(今日から私は……。)

 目を閉じる。

(リナ。)

 昨日、自分で選んだ名前。

 偽りの名。

 けれど、この城では本当の自分よりも大切な名前になる。

 そして、その奥には誰にも知られてはいけない、本当の名がある。

(アイリス。)

 ゼノスが呼んでくれた名前。

 マリアが呼んでくれた名前。

 オルフェンが微笑みながら口にした名前。

 その名を今は胸の奥へしまっておく。

 失われたわけではない。

 忘れるわけでもない。

 神器アイオーンを見つけ、もう一度皆の前へ帰る、その日まで。

 アイリスはゆっくりと目を開き、小さく微笑んだ。

「頑張ろう。」

 その声は、自分自身へ向けた約束だった。

 その時だった。

 コン、コン。

 規則正しく扉が叩かれる。

「リナさん。おはようございます。」

 穏やかな声に、アイリスはすぐ扉へ向かった。

「はい。」

 扉を開けると、そこには昨日と変わらない柔らかな笑みを浮かべたエレナが立っていた。

「おはようございます。」

 アイリスは深く頭を下げる。

 エレナは制服姿のアイリスを見つめ、嬉しそうに目を細めた。

「とてもよくお似合いですよ。」

 思いがけない言葉に、アイリスは少しだけ照れたように笑う。

「ありがとうございます。」

「昨夜は眠れましたか?」

「はい。おかげさまで。」

「それは良かったです。」

 エレナは安心したように微笑む。

 その穏やかな笑顔には、不思議と人を落ち着かせる力があった。

「緊張されていますか?」

 優しい問い掛けに、アイリスは少しだけ考え、

「……はい。」

 と素直に答えた。

 嘘をついても仕方がない。

 王直属メイドとして働く初日なのだ。

 緊張しない方がおかしい。

 エレナは小さく笑った。

「皆さん、最初はそうですよ。」

 その一言だけで、胸を締めつけていた緊張が少しだけ和らぐ。

「焦らなくても大丈夫です。」

「一歩ずつ覚えていけば、きっと立派な王直属メイドになれます。」

 アイリスは静かに頷いた。

「ありがとうございます。」

「では参りましょう。」

「よろしくお願いいたします。」

 二人は寮を出て、王城の廊下を歩き始めた。

 朝の王城は、静かな活気に満ちていた。

 使用人たちは忙しく行き交っている。

 それでも慌ただしさは感じない。

 誰もが決められた役割を理解し、落ち着いて動いているからだ。

 廊下は隅々まで磨き上げられ、窓から差し込む朝日を鏡のように映している。

 花瓶に生けられた花は一本も乱れず、どこを見ても手入れが行き届いていた。

「王直属メイドのお仕事は、お茶をお出しするだけではありません。」

 歩きながらエレナが話し始める。

「王族のお世話はもちろん、来賓への応対、式典の準備、城内の管理など、多くの役目があります。」

 アイリスは真剣な眼差しで耳を傾ける。

「それぞれ担当はありますが、忙しい時には皆で助け合います。」

「助け合う……。」

「はい。」

 エレナは穏やかに微笑んだ。

「一人でできることには限りがあります。」

「だからこそ、仲間を信頼することも、大切な仕事なのです。」

 その言葉は、どこか神殿でオルフェンから聞いた教えによく似ていた。

 人は一人では生きられない。

 魔法も、人も、支え合うことで力になる。

 アイリスは静かに頷く。

「それから。」

 エレナは少しだけ表情を引き締めた。

「王城では規律が何よりも大切です。」

「身だしなみ。」

「言葉遣い。」

「時間。」

「小さな積み重ねが、王城への信頼に繋がります。」

「はい。」

 アイリスの返事にも自然と力が入る。

 しかしエレナはすぐ柔らかな笑顔へ戻った。

「ですが、最初から完璧な方はいません。」

 アイリスが顔を上げる。

「焦らなくて大丈夫です。」

「一つずつ覚えていけば、それで十分ですよ。」

 その言葉に、胸の奥の張り詰めた糸がゆっくりとほどけていく。

「……ありがとうございます。」

「こちらこそ。」

 エレナは優しく微笑み返した。

 二人はさらに奥へ歩いていく。

 やがて、人通りの少ない静かな廊下へ入った。

 先ほどまでとは空気が違う。

 自然と足音まで小さくなる。

 廊下の最奥。

 一枚の重厚な扉の前で、エレナは立ち止まった。

「ここが、王直属メイド長室です。」

 その一言に、アイリスは思わず背筋を伸ばす。

 これから会うのは、王直属メイド全員を束ねる人物。

 昨日は姿を見なかった、本当の上司だ。

 エレナは扉を静かに二度叩いた。

「イライザ様。新人をお連れいたしました。」

 しばらくして、扉の向こうから落ち着いた女性の声が返ってくる。

「入りなさい。」

 短いその一言だけで、廊下の空気が張り詰めた。

 エレナはゆっくりと扉を開ける。

「失礼いたします。」

 アイリスも深く一礼し、その後に続いた。

     ◇

 部屋へ一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 決して冷たいわけではない。

 しかし、自然と背筋が伸びるような張り詰めた空気が部屋を満たしている。

 壁際には重厚な本棚が整然と並び、分厚い帳簿や資料が一冊の乱れもなく収められていた。

 机の上にも大量の書類が積まれているが、散らかった印象はまるでない。

 必要なものだけが、必要な場所へ置かれている。

 無駄のない部屋だった。

 その中央。

 一人の女性が机へ腰掛けていた。

 年の頃は五十代ほど。

 年齢を感じさせる落ち着きを纏いながらも、姿勢は真っ直ぐ伸びている。

 艶のある黒髪をきっちりと後ろでまとめ、濃紺の制服を寸分の乱れもなく着こなしていた。

 その焦茶の瞳が、静かにアイリスへ向けられる。

 鋭く睨みつけるような視線ではない。

 それなのに、その眼差しだけで自然と襟を正したくなる威厳があった。

 アイリスは無意識に呼吸を整える。

 この人が、王直属メイド長。

 王城で働くすべての直属メイドを束ねる人物。

「初めまして。」

 静かな声だった。

 大きくもない。

 けれど、部屋の隅々までよく通る。

「私はイライザ。王直属メイド長を務めています。」

 アイリスは深く頭を下げる。

「本日よりお世話になります。リナと申します。よろしくお願いいたします。」

「顔を上げなさい。」

 穏やかな声に促され、ゆっくりと顔を上げる。

 イライザはしばらく何も言わず、アイリスを見つめていた。

 沈黙が流れる。

 その時間は数秒だったはずなのに、ずっと長く感じられた。

 視線が身体を見ているのではない。

 心の奥まで見透かされているような、不思議な感覚だった。

 やがてイライザが静かに口を開く。

「エレナから話は聞いています。」

「はい。」

「本日より、あなたは王直属メイドの一員です。」

 その一言が、胸へ静かに落ちる。

 昨日、採用を告げられた時とは違う。

 直属メイド長の口から告げられたことで、初めて現実として実感した。

「王直属メイドは、王族に仕えるだけの存在ではありません。」

 一拍置いて続ける。

「この王城の品格を支える者です。」

 部屋の空気がさらに引き締まる。

「あなた方の所作一つ。」

「言葉一つ。」

「立ち居振る舞い一つ。」

「そのすべてが、王城そのものの印象になります。」

 アイリスは真っ直ぐに頷いた。

「責任は決して軽くありません。」

 厳しい言葉だった。

 しかし、不思議と怖さは感じない。

 その言葉には責める響きではなく、期待が込められていた。

 イライザはほんのわずかに表情を和らげる。

「ですが。」

「必要以上に気負うこともありません。」

 アイリスは思わず顔を上げた。

「最初から完璧な者など、一人もいません。」

「分からないことは聞きなさい。」

「失敗したなら、次に活かしなさい。」

「その積み重ねが、信頼へと繋がります。」

 アイリスは力強く返事をした。

「はい。」

 イライザは静かに頷く。

 ほんのわずかに口元が緩んだ。

 笑ったと言うにはあまりにも小さな変化だったが、その一瞬だけ部屋の空気が柔らかくなる。

「期待しています。」

 たった一言。

 それだけで胸の奥が熱くなった。

(この方の期待に応えたい。)

 自然とそう思っていた。

 イライザはエレナへ視線を向ける。

「教育係は決まっていますね。」

「はい。」

 エレナが一礼する。

「すでにお待ちいただいております。」

「入りなさい。」

 イライザの声が部屋の外へ届く。

「失礼いたします。」

 明るく張りのある返事が聞こえた。

 扉が静かに開く。

 入ってきたのは、一人の若い女性だった。

 年齢は二十代半ばほど。

 艶のある赤毛を短く切り揃えたショートヘア。

 健康的に引き締まった体つきで、姿勢にも無駄がない。

 快活さを感じさせる顔立ちだが、イライザの前へ立つとその表情は自然と引き締まっていた。

 アイリスは思わず見入る。

(綺麗な人……。)

 女性はイライザの前まで歩み寄ると、美しい所作で一礼した。

「お呼びでしょうか、イライザ様。」

 敬語にも、一切の乱れがない。

 尊敬の気持ちがそのまま言葉に表れている。

「リンネ。」

「はい。」

「今日からこの子の教育係を任せます。」

 リンネはアイリスへ一瞬だけ視線を向け、すぐにイライザへ向き直る。

「かしこまりました。」

 その返事には迷いがなかった。

「責任を持って、一人前の王直属メイドに育てます。」

「お願いします。」

「はい。」

 短い会話。

 それだけで、二人の間に長年築かれた信頼関係が感じられた。

 イライザは小さく頷く。

「以上です。」

「業務へ戻りなさい。」

「失礼いたします。」

 リンネは再び深く頭を下げた。

 アイリスも慌てて続く。

「失礼いたします。」

 二人は静かに部屋を後にした。

 扉が閉まる。

 その瞬間だった。

「ふぅー……。」

 リンネが大きく息を吐いた。

 肩から力が抜ける。

「やっぱ緊張するなぁ……。」

 さっきまでとは別人のようだった。

 アイリスは思わず目を丸くする。

「え……?」

「ん?」

 リンネが振り返る。

「どうかした?」

「いえ、その……。」

「イライザ様の前と、雰囲気が違うので……。」

「あー。」

 リンネは照れくさそうに頭をかいた。

「そりゃ違うよ。」

「イライザ様だもん。」

 少し笑って続ける。

「もちろん普段から失礼なことはしないけどさ。」

「尊敬してる人の前だと、やっぱ自然と背筋伸びるんだよね。」

 その笑顔には無理がなかった。

 イライザを恐れているのではない。

 本当に尊敬しているのだと分かる。

「でも安心しな。」

 リンネは優しく笑う。

「厳しい人だけど、ちゃんとあたしたちを見てくれてる。」

「頑張ったことも、失敗したことも全部ね。」

 アイリスは小さく頷いた。

 ほんの短い時間だったが、それは自分も感じていた。

「さて。」

 リンネは手を軽く叩く。

「今日からあたしが教育係。」

「よろしく、リナ。」

「よろしくお願いいたします。」

 アイリスが頭を下げると、リンネは苦笑した。

「そんな固くなんなくていいって。」

「最初なんて、みんなそんなもんだから。」

 その口調は少しぶっきらぼうだったが、不思議と温かい。

「分かんないことがあったら、遠慮しないで聞きな。」

「勝手に悩まれる方が、あたしは困るし。」

 アイリスは思わず笑みを浮かべた。

「はい。」

「うん、それでよし。」

 リンネは満足そうに頷く。

「じゃ、まずは城の中を覚えよう。」

「知らない場所じゃ仕事になんないからさ。」

 二人は並んで歩き始めた。

 長い廊下の向こうには、新しい世界が静かに広がっていた。

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