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白銀の猫と創生の魔女  作者: 金林明莉
第三章 王城

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第2話 リナ

 『さて……まずは、王城へ入る方法を探さないと。』

 と先ほど呟いたものの神器を探す前に、まず解決しなければならない問題がある。

 生活する場所だった。

 王都での探索は一日や二日で終わるとは思えない。

 腰を据えて情報を集めるには、安心して休める場所が必要だった。

 大通りを少し歩くと、一軒の宿屋が目に入る。

 木製の看板には『旅籠・白鳥亭』と書かれていた。

 扉を開けると、受付にいた女性が笑顔で迎えてくれる。

「いらっしゃいませ。一泊ですか?」

「はい。それと……長く泊まる場合のお値段も教えていただけますか?」

 女性は帳簿を開きながら答えた。

「一泊が銀貨二枚。長期でしたら一日銀貨一枚半ですね。」

 アイリスは礼を言い、静かに宿を後にした。

(思っていたより……高い。)

 気を取り直し、別の宿へ向かう。

 二軒目。

 三軒目。

 四軒目。

 どこも多少の違いはあっても、大きく値段は変わらなかった。

「申し訳ありません。また考えてまいります。」

 宿の主人へ頭を下げ、外へ出る。

 昼前の日差しは少しずつ強くなり、人通りもさらに増えていた。

 人々は慣れた様子で通りを歩いていく。

 仕事へ向かう者。

 買い物を楽しむ親子。

 談笑する若者たち。

 自分だけが、この街に居場所を見つけられず立ち尽くしているような気がした。

 近くの広場まで歩き、噴水のそばに置かれた木製のベンチへ腰を下ろす。

 噴水から流れ落ちる水音が、街の喧騒を少しだけ遠ざけてくれた。

 アイリスは荷物の中から財布を取り出し、中身を静かに数える。

 金貨。

 銀貨。

 決して少なくはない。

 だが、一か月。

 二か月。

 半年。

 神器探しがどれほど長引くか分からない以上、安心して使える額ではなかった。

 旅立つ際、ゼノスは当面の旅費を持たせてくれた。

 決して少ない額ではない。

 けれど、それは長い旅を続けるための大切な資金だった。

 宿代だけで使い切ってしまうわけにはいかない。

(宿暮らしでは……長くはいられない。)

 旅人として王都を歩き回るだけでは、情報も限られる。

 生活費を気にしながら探索を続ければ、焦りも生まれるだろう。

 もっと別の方法を考えなければならない。

 そう思いながら噴水の水面を眺めていると、不意に近くを歩く二人の女性の会話が耳に入った。

「今年は王城の募集が多いらしいわ。」

「王直属なんでしょう?私じゃ緊張して無理よ。」

「でも住み込みで食事付きなんて、すごくいい条件じゃない。」

 王城。

 その言葉に、アイリスは顔を上げた。

 二人の視線の先には、大きな掲示板がある。

 多くの人が足を止め、貼り紙を眺めていた。

 何気なく近付く。

 商店員。

 薬師助手。

 配達人。

 護衛見習い。

 さまざまな募集が並ぶ中、一枚だけ上質な羊皮紙に書かれた募集が目を引いた。

 『王直属メイド募集』

 その文字を見た瞬間、アイリスの胸の中で、止まりかけていた時間が再び動き出した。

 (これだ……!)

 アイリスは、その文字をしばらく見つめていた。

 住み込み。

 食事付き。

 制服貸与。

 給与支給。

 王城勤務。

 一つひとつの条件を読み進めるたび、先ほどまで抱えていた悩みが少しずつほどけていく。

 宿代を心配する必要がない。

 生活費も抑えられる。

 王都で腰を据えて暮らすことができる。

 そして何より――王城で働ける。

 思わず視線が城へ向く。

 青空の下、白亜の城は静かに街を見下ろしていた。

 あの中には王家の書庫もあるだろう。

 歴史を記した古文書も。

 代々受け継がれてきた宝物も。

 神器アイオーンに繋がる手掛かりが眠っている可能性は十分にあった。

 もちろん、王直属メイドになったからといって自由に城内を歩き回れるわけではない。

 立ち入りを許される場所は限られるだろう。

 それでも。

(何も知らずに街を歩き続けるよりは……。)

 一歩、近づける。

 その一歩は、今のアイリスにとって何よりも大きかった。

 羊皮紙をそっと見つめながら、小さく拳を握る。

(ここしかない。)

 その言葉が胸の中へ落ちた瞬間、不思議と迷いは消えていた。

     ◇

 アイリスは募集要項に記された受付場所へ向かって歩き始める。

 王城へ近づくにつれ、人々の服装も少しずつ変わっていった。

 商人よりも役人の姿が増え、鎧を身に着けた騎士たちが城門を警備している。

 行き交う人々もどこか落ち着いていて、この場所が王国の中心なのだと自然に伝わってきた。

 やがて、正門の脇に小さな建物が見えてくる。

 入口には「採用受付」と書かれた立て札が立ち、十人ほどの女性たちが順番を待っていた。

 アイリスも最後尾へ静かに並ぶ。

 誰もが少し緊張した面持ちだった。

 ある者は身だしなみを整え、ある者は小さく深呼吸を繰り返している。

 その様子を見ながら、アイリスも胸元へそっと手を当てた。

 鼓動は少し速い。

 面接が初めてだからではない。

 もっと別の理由だった。

 列がゆっくりと進んでいく。

 王城の門を見上げるたび、これまで歩んできた道のりが思い返された。

 孤児院で過ごした幼い日々。

 ゼノスと旅をした数年間。

 オルフェンと静かに暮らした神殿。

 そのすべてで、自分は「アイリス」だった。

 マリアが優しく呼んでくれた名前。

 ゼノスが豪快に笑いながら呼んでくれた名前。

 オルフェンが穏やかな声で呼んでくれた名前。

 その名前とともに、嬉しかったことも、悲しかったことも積み重ねてきた。

 だからこそ――。

(ここでは、その名前は使えない。)

 胸の奥が、小さく痛んだ。

 もしゼノスの弟子だと知られれば、余計な注目を集めるかもしれない。

 神器を探していることも、魔蝕病を患っていることも、決して知られてはならない。

 ここでは、一人のメイドとして暮らす。

 それがアイオーンへ辿り着くための第一歩なのだ。

 やがて順番が来る。

 受付の女性は柔らかな笑みを浮かべ、羊皮紙を差し出した。

「ようこそ。本日はご応募ありがとうございます。」

 穏やかな声に、少しだけ肩の力が抜ける。

「まず、お名前をお願いいたします。」

 名前。

 その一言だけで、手が止まった。

 羽根ペンを持つ指先に、わずかに力が入る。

 自然と書き慣れた文字が頭に浮かんだ。

 アイリス。

 何度も書いてきた、自分自身の名前。

 けれど、その名前を書けば、この先何が起こるか分からない。

 アイリスは静かに目を閉じる。

(ごめんなさい。)

 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 ゼノスへ。

 オルフェンへ。

 マリアへ。

 それとも、自分自身へ。

 ゆっくりと息を吸い、胸の奥へ本当の名前をそっとしまい込む。

 この名前を捨てるわけではない。

 神器を見つけ、皆のもとへ帰るその日まで、大切に預けておくだけ。

 そう思うと、不思議と心は静かになった。

 羽根ペンが羊皮紙の上を滑る。

 書き記したのは、新しい名前。

 リナ。

 受付係が文字を確認し、にこやかに頷く。

「ありがとうございます。リナさんですね。」

「……はい。」

 小さく返事をすると、受付係は穏やかな笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。それでは面接のお部屋へご案内いたします。」

 案内された廊下は、外の賑わいが嘘のように静かだった。

 磨き上げられた床には窓から差し込む陽光が映り込み、壁には王家の紋章が等間隔に掲げられている。

 足音だけが、静かな廊下へ小さく響いた。

(ここが……王城。)

 初めて足を踏み入れる場所。

 胸の鼓動は少しずつ速くなる。

 それでもアイリスは周囲を見回すことなく、案内役の後ろを一定の距離で歩いた。

 やがて、一枚の扉の前で案内役が立ち止まる。

「こちらでございます。」

 軽く扉が叩かれた。

「失礼いたします。本日の応募者をお連れしました。」

「どうぞ。」

 落ち着いた女性の声が返ってくる。

 アイリスは一礼し、静かに部屋へ入った。

 室内は質素だった。

 応接用の机と椅子。

 壁際には整然と書類棚が並び、窓辺には一輪の白い花が飾られている。

 華やかではない。

 それでも隅々まで手入れが行き届いており、清潔感があった。

 机の向こうに座る女性が穏やかに微笑む。

「どうぞ、お掛けください。」

「失礼いたします。」

 一礼してから椅子へ向かう。

 音を立てないよう静かに椅子を引き、姿勢を崩さず腰を下ろした。

 女性はその様子を静かに見つめ、小さく頷く。

「私は王直属メイド長補佐のエレナと申します。本日はよろしくお願いいたします。」

「よろしくお願いいたします。」

 エレナは履歴書へ目を落とした。

「それでは、いくつか質問をさせていただきます。」

「はい。」

「読み書きはできますか。」

「できます。」

「計算は。」

「日常生活で困らない程度でしたら。」

「掃除や洗濯の経験はありますか。」

「幼い頃から身の回りのことは自分でしておりましたので、一通りできます。」

「料理は。」

「簡単な家庭料理でしたら作れます。」

 エレナは静かに書き留めていく。

「共同生活は問題ありませんか。」

「ありません。」

「規律を守ることはできますか。」

「はい。」

「早朝からの勤務になることもあります。」

「承知しております。」

 一通り質問を終えたところで、エレナはペンを置いた。

「では、最後に三つだけ、お聞きします。」

 アイリスは背筋を伸ばした。

「はい。」

「あなたが廊下を歩いている時、重い荷物を抱えた使用人と、急いで走ってくる騎士がいました。通路は一人が通れるほどの広さです。あなたなら、どうしますか。」

 少し考え、答える。

「まず立ち止まり、お二人が安全に通れるよう道を譲ります。」

「なぜですか。」

「急いでいる方の邪魔をしてしまうかもしれませんし、荷物を落としてしまうこともあると思います。私が立ち止まるのが一番安全だと思います。」

 エレナは小さく頷いた。

「では二つ目です。」

「主人から急ぎの用事を頼まれている途中、別の使用人が困っていました。どちらを優先しますか。」

 一瞬だけ考える。

「主人からの用事を優先いたします。」

 エレナは静かに続きを待った。

「ただ、その方が一人では危険な状況でしたら、近くの方へ助けをお願いしてから向かいます。どちらも放っておくことはしたくありません。」

 エレナの表情が少しだけ和らぐ。

「最後です。」

 優しい声だった。

「あなたにとって、よいメイドとはどのような人でしょうか。」

 アイリスは少しだけ視線を落とした。

 ゼノスとの旅。

 孤児院。

 神殿。

 多くの人の顔が思い浮かぶ。

「……誰かのために動ける人だと思います。」

 静かに言葉を紡ぐ。

「目立つことではなくても、誰かが安心して笑って過ごせるよう支えることができる人です。」

 神器のことは言えない。

 魔蝕病のことも言えない。

 けれど、この言葉だけは本心だった。

 エレナはしばらくアイリスを見つめる。

 答えだけではない。

 考える時間。

 言葉の選び方。

 姿勢。

 視線。

 その一つひとつを確かめるように。

 やがて静かに微笑んだ。

「ありがとうございました。」

 立ち上がり、一礼する。

「結果が出るまで少々お待ちください。」

「はい。」

 部屋に静けさが戻る。

 アイリスは膝の上で両手を重ね、小さく息を吐いた。

(できることは、すべてした。)

 もし採用されなくても、別の方法を探せばいい。

 神器へ続く道は、一つではない。

 そう自分へ言い聞かせながら、窓の外を眺める。

 中庭では庭師が丁寧に花壇の手入れをしていた。

 穏やかな時間が流れている。

 しばらくして扉が開いた。

 エレナが部屋へ戻ってくる。

 アイリスは静かに立ち上がった。

「お待たせいたしました。」

 一拍置き、エレナは柔らかく微笑んだ。

「リナさん。本日付で、王直属メイドとして採用いたします。」

 一瞬、言葉が理解できなかった。

 胸の奥に張り詰めていたものが、ゆっくりほどけていく。

「……ありがとうございます。」

 自然と頭が深く下がった。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」

 エレナは制服一式を差し出した。

「寮のお部屋をご案内いたします。明日から勤務となりますので、本日はゆっくりお休みください。」

「よろしくお願いいたします。」

 制服を受け取り、寮へ案内される。

 部屋は決して広くはなかったが、清潔で陽当たりも良く、一人で暮らすには十分だった。

 荷物を置き、渡された制服へ袖を通す。

 鏡の前へ立つ。

 そこには、王直属メイドの制服を身にまとった少女が映っていた。

 見慣れた自分のはずなのに、どこか少しだけ違って見える。

 胸元へそっと手を当てる。

 胸の奥には、誰にも知られてはいけない名前がある。

 ゼノスが呼んでくれた名前。

 オルフェンが呼んでくれた名前。

 マリアが優しく呼んでくれた名前。

 アイリス。

 その名前を捨てたわけではない。

 神器アイオーンを見つけ、皆のもとへ帰るその日まで。

 大切な名前を、胸の奥で守るだけ。

 夕暮れの鐘が王城に静かに響き渡る。

 王城では、今日から「リナ」として生きる。

 少女の新しい日々が、始まった。


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