第17話 唯一の希望
春を迎える頃。
魔蝕病と診断されてから、数か月が過ぎていた。
神殿の日常は、一見すると以前と変わらない。
朝になれば三人で食卓を囲み、昼はそれぞれ研究や仕事へ向かう。
笑い声もある。
穏やかな時間もある。
けれど、その日常の裏では、誰もが戦っていた。
◇
アイリスは魔力封印術式を自らへ施していた。
身体の奥深くへ刻まれた術式が静かに輝く。
魔力は以前より大きく抑えられ、創生魔法も自由には使えない。
それでも。
「少し楽ですね。」
以前のような激しい疲労は減っていた。
オルフェンも安堵したように微笑む。
「侵食も落ち着いています。」
「術式は成功です。」
アイリスは胸を撫で下ろした。
治ったわけではない。
それでも、時間は稼げた。
それだけでも十分だった。
◇
一方で、ゼノスは相変わらず世界中へ手紙を書き続けていた。
「北の研究者から返事です。」
「こっちは東の神殿。」
机には何十通もの返信が積み重なっている。
しかし。
どれも同じだった。
『記録なし。』
『前例なし。』
『治療法不明。』
ゼノスは返事を読み終えるたび、新しい便箋を広げる。
「まだだ。」
「絶対どこかにある。」
その姿を、アイリスは少し離れた場所から見つめていた。
◇
オルフェンもまた、研究を続けていた。
魔蝕病抑制術式の改良。
魂への負担を少しでも減らす方法。
古代文献の再調査。
休むことなく研究を続けている。
三人とも同じだった。
誰一人、諦めていない。
◇
ある日の午後。
アイリスは神殿の禁書庫で古い文献を探していた。
「魂について……。」
「古代契約……。」
本棚を一冊ずつ確認していく。
埃を払う。
ページをめくる。
何冊読んでも成果はない。
その時だった。
一冊だけ、背表紙のない古びた本が目に留まった。
「これは……。」
慎重に開く。
ページの多くは欠けていた。
読める部分も少ない。
それでも、一行だけ。
かろうじて残っていた文章があった。
『神器アイオーンは、魂を癒やす――』
その先は破れている。
方法も。
理由も。
何も残っていない。
「魂を……癒やす。」
アイリスは息を呑んだ。
魔蝕病は魂を侵食する病。
もし、この文章が本当なら。
「師匠!」
本を抱え、走り出した。
◇
研究室へ飛び込む。
「これを見てください!」
ゼノスとオルフェンは顔を上げる。
文献を受け取り、二人も目を見開いた。
「神器アイオーン……。」
オルフェンが小さく呟く。
「ですが、この先がありません。」
「肝心な部分が失われています。」
ゼノスは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「アイオーン……。」
その名前で、一つの出来事が蘇る。
以前届いた返答。
『現在の世界法則では、魔蝕病を治療する方法は存在しません。』
あの一文。
アイリスも同じことを考えていた。
「師匠。」
「……ああ。」
二人の視線が重なる。
「アイオーンは。」
アイリスは静かに言った。
「"世界にある治療法"が存在しないとは答えました。」
一拍置く。
「でも。」
「アイオーン自身に、その力がないとは言っていません。」
研究室が静まり返る。
オルフェンも、その意味へ気付く。
「つまり……。」
「可能性は、ある。」
ゼノスが静かに呟いた。
希望だった。
初めて見えた、小さな光だった。
研究室には静かな沈黙が流れていた。
机の上には、欠けた古文書が一冊。
そこへ残されていた、たった一文。
『神器アイオーンは、魂を癒やす――』
その続きを知る術は、もうない。
それでも三人は、その短い文章から目を離せなかった。
「問題は。」
最初に口を開いたのはオルフェンだった。
「アイオーンへ直接問い掛ける方法です。」
神器アイオーンは王家が管理する国宝。
誰でも会える存在ではない。
対話を許されるのは、基本的に国王だけ。
神殿の賢者であっても自由には会えない。
「王家へ正式に願い出るしかありません。」
オルフェンが静かに言う。
ゼノスも腕を組んだまま頷いた。
「だが。」
「今ある情報だけじゃ動けねぇ。」
たった一行の欠けた文献。
それだけでは王家を動かすには弱すぎる。
希望ではある。
しかし、確証ではない。
◇
その日の夜。
アイリスは一人、神殿の回廊を歩いていた。
夜風が頬を撫でる。
ふと、研究室の前を通り掛かる。
中から明かりが漏れていた。
(まだ起きてる……。)
静かに扉の隙間から覗く。
そこにはゼノスとオルフェンの姿があった。
机いっぱいに積まれた文献。
世界地図。
各地から届いた返書。
どちらも疲れ切った表情をしている。
それでも手は止まらない。
「北方神殿はこれで全部か。」
「はい。」
「では次は西方です。」
「……ああ。」
短い会話だけが続く。
何十枚もの紙。
何百冊もの本。
すべて、自分を救うためだった。
アイリスは何も知らなかった。
二人が、自分の見えないところで、ここまで必死になっていたことを。
静かに扉から離れる。
胸の奥が締め付けられる。
(私のために……。)
師匠は眠る時間まで削っている。
オルフェンも休まず研究を続けている。
これ以上、二人へ負担を掛けたくない。
そんな思いが心の中で大きくなっていった。
◇
翌朝。
三人はいつものように朝食を囲んでいた。
穏やかな時間。
焼きたてのパンの香り。
それでもアイリスは決意していた。
「師匠。」
ゼノスが顔を上げる。
「何だ。」
「私、王都へ行きます。」
ナイフを持つ手が止まる。
「……。」
オルフェンも驚いたように顔を上げた。
「神器アイオーンのことを。」
「もっと調べたいんです。」
「今ここで待っているだけじゃなくて。」
「私自身も動きたい。」
静かな声だった。
だが、その瞳に迷いはなかった。
ゼノスはしばらく何も言わなかった。
腕を組み、目を閉じる。
「駄目だ。」
短く答える。
「まだ身体が万全じゃねぇ。」
「危険過ぎる。」
アイリスも引かなかった。
「だからこそです。」
「時間は、そんなにありません。」
「動ける今だから行きたいんです。」
真っ直ぐ師を見る。
「助けてもらうだけじゃなくて。」
「私も、自分の未来を探したい。」
その言葉に、ゼノスは返す言葉を失う。
昔、森で出会った少女とは違う。
自分で考え。
自分で決める。
そんな魔法使いへ成長していた。
長い沈黙のあと。
ゼノスは小さく笑った。
「……頑固だな。」
「師匠譲りです。」
「言うようになった。」
二人とも少し笑う。
ゼノスは立ち上がり、アイリスの頭へぽんと手を置いた。
「全部、一人で抱え込むな。」
「困ったら必ず頼れ。」
「俺は、お前の師匠だ。」
アイリスは力強く頷く。
「はい。」
オルフェンは棚から一冊の古い地図を取り出した。
「これは王都までの街道です。」
「各地の神殿や宿場町も書き込んであります。」
さらに数冊の資料も差し出す。
「困った時は、各地の神殿を頼ってください。」
「必ず力になります。」
「ありがとうございます。」
深く頭を下げる。
◇
旅立ちの朝。
神殿の門の前で、ゼノスがふと問い掛けた。
「アイリス。」
「はい。」
ゼノスは静かに笑う。
「魔法って何だ。」
七年前。
旅へ出たばかりの夜。
焚き火の前で尋ねた、あの質問だった。
アイリスは迷わず答える。
「人を幸せにするものです。」
その言葉を聞いたゼノスは、心から嬉しそうに笑った。
「……満点だ。」
アイリスは神殿を振り返る。
ここも、大切な帰る場所。
だから必ず帰ってくる。
そう心へ誓い、一歩踏み出した。
王都へ続く街道。
春風がローブを揺らす。
その背中を、ゼノスとオルフェンは見えなくなるまで見送り続けた。
◇
一方、その頃。
神殿の奥深く。
禁書庫では、一人の青年が静かに古文書を閉じていた。
その指先が触れていたのは、先ほどアイリスが読んでいたものと同じ系統の古い記録だった。
青年は欠けた一節へ静かに視線を落とす。
「神器アイオーン……。」
誰へ聞かせるでもなく、小さく呟く。
そして本を棚へ戻し、音もなく歩き去っていく。
その目的も、その名も、まだ誰も知らない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
アイリスが王都へ向かうその先で、止まっていた運命は再び動き始める。




