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白銀の猫と創生の魔女  作者: 金林明莉
第二章 師弟

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第16話 魔蝕病

 翌朝。

 神殿には、いつもと変わらない朝が訪れていた。

 窓から差し込む柔らかな陽射し。

 食堂に漂う焼きたてのパンの香り。

 穏やかな時間が流れている。

 しかし、ゼノスとオルフェンの表情だけは少し硬かった。

「アイリス。」

 朝食を終えた頃、ゼノスが静かに口を開いた。

「今日、少し時間あるか。」

「はい?」

 アイリスは首を傾げる。

「どうかしたんですか?」

「身体を診てもらえ。」

 一瞬、場が静かになる。

「え?」

「最近、疲れやすいだろ。」

「……。」

 アイリスは小さく笑った。

「寝不足ですよ。」

「少し休めば治ります。」

 そう言って立ち上がろうとする。

 しかしオルフェンが優しく声を掛けた。

「アイリスさん。」

 穏やかな声だった。

「何もないことを確認するためです。」

「もし本当に疲れだけなら、それで安心できます。」

「……。」

 その言葉に、アイリスは返す言葉を失った。

 心配してくれている。

 それは痛いほど伝わってくる。

「……分かりました。」

 小さく頷いた。

「お願いします。」

     ◇

 神殿の診察室。

 普段は怪我人や病人を診るための部屋だが、この日は特別な術式が準備されていた。

 床一面に描かれた巨大な魔法陣。

 魔力測定器。

 古代術式が刻まれた水晶。

 神殿でも最高水準の検査設備だった。

「そこへ座ってください。」

 オルフェンが静かに促す。

 アイリスは椅子へ腰掛けた。

「少し魔力を流します。」

「痛みはありません。」

「はい。」

 水晶へ手を置く。

 淡い光がゆっくり広がった。

 魔法陣が静かに起動する。

 空気が張り詰める。

 最初は何も異常はなかった。

 魔力量。

 魂との共鳴率。

 属性の流れ。

 すべて正常。

 しかし。

 古代術式が深層まで解析を始めた、その瞬間だった。

 水晶の光が突然揺らぐ。

「……?」

 オルフェンの表情が変わる。

 術式をもう一段階展開する。

 魂の深部。

 通常なら決して触れない領域。

 そこを映し出した瞬間。

 光の中へ黒い靄のようなものが浮かび上がった。

「これは……。」

 ゼノスも思わず立ち上がる。

 黒い靄は魔力ではない。

 しかし魔力へ絡み付くように、魂の奥深くまで侵食していた。

「……。」

 診察室が静まり返る。

 オルフェンは何度も術式を確認する。

 見間違いではない。

 もう一度。

 さらにもう一度。

 結果は変わらなかった。

 長い沈黙のあと。

 オルフェンはゆっくり術式を解除した。

 水晶の光が消える。

 部屋へ静寂だけが残った。

「オルフェン?」

 ゼノスが低く尋ねる。

 返事はない。

 オルフェンは目を閉じ、小さく息を吐いた。

 その表情は、今まで見たことがないほど苦しかった。

「……オルフェンさん?」

 アイリスも不安そうに声を掛ける。

 しかし返事はない。

 やがてオルフェンは静かに目を開いた。

 そしてアイリスを真っ直ぐ見つめる。

「落ち着いて聞いてください。」

 その一言だけで、部屋の空気が変わった。

 アイリスも自然と背筋を伸ばす。

「あなたの魂には。」

 一拍置く。


「魔力による侵食が確認されました。」


「……え?」

 聞き慣れない言葉だった。

 侵食。

 魂。

 意味が結び付かない。

 オルフェンは苦しそうに言葉を続ける。

「病名は――。」

 静かな声が診察室へ響く。


「魔蝕病です。」


 アイリスは言葉を失った。

「……魔蝕病。」

 初めて聞く病名だった。

「それは……。」

「どんな病気なんですか。」

 震える声だった。

 オルフェンは資料を閉じる。

「魔力が魂を少しずつ侵食し続ける病です。」

「進行すれば魔力制御が乱れ、やがて身体そのものにも影響が現れます。」

「そして最後には……。」

 言葉が止まる。

 代わりにゼノスが静かに尋ねた。

「治るんだろ。」

 その声には、まだ希望があった。

 オルフェンは答えない。

 ただ静かに俯く。

「……オルフェン。」

 ゼノスの声が少し強くなる。

「治療法は。」

 オルフェンはゆっくり首を横へ振った。

「現在確認されている治癒魔法。」

「古代魔法。」

「神殿の記録。」

「すべて調べても。」

 そして苦しそうに告げる。

「完治した例は、一件もありません。」

 診察室から音が消えた。

 その沈黙だけが、現実の重さを物語っていた。

 診察室は、静まり返っていた。

 誰も言葉を発せない。

 時計の針だけが、静かに時を刻んでいる。

 アイリスは膝の上で握り締めた自分の手を見つめていた。

「……私が。」

 小さく呟く。

「病気……なんですね。」

 涙は出なかった。

 まだ現実として受け止め切れていない。

 頭では理解している。

 けれど心が追いつかない。

「だから最近……。」

 橋の村で震えた手。

 雪国での立ちくらみ。

 神殿で感じた息苦しさ。

 胸の痛み。

 すべてが一本の線で繋がっていく。

「そういうことだったんですね……。」

 静かに目を伏せた。

 重苦しい空気を破ったのは、ゼノスだった。

「治療法は俺が見つける。」

 力強い声だった。

 迷いは一切ない。

「師匠……。」

 アイリスが顔を上げる。

「絶対に諦めねぇ。」

 ゼノスは真っ直ぐ弟子を見る。

「世界中ひっくり返してでも探す。」

「賢者だろうが王だろうが関係ねぇ。」

「治す方法があるなら必ず見つける。」

 その言葉に、アイリスの胸が熱くなる。

 自分より先に、師匠が未来を信じてくれている。

 それだけで救われる気がした。

 オルフェンも静かに口を開く。

「私も調べます。」

「神殿に残るすべての記録。」

「各地の神殿。」

「歴代賢者の研究。」

「まだ見落としているものがあるかもしれません。」

 穏やかな口調だった。

 だが、その瞳には強い決意が宿っていた。

 三人とも、まだ諦めていない。

 それだけが唯一の救いだった。

     ◇

 その日から、神殿の空気は少し変わった。

 ゼノスは各国の賢者や研究者へ次々と書簡を送る。

 魔蝕病について記録が残っていないか。

 治療法を知る者はいないか。

 寝る間も惜しんで調べ続けた。

 オルフェンも図書館へ籠もり、古代文献を一冊ずつ読み返していく。

 治癒魔法。

 古代術式。

 魂の研究。

 数百年前の禁書まで調べ尽くした。

 しかし。

 何日経っても。

 何週間経っても。

 答えは見つからなかった。

 それでも諦めず、今度は自ら魔蝕病を抑える術式の研究へ取り掛かった。

 一方、アイリスも何もしなかったわけではない。

 自分の身体だからこそ、自分で理解したかった。

 魔力の流れを記録し、症状を書き留める。

 どれだけ魔力を使うと疲れるのか。

 どんな時に痛みが出るのか。

 研究者らしく、冷静に観察を続けた。

 そんな姿を見て、ゼノスは胸が締め付けられる。

 本来なら、こんな研究をさせたくなかった。

     ◇

 数日後。

 ゼノスは王都へ正式な照会を送った。

 王都が管理する神器アイオーンへの照会である。

 患者名も事情も伏せた。

 ただ、一つだけ問い掛ける。

『現在の世界法則において、魔蝕病の治療法は存在するか。』

 返事が届くまで数日を要した。

 そして届いた返答は、あまりにも短かった。

『現在の世界法則では、魔蝕病を治療する方法は存在しません。』

 その一文だけだった。

 紙を握るゼノスの手へ力が入る。

「……そうか。」

 短く呟く。

 オルフェンも返答を読み終え、静かに目を閉じた。

 世界そのものを管理する神器が「存在しない」と答えた。

 その意味は重い。

 それでも。

 ゼノスは紙を机へ置いた。

「まだ終わりじゃねぇ。」

 諦めるつもりはなかった。

     ◇

 その後も、オルフェンは魔蝕病を抑える術式の研究を進めていた。

「治せないなら……。」

「進行だけでも止めましょう。」

 幾度もの失敗を繰り返しながら、魂への侵食を抑える補助術式を組み上げていく。

 数週間後。

 ようやく魔蝕病抑制術式が完成した。

 病を治す術ではない。

 侵食そのものは消せない。

 しかし進行速度を遅らせることはできる。

「完全な治療ではありません。」

「ですが……。」

「時間は稼げます。」

 アイリスは深く頭を下げた。

「ありがとうございます。」

     ◇

 しかし、その夜。

 研究室には、もう一人眠らない人物がいた。

 アイリスだった。

 机へ広げられた無数の術式。

 視線は一点だけを見つめている。

「侵食するのは……。」

「魔力。」

 ならば。

 魔力そのものを封じればどうなるのか。

 魔力を使わなければ。

 侵食は遅くなるのではないか。

「……。」

 誰もやったことがない。

 記録もない。

 なら、自分で創るしかない。

 紙へ新しい術式を書き始める。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 失敗。

 また書き直す。

 診断の日から何日も書き続けた術式だった。

 朝まで続いた。

 そして何十枚目かの紙へ、一本の線が繋がる。

「……できた。」

 それは世界で初めて生み出された術式だった。

 魔力封印術式。

 自らの魔力の大半を封印し、魂への負荷を極限まで減らすための創生魔法。

 ただし代償は大きい。

 魔法使いとしての力を、自ら封じることになる。

 アイリスは迷わなかった。

「生きてさえいれば。」

 静かに微笑む。

「また研究できます。」

     ◇

 翌日。

 三人は静かに話し合っていた。

「孤児院へ知らせますか。」

 オルフェンの問いに、アイリスはゆっくり首を横へ振る。

「まだ……知らせたくありません。」

「院長先生たちを心配させたくないんです。」

 ゼノスも頷く。

「分かった。」

「俺たちだけで抱える。」

 その夜。

 ゼノスは孤児院宛ての便箋を広げた。

 だが、何も書けない。

 ペンを握ったまま、長い時間が過ぎていく。

 やがて静かにペンを置いた。

 隣へオルフェンが腰を下ろす。

 二人は何も話さなかった。

 ただ、夜だけが静かに更けていく。

     ◇

 深夜。

 図書館にはアイリス一人だけが残っていた。

 アイリスは完成した魔力封印術式の設計図を静かに見つめていた。

 指先で紙をなぞる。

 その瞳に迷いはない。

「まだ……。」

 小さく息を吸う。

「終われません。」

 病に負けるつもりはない。

 必ず未来へ進む。

 その決意だけを胸に、アイリスはゆっくりと設計図を閉じた。

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