第15話 異変
神殿で暮らし始めてから、気がつけば二年が過ぎていた。
朝、鐘の音で目を覚まし、三人で朝食を囲む。
ゼノスは相変わらず報告書を後回しにしてオルフェンに叱られ、アイリスはそんな二人のやり取りを笑いながら見守る。
もう、それが神殿の日常だった。
◇
朝食を終えたアイリスは、いつものように研究室へ向かう。
机の上には昨日の続きの術式が広げられていた。
「昨日はここまでだったから……。」
創生魔法の術式を書き加えていく。
火属性の流れを調整し、水属性との循環を書き換える。
さらに風属性を補助へ回し、魔力効率を高める。
「あとちょっと……。」
紙の上へ新しい線を描いた瞬間だった。
指先に力が入らない。
「……あ。」
線がわずかにずれた。
術式全体の均衡が崩れる。
「しまった。」
慌てて書き直す。
今度は問題なく完成した。
「寝不足かな。」
右手を軽く握ったり開いたりしてみる。
もう震えはない。
「昨日遅くまで起きていたし……。」
それ以上気にすることなく、再び机へ向かった。
◇
昼頃。
治療院ではオルフェンが患者を診察していた。
アイリスも薬草の調合を手伝っている。
「ありがとう、アイリスさん。」
「いえ。」
瓶を棚へ戻そうとした時だった。
急に身体が重くなる。
「……。」
階段を数段上っただけなのに、息が切れていた。
「はぁ……。」
胸が少し苦しい。
(あれ……?)
以前なら、この程度で息が上がることはなかった。
「アイリスさん?」
オルフェンが気付く。
「大丈夫ですか。」
「あ……はい。」
慌てて笑顔を作る。
「少し寝不足みたいです。」
「最近、夜遅くまで本を読んでいますから。」
オルフェンは少しだけ心配そうな表情を見せた。
「勉強も大切ですが、休むことも勉強ですよ。」
「はい。」
素直に返事をする。
その様子を見て、オルフェンもそれ以上は何も言わなかった。
◇
夕方。
ゼノスは神殿の訓練場でアイリスへ魔法の確認をさせていた。
「今日は創生魔法だ。」
「はい。」
アイリスは術式を展開する。
光が足元へ広がる。
魔力は安定している。
術式も問題ない。
完成度は以前より遥かに高い。
「よし。」
ゼノスが頷く。
「随分精度が上がったな。」
「ありがとうございます。」
アイリスは嬉しそうに笑う。
「じゃあもう一回。」
「はい。」
二度目。
三度目。
四度目。
繰り返すうちに、身体が少しずつ重くなっていく。
(……疲れる。)
以前より魔力の消耗が大きい。
そんな気がした。
それでも口にはしない。
「どうした。」
ゼノスが気付く。
「今日は終わりにするか。」
「まだできます。」
即答だった。
「もう少し試したいんです。」
その目は真っ直ぐだった。
知りたい。
もっと上手くなりたい。
その気持ちだけが溢れている。
ゼノスは少しだけ苦笑する。
「……無茶すんなよ。」
「はい。」
返事だけは元気だった。
◇
夜。
研究室には、またアイリス一人だけが残っていた。
静かな部屋へ、紙をめくる音だけが響く。
創生魔法。
古代魔法。
魔力理論。
次々と文献を読み比べ、新しい仮説を書き留めていく。
時間を忘れるほど集中していた。
その時だった。
扉が静かに開く。
「まだ帰らないのですか。」
オルフェンだった。
手には湯気の立つハーブティーを持っている。
「ありがとうございます。」
受け取ると、柔らかな香りが鼻をくすぐる。
「身体は一つしかありません。」
「大切にしてください。」
穏やかな口調だった。
だからこそ、その言葉は胸へ残る。
「……はい。」
アイリスは少しだけ申し訳なさそうに笑った。
その笑顔を見たオルフェンは、どこか安心したように部屋を後にする。
しかし廊下へ出ると、笑みが少しだけ消えた。
(疲労にしては、息の乱れ方が……。)
ほんの小さな違和感。
それでも長年、多くの命を診てきた経験が、心の奥で静かに警鐘を鳴らしていた。
◇
夜風が神殿の窓を静かに揺らしていた。
研究室では、アイリスが一人、机へ向かっている。
ランプの灯りだけが、紙の上を照らしていた。
「あと少しだけ……。」
魔法陣へ新しい術式を書き足していく。
創生魔法。
もっと効率よく。
もっと安全に。
もっと多くの人を助けられるように。
その思いだけで、ペンは止まらなかった。
◇
「ふぅ……。」
一区切りつき、大きく息を吐く。
立ち上がろうとした、その瞬間だった。
視界がぐらりと揺れた。
「……あれ。」
床が遠く感じる。
一歩踏み出そうとしても足へ力が入らない。
頭の奥が重い。
そして次の瞬間――。
「っ……!」
鋭い痛みが頭を貫いた。
思わず机へ手をつく。
「はぁ……っ。」
呼吸が乱れる。
額から汗が伝う。
まるで頭の中を何かが締め付けているようだった。
数秒。
いや、一分ほどだっただろうか。
痛みは突然、何事もなかったかのように消えていった。
「……。」
静まり返った研究室。
アイリスはゆっくりと身体を起こす。
「こんなこと、初めて……。」
苦笑してみせる。
今日は創生魔法の確認もした。
研究も長引いた。
寝不足も続いている。
きっとそのせいだ。
そう自分へ言い聞かせ、机の上を片付け始めた。
この時は、まだ。
それが病の始まりだとは思っていなかった。
◇
翌朝。
食堂ではいつものように三人が朝食を囲んでいた。
「今日は顔色が悪いですね。」
オルフェンが静かに言う。
「そうですか?」
アイリスは自分の頬へ触れる。
「昨日、少し夜更かしし過ぎました。」
笑って答える。
ゼノスもパンをかじりながら頷いた。
「だから言ったろ。」
「知識は逃げねぇって。」
「すみません。」
反省したように笑う。
その笑顔は、いつもと変わらない。
だからこそ、二人も深く追及することはなかった。
しかし、その日も違和感は続いた。
神殿の階段を上るだけで息が切れる。
重い本を抱えて歩くだけで肩が重い。
魔法を使えば、以前より疲労が残る。
ほんの少し。
本当に少しだけ。
それでも積み重なれば、違和感になる。
アイリス本人だけが、それを「疲れ」で片付けていた。
◇
夕方。
アイリスは図書館で本を読んでいた。
集中しているうちに、机へ突っ伏して眠ってしまう。
「……。」
ゼノスが静かに近付く。
肩へ毛布を掛ける。
「本当に無茶ばっかりしやがる。」
苦笑しながら呟く。
その声でアイリスが目を覚ました。
「あ……。」
「師匠。」
「寝てました。」
「見りゃ分かる。」
二人とも小さく笑う。
「師匠も昔はこんな感じだったんですか?」
アイリスが尋ねる。
ゼノスは少し考えてから笑った。
「……いや。」
「お前ほどじゃねぇ。」
「そうなんですか?」
「ああ。」
「俺は本を読む前に寝てた。」
「威張るところじゃありませんよ。」
図書館へ笑い声が響く。
その時間は、いつも通り穏やかだった。
◇
その夜。
アイリスが部屋へ戻ったあと。
神殿の回廊では、ゼノスとオルフェンが並んで歩いていた。
しばらく沈黙が続く。
やがてオルフェンが静かに口を開いた。
「ゼノス。」
「……何だ。」
「最近のアイリスさん。」
「息切れも、顔色も……少し様子が違うと思いませんか。」
ゼノスは歩みを止める。
「……。」
言われてみれば。
疲れやすい。
眠ることが増えた。
顔色も少し悪い。
だが、それだけだ。
「成長期だからじゃねぇか。」
そう答える。
オルフェンは首を横へ振った。
「私も、そう思いたいのです。」
「ですが……。」
そこで言葉を切る。
「嫌な勘は、当たることが多いのです。」
治癒魔法を極め、多くの患者を診てきたオルフェンだからこその直感だった。
ゼノスも腕を組み、考え込む。
思い返せば。
雪国で立ちくらみを起こした。
神殿へ来てからも疲れやすくなっている。
一つひとつは些細な出来事だった。
しかし、それらを一本の線で繋げると、胸の奥に小さな不安が生まれる。
「……。」
ゼノスは長く息を吐いた。
「考え過ぎなら、それでいい。」
「ええ。」
「だが。」
静かに決意するように呟く。
「念のため、一度ちゃんと診てもらうか。」
オルフェンも静かに頷いた。
「そうしましょう。」
二人の表情には、これまでになかった不安が浮かんでいた。
その小さな決断が、やがて三人の運命を大きく変えることになる。




