第14話 家族
神殿で暮らし始めて、一年が過ぎた。
少女だった面影は少しずつ薄れ、背丈もゼノスの肩ほどまで伸びていた。
季節は再び春。
柔らかな朝日が窓から差し込み、小鳥のさえずりが中庭へ響いている。
アイリスは大きく伸びをすると、部屋の窓を開け放った。
「いい天気……。」
春の風が髪を揺らす。
神殿へ来たばかりの頃は緊張していた朝も、今ではすっかり日常になっていた。
◇
食堂では、すでにゼノスが席へ座っていた。
机には焼きたてのパンと温かなスープ。
そして――。
「……師匠。」
「ん?」
「それ、朝から何杯目ですか。」
ゼノスの前には空になったコーヒーカップが三つ並んでいる。
「三杯。」
「まだ朝ですよ。」
「だからだ。」
意味が分からない。
アイリスは呆れたようにため息をつきながら席へ座る。
その時だった。
「ゼノス。」
穏やかな声が食堂へ響く。
オルフェンだった。
手には一枚の紙を持っている。
「昨日までに提出する報告書は。」
ゼノスの動きが止まる。
「……。」
「まだですね。」
「……。」
「昼までです。」
「はい。」
即答だった。
アイリスは思わず吹き出す。
「師匠、返事だけはいいですね。」
「うるせぇ。」
「ちゃんと書いてください。」
「弟子まで説教するようになったか。」
「一年も見てれば言いたくもなります。」
三人の笑い声が食堂へ広がった。
◇
朝食を終えると、それぞれの日常が始まる。
ゼノスは執務室へ。
……報告書を書くために。
オルフェンは治療院へ。
アイリスは図書館へ向かう。
すれ違う神官たちが笑顔で声を掛ける。
「おはようございます。」
「今日も勉強ですか。」
「はい。」
「頑張ります。」
そんな何気ない会話も、今では自然だった。
誰もアイリスを「旅人」ではなく、「神殿の家族」として接してくれている。
◇
図書館へ入ると、いつもの席が空いていた。
窓際。
午後になると日差しが差し込むお気に入りの場所。
机へ本を積み上げる。
創生魔法。
古代魔法。
魔法史。
治癒術式。
どれも興味が尽きない。
「今日は……。」
最初に手に取ったのは、数百年前の魔法理論書だった。
ページを開く。
読み始める。
気付けば時間を忘れていた。
◇
「アイリス。」
不意に声が掛かった。
振り向くと、オルフェンが立っている。
「昼食ですよ。」
「……え?」
窓の外を見る。
いつの間にか太陽は真上まで昇っていた。
「あ……。」
また忘れていた。
アイリスは照れ笑いを浮かべる。
「すみません。」
「本が面白くて。」
オルフェンは優しく笑った。
「知ることを楽しめるのは、とても良いことです。」
「ですが。」
一拍置く。
「身体も大切にしてください。」
「知識を得るためには、健康でなければなりません。」
「……はい。」
その言葉に素直に頷く。
オルフェンは叱ることはしない。
ただ、大切なことだけを静かに伝えてくれる。
アイリスはそんなところを、とても尊敬していた。
◇
昼食後。
治療院では軽い怪我をした旅人が運ばれてきた。
「転んだだけです。」
苦笑する男性へ、オルフェンは優しく微笑む。
「大丈夫ですよ。」
淡い光が傷口を包み込む。
あっという間に傷は塞がっていく。
「すごい……。」
アイリスは思わず見入ってしまう。
「治癒魔法は傷を治すだけではありません。」
オルフェンは患者へ水を差し出しながら話す。
「安心していただくことも、大切な治療です。」
その一言が胸へ残る。
魔法は傷を治すためだけではない。
人の心を救うこともできる。
それもまた、「人を幸せにする魔法」なのだ。
◇
夕方。
中庭では子どもたちが遊んでいた。
「アイリスお姉ちゃん!」
神殿へ預けられている孤児たちだ。
「今日も遊ぼう!」
「もちろん。」
笑顔で頷く。
鬼ごっこをしたり。
本を読んだり。
花冠を作ったり。
その光景を少し離れた場所からゼノスとオルフェンが眺めていた。
「昔と変わらねぇな。」
ゼノスが小さく笑う。
「ええ。」
オルフェンも頷く。
「どこへ行っても、あの子は自然と子どもたちの輪の中へ入っていきます。」
「それがアイリスです。」
ゼノスは目を細めた。
「才能じゃねぇ。」
「だから俺は弟子にした。」
オルフェンは静かに微笑む。
「あなたが最初に見抜いた宝物ですね。」
ゼノスは照れ隠しのように鼻をかいた。
「……だな。」
夕暮れになると、神殿全体が茜色に染まり始めた。
中庭で遊んでいた子どもたちも、夕食の鐘が鳴ると名残惜しそうに手を振る。
「アイリスお姉ちゃん、また明日!」
「はい。また遊びましょう。」
笑顔で手を振り返りながら、アイリスも食堂へ向かった。
◇
その日の夕食は、思いがけない贈り物から始まった。
「アイリスさん。」
若い神官が、小さな包みを抱えてやって来る。
「孤児院からですよ。」
「えっ!」
その言葉だけで、アイリスの表情がぱっと明るくなった。
包みを開くと、中から甘い香りがふわりと広がる。
「院長先生のお菓子……。」
焼き色の付いた素朴なクッキー。
子どもの頃、何度も食べた懐かしい味だった。
「手紙も入っています。」
アイリスは大切そうに封を開く。
そこには変わらない丸い文字が並んでいた。
『アイリスへ。
元気にしていますか。
子どもたちは、あなたから届いた手紙を何度も読み返しています。
みんな「次はいつ帰ってくるの?」と楽しみにしていますよ。
無理だけはしないでくださいね。
あなたが笑って過ごしているなら、それだけで安心です。
いつでも待っています。
マリア』
読み終えた頃には、自然と笑みがこぼれていた。
「院長先生らしいですね。」
オルフェンが穏やかに微笑む。
「ええ。」
アイリスも頷く。
「読んでいるだけで安心します。」
ゼノスはクッキーを一枚つまみ、そのまま口へ放り込んだ。
「うめぇ。」
「師匠!」
「一枚くらいいいだろ。」
「それ、私宛です。」
「だから味見だ。」
「味見は一枚で終わりませんよね。」
「ばれたか。」
三人は思わず笑った。
遠く離れていても、孤児院はちゃんと繋がっている。
それだけで胸が温かくなる。
◇
夕食後。
神殿は静かな夜を迎えていた。
図書館では今日も数人の研究者が本を読んでいる。
アイリスも新しい資料を探すため、本棚の間を歩いていた。
「古代魔法の資料は……。」
高い本棚へ目を向ける。
一冊だけ古びた本が目に入った。
「これかな。」
手を伸ばした、その時だった。
黒髪の青年だった。
腕には本を一冊抱え、視線を落としたまま静かに歩いていく。
足音さえほとんどしない。
「……?」
一瞬だけ気になった。
神官だろうか。
研究者だろうか。
だが、それ以上考えることはなかった。
青年もまた、何事もなかったかのように書架の奥へ消えていく。
互いに名前も知らない。
それだけの、ほんの一瞬のすれ違いだった。
――この時のアイリスは、そのすれ違いをすぐに忘れてしまう。
◇
夜も更けた頃。
図書館にはアイリスだけが残っていた。
「あと少しだけ……。」
ページをめくる手は止まらない。
新しい知識を知るたび、胸が躍る。
もっと知りたい。
もっと学びたい。
その気持ちは一年経っても変わらなかった。
「アイリス。」
静かな声が響く。
ゼノスだった。
「まだいたのか。」
「もう少しで読み終わります。」
「それ、三時間前も聞いた。」
「……。」
図星だった。
「帰るぞ。」
「はい。」
素直に本を閉じようとした、その瞬間だった。
胸の奥が、小さく痛んだ。
「……っ。」
本当に一瞬。
針で刺されたような痛み。
アイリスは胸へそっと手を当てる。
(……何だろう。)
呼吸を整える。
痛みは、もうない。
「どうした。」
「いえ。」
笑顔を作る。
「少し同じ姿勢だったので。」
「肩でも凝ったかな。」
ゼノスはそれ以上追及しなかった。
「ちゃんと寝ろ。」
「知識は逃げねぇ。」
「はい。」
二人は並んで図書館を後にする。
消えた痛みを、アイリスはもう気にしていなかった。
◇
神殿の中庭。
夜風が木々を優しく揺らしている。
満天の星空を見上げながら、アイリスは小さく呟いた。
「孤児院も、この神殿も……。」
少し笑う。
「私の帰る場所ですね。」
隣でゼノスも空を見上げる。
「帰る場所が増えるってのは。」
一呼吸置いて笑った。
「幸せなことだ。」
アイリスは静かに頷く。
「はい。」
二人はしばらく何も話さなかった。
言葉はいらない。
穏やかな夜が、そこにあった。
◇
一方、その頃。
神殿の奥深く。
普段は誰も近付かない書庫の一角で、一人の青年が静かに本を閉じていた。
机の上には古びた文献が何冊も積まれている。
その中の一冊には、封印術式について記された古い記録があった。
青年はページをそっと閉じる。
表情は変わらない。
静かな瞳だけが、文献の一節を見つめていた。
そして誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……見つからない。」
部屋には再び静寂が戻る。
青年の名も、その目的も、まだ誰も知らない。
ただ、運命の歯車だけが静かに回り始めていた。




