第13話 神殿
雪国を発ってから、さらに数か月。
春の陽光が山々を柔らかく照らす頃、二人はようやく目的地へ辿り着いた。
街道の先、小高い丘の上に建つ白い神殿。
何本もの尖塔が青空へ伸び、その背後には広大な森が広がっている。
鐘の音が風に乗り、静かに響いていた。
アイリスは思わず足を止める。
「……大きい。」
旅の途中でも神殿はいくつか見てきた。
だが目の前の建物は、そのどれとも比べものにならない。
まるで一つの街だった。
魔法研究棟。
礼拝堂。
治療院。
巨大な図書館。
中庭には色とりどりの草花が咲き、小鳥が枝を飛び交っている。
神官たちが穏やかに挨拶を交わしながら歩いていた。
「着いた……。俺たちの神殿だ。」
ゼノスは懐かしそうに笑う。
「帰ってきたな。」
その言葉には旅の終わりというより、家へ戻ってきた安心感が滲んでいた。
門番の神官が二人へ気付き、大きく目を見開く。
「ゼノス様!」
「お帰りなさいませ!」
「おう。」
ゼノスは軽く手を挙げるだけだった。
「ただいま。」
神官たちは自然と笑顔になる。
そのやり取りを見たアイリスは少し驚いていた。
(みんな……師匠を見る顔が優しい。)
第一賢者として畏れられているというより。
本当に家族が帰ってきたような空気だった。
◇
神殿へ入ると、奥からゆっくりと一人の老人が歩いてくる。
白髪。
長く整えられた白い髭。
穏やかな灰青色の瞳。
神官服をまとったその姿には、不思議な安心感があった。
その場にいるだけで、心が落ち着く。
「おかえりなさい。」
柔らかな声だった。
ゼノスは照れくさそうに頭をかく。
「……ただいま。」
その一言だけで十分だった。
二人の間には、長い年月を共に過ごした者だけが持つ空気が流れている。
老人は優しく頷く。
「旅、お疲れさまでした。」
「報告書は?」
穏やかな笑顔のまま尋ねる。
ゼノスの肩がぴくりと震えた。
「……あとで。」
「今です。」
「飯食ってから。」
「その前です。」
「少し昼寝して――」
「ゼノス。」
たった一言。
それだけでゼノスは肩を落とした。
「……はい。」
アイリスは思わず目を丸くする。
(師匠が……。)
(素直になった……。)
旅では誰にも遠慮せず豪快だったゼノスが、まるで叱られた子どものように返事をしている。
その様子に神官たちは苦笑し、誰一人驚いた様子はない。
「また始まった。」
「いつものことですよ。」
そんな声まで聞こえてくる。
老人はようやくアイリスへ視線を向けた。
「初めまして。」
「私は、オルフェンと申します。よろしくお願いします。」
アイリスは慌てて頭を下げた。
「アイリスです!」
「ゼノス師匠に弟子入りしました!」
オルフェンは目を細める。
「ええ。」
「お話は何度も聞いていました。」
「ようこそ、神殿へ。」
その笑顔は、まるで初めて会う相手を見るものではなかった。
遠くから帰ってきた孫を迎えるような、そんな温かさがあった。
◇
「長旅でお疲れでしょう。まずはお部屋でお休みになりますか?」
「それとも神殿をご案内しましょうか。」
アイリスは少しだけ考えたあと、目を輝かせた。
「図書館はありますか?」
オルフェンは思わず笑う。
「ええ、もちろんですよ。」
「では、まずは図書館をご案内しましょう。」
案内された図書館は、想像を遥かに超えていた。
天井まで届く本棚。
何万冊あるのか見当もつかない蔵書。
魔法理論。
薬学。
植物学。
古代史。
失われた文明。
創生魔法。
あらゆる分野の知識が、長い年月をかけて集められていた。
「……すごい。」
思わず声が漏れる。
アイリスは夢中になって本棚の間を歩き回る。
「これも……。」
「これも初めて見る本……。」
「こんな資料まで……。」
目を輝かせながら次々と本を手に取る。
ゼノスは苦笑した。
「全部読む気か?」
アイリスは真顔で頷く。
「もちろんです。」
「全部。」
オルフェンはくすりと笑った。
「ふふ。」
「若い頃は皆さん、そうおっしゃるのですよ。」
アイリスは少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。
オルフェンは一本の本を手に取り、優しく表紙を撫でた。
「ですが、本は逃げません。」
「急がず、一冊ずつ読めばよいのです。」
「一冊一冊が、あなたの先生になりますから。」
その穏やかな言葉に、アイリスは自然と笑顔になった。
「……はい。」
オルフェンは静かに頷く。
「今日からここも、あなたの帰る場所です。」
その一言が胸へ染み渡る。
孤児院。
旅。
そして、この神殿。
また一つ、自分には帰る場所が増えたのだと、アイリスは静かに実感していた。
◇
図書館を後にした三人は、神殿の中をゆっくりと歩いていた。
窓から差し込む春の日差しが白い回廊を照らし、磨き上げられた床へ柔らかな光を落としている。
神官たちはすれ違うたびに足を止め、穏やかに頭を下げた。
「おかえりなさい、ゼノス様。」
「お帰りなさいませ。」
ゼノスは照れくさそうに片手を上げる。
「おう。」
そのやり取りを見ながら、アイリスは不思議そうに呟いた。
「皆さん、とても嬉しそうですね。」
オルフェンが微笑む。
「ゼノスは旅へ出ることが多いですから。」
「帰ってくるたび、皆安心するのですよ。」
「……俺は子どもじゃねぇぞ。」
ぼそりと呟くゼノスに、オルフェンは優しく笑った。
「そうでしょうか。」
「旅先で怪我をして帰ってきたことも、一度や二度ではありませんでしたね。」
「……昔の話だ。」
「ええ、昔のお話です。」
神官たちが小さく笑う。
アイリスも思わず吹き出した。
「師匠でも怪我するんですね。」
「する。」
「昔は無茶ばっかりしてましたから。」
オルフェンが穏やかに答える。
「今も時々します。」
「余計だ。」
ゼノスはむっとした顔をするが、その表情にはどこか照れくささが滲んでいた。
その様子を見ていると、本当の親子のようだった。
◇
案内された薬草園では、春の草花が一面に咲いていた。
「こちらでは治療に使う薬草を育てています。」
オルフェンは一本の葉を摘み取り、アイリスへ差し出す。
「香りを嗅いでみてください。」
そっと鼻を近づける。
「……甘い。」
「ですが、根には解熱作用があります。」
アイリスは驚いて目を丸くした。
「葉と根で違うんですか?」
「ええ。」
「植物は知れば知るほど面白いものですよ。」
アイリスは慌てて手帳を取り出し、新しい内容を書き込んでいく。
オルフェンはその様子を嬉しそうに眺めた。
「熱心ですね。」
「覚えるのが楽しいです。」
「それは何よりです。」
◇
その後も治療院や礼拝堂、中庭を歩いて回った。
どこへ行っても神殿の人々は穏やかだった。
困っている人がいれば自然と誰かが手を貸し、ありがとうという言葉が当たり前のように飛び交う。
アイリスはそんな空気が好きだった。
(ここも……。)
(優しい場所。)
孤児院とは違う。
旅とも違う。
けれど確かに、人の温かさがある場所だった。
◇
夕方。
ゼノスは執務室の机へ向かっていた。
珍しく真面目な顔で羽ペンを動かしている。
その姿を見つけたアイリスは足を止めた。
「師匠?」
「何だ。」
「お手紙ですか?」
「ああ。」
ゼノスは照れくさそうに鼻をかく。
「院長先生へ。」
アイリスは少し驚いた顔になる。
「ちゃんと書くんですね。」
「約束したからな。」
短い返事だった。
旅立ちの日。
『必ず一人前にして返す。』
マリアへそう約束したことを、ゼノスは今も忘れていない。
アイリスは胸が少し温かくなった。
◇
神殿での生活が始まって数日。
朝は礼拝堂へ顔を出し、午前は図書館。
昼は研究室。
午後は神官たちの手伝い。
夜になれば、また図書館。
毎日が夢のようだった。
読みたい本が尽きない。
知りたいことが増え続ける。
「……幸せ。」
思わずそんな言葉が漏れてしまうほどだった。
◇
ある日の午後。
図書館で十冊近い本を抱えたまま歩いていると、ふと視界が揺れた。
「……あ。」
身体がわずかによろめく。
本が腕から滑り落ちそうになった、その瞬間。
一冊だけ誰かの手が受け止めた。
「大丈夫ですか、アイリス。」
オルフェンだった。
「す、すみません。」
慌てて本を抱え直す。
オルフェンは優しく笑った。
「少し根を詰め過ぎではありませんか。」
「昨日も遅くまで明かりが点いていましたよ。」
アイリスは照れ笑いを浮かべる。
「面白くて、つい。」
「本は逃げません。」
「今日は早めに休みましょう。」
「……はい。」
素直に頷く。
本人は寝不足だと思っていた。
オルフェンも、まだそう考えていた。
◇
夜。
自室の窓を開けると、満天の星空が広がっていた。
静かな風が部屋へ吹き込む。
アイリスは窓辺へ腰掛け、小さく呟く。
「また一つ……。」
夜空を見上げる。
「帰る場所が増えました。」
その声は静かに夜へ溶けていった。
廊下を歩いていたゼノスは、その言葉だけを聞く。
何も言わない。
ただ静かに笑みを浮かべ、そのまま歩き去っていった。
◇
一方その頃。
神殿の最奥。
限られた者しか立ち入ることのできない禁書庫。
古びた本棚の間で、一人の人影が静かに古文書を読んでいた。
紙をめくる音だけが、静寂の中へ響く。
細い指先が慎重に古代文字をなぞり、一文字たりとも見落とさないよう視線を走らせる。
やがて、その手が止まった。
しばらくページを見つめたあと、小さく目を閉じる。
そして何も言わず本を閉じると、元の場所へ丁寧に戻した。
再び別の古文書を手に取る。
静かな時間だけが流れていく。
その人影が何を探しているのか。
その理由を知る者は、まだ誰もいなかった。
神殿の夜は、静かに更けていく。




