第2話 白銀の猫
森へ続く小道には、朝露が残っていた。柔らかな陽の光が木々の隙間から差し込み、小鳥たちのさえずりが静かな朝を彩っている。
アイリスは薬草籠を抱え、慣れた足取りで森の奥へ進んでいた。
この道は何度も歩いた道だった。 景色は少しずつ変わっても、森はいつも穏やかだった。
足元へしゃがみ込む。葉の形を確かめる。葉脈を見る。香りを確かめる。
「これは……大丈夫。」
小さく呟き、薬草を籠へ入れる。毒草と薬草はよく似ている。
焦らず、一つずつ。
マリアから教わった通り、丁寧に摘み取っていく。しばらくすると、籠は薬草で半分ほど埋まっていた。
「これくらいなら足りるかな。」
満足そうに頷くと、アイリスは森のさらに奥へ歩き始めた。
◇
大きな樫の木。何人で囲んでも抱えきれないほど太い幹を持つその木は、森の主のように静かに佇んでいる。
アイリスは根元へ腰を下ろした。肩から布袋を降ろし、朝食で残しておいた黒パンを取り出す。
「いただきます。」
一口だけかじる。少し固くなった黒パンだった。それでも、木漏れ日の下で食べると少しだけ美味しく感じた。
風が葉を揺らす。鳥が枝から枝へ飛び移る。小川のせせらぎも遠くから聞こえてきた。
パンを半分ほど食べ進めると残りを布で丁寧に包み、布袋へしまう。そして、周囲をゆっくり見回した。
誰もいない。
聞こえるのは風の音だけ。
アイリスは立ち上がる。
「少しだけ……。」
右手を胸の前へ掲げる。目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。身体の奥にある温かな流れへ意識を向ける。
「――灯火。」
小さな呪文とともに、指先へ炎が生まれた。
蝋燭ほどの、小さな火。風に揺らめきながらも消えることなく、優しく温かな光を放っている。
アイリスはその炎を嬉しそうに見つめた。
「きれい……。」
思わず声が漏れる。
炎は怖いものではない。 温かくて。 優しくて。 暗闇を照らしてくれる。
孤児院の子どもたちだってみんな魔法は使える。 小さな火を灯したり。 水を少しだけ動かしたり。 風を起こしたり。 それくらいなら珍しくない。
けれど。
アイリスが魔法を使うと、みんなの表情は少しだけ変わった。
「すごい。」
そう言ってくれる子もいた。でも、そのあとには決まって少し距離ができる。まるで、自分とは違う何かを見るような目だった。
だから。
アイリスは魔法を使うのを森だけにした。
ここなら誰にも見られない。
誰も怖がらせなくて済む。
「もっと上手になれたら……。」
小さく呟く。炎を少しだけ大きくしてみる。
すると、炎はふわりと花が咲くように広がり、指先で静かに揺れた。
アイリスは目を細める。
「魔法って、綺麗。」
小さな炎は風に揺らめきながらも、決して暴れることはなく、まるで生き物のように静かに揺れていた。
その時だった。
――かさり。
葉を踏む音が聞こえた。
アイリスははっと振り返る。指先の炎は音もなく消えた。
風が止む。
森が静まり返る。
草むらの奥で何かが動いた。
白い耳が、ほんの少しだけ揺れる。
アイリスは息を潜め、その先をじっと見つめた。
◇
白い耳が、草むらの奥で小さく揺れた。
アイリスは息を潜める。
森の動物だろうか。
それとも鹿だろうか。
草がもう一度、小さく揺れる。
かさり。
ゆっくりと姿を現したのは、一匹の猫だった。
雪のように白い毛並み。陽の光を浴びるたび、その毛先は銀色に輝いて見える。
「……猫。」
思わず小さく声が漏れた。
こんなに綺麗な猫は見たことがない。
猫もまた、青い瞳でじっとアイリスを見つめていた。
逃げる様子はない。
威嚇もしない。
ただ静かに、少女の様子をうかがっている。
アイリスは驚かせないよう、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「こんにちは。」
穏やかに声を掛ける。
返事はない。
それでも猫は逃げなかった。
しばらくの間、二人は何も言わず見つめ合う。
森を吹き抜ける風だけが、静かに二人の間を通り過ぎていった。
「お腹、空いてる?」
アイリスは布袋を開く。
先ほど食べて残っていた黒パンが顔を覗かせる。
少し迷ったあと、小さくちぎって自分の前へ置く。
「……少し残ってるから、一緒に食べよう。」
猫はすぐには近付かなかった。
少女を見つめる。
その手を見つめる。
もう一度、少女の顔を見る。
ゆっくりと一歩だけ前へ出た。
さらに一歩。
警戒しながらも距離を縮める。
やがてパンの前で立ち止まり、小さく匂いを嗅いだ。
アイリスは静かに微笑む。
その穏やかな表情を見て、猫はゆっくりとパンを口にした。
一口。
また一口。
急ぐことなく、味わうように食べていく。
その姿を見ているだけで、アイリスの頬は自然と緩んだ。
「美味しい?」
猫は答えない。
それでも最後の一欠片まで綺麗に食べ終えると、小さく口元を舐めた。
その仕草が可愛らしくて、アイリスは思わず笑う。
「ふふ。」
その笑顔は、孤児院では誰にも見せたことのない、本当に自然な笑顔だった。
猫はゆっくりと歩き出す。
アイリスの足元まで来ると、少しだけ見上げた。
「逃げないんだね。」
穏やかにそう話しかける。
次の瞬間。
ふわり、と猫はアイリスの膝へ飛び乗った。
「わっ。」
思わず両手で支える。
猫はそのまま丸くなり、小さく喉を鳴らし始めた。
ごろ、ごろ。
柔らかな震えが膝を通して伝わってくる。
アイリスは目を丸くした。
「君……人が怖くないの?」
恐る恐る頭へ手を伸ばす。
猫は嫌がらない。
指先が白銀の毛並みを優しく撫でる。
さらり、と絹のような感触が流れていった。
「きれい……。」
思わず見惚れる。
陽の光を浴びた毛並みは、まるで雪に朝日が差し込んだように輝いていた。
「雪みたい。」
猫は気持ちよさそうに目を細める。
その姿が嬉しくて、アイリスは何度も優しく撫でた。
「そうだ。」
少しだけ考え込む。
「名前があった方が呼びやすいよね。」
猫は片目だけ開ける。
「付けてもいい?」
返事はない。
逃げる様子もない。
アイリスは木漏れ日の中で輝く白銀の毛並みを見つめた。
森へ降り注ぐ優しい陽の光。
その光を受けて輝く白銀。
「……ソル。」
その名前を口にした瞬間、不思議と胸へすっと馴染んだ。
「今日から君は、ソル。」
猫は静かにアイリスを見上げる。
少しの沈黙。
やがて、小さく鳴いた。
「にゃあ。」
その返事が嬉しくて。
アイリスは声を立てず、小さく笑った。
白い猫は静かに少女を見つめていた。
それでも。
少女は何も求めなかった。
怯えることも。
追い払うことも。
ただ一匹の猫として、優しく話しかけてくれた。
その温もりが、不思議と心地よかった。
白い猫は人を怖がらないのではない。
目の前の少女だけが、特別だった。
その理由を、自分でもまだ説明することはできない。
ただ。
少女のそばにいると、胸の奥にあった人知れぬ孤独が少しずつほどけていく。
それはアイリスも同じだった。
誰にも見せたことのない笑顔を、この白い猫の前では自然と浮かべることができた。
まだ二人は知らない。
この出会いが。
互いの運命を、大きく変えていくことを。




