第1話 孤独な少女
夢を見た。
一面に花が咲いていた。白い花。青い花。黄色い花。
風が吹くたび、小さな花びらが舞い上がる。甘く、どこか懐かしい香りが辺りを包んでいた。
花畑の向こうで、誰かが微笑んでいる。姿は霞んで見えない。それでも、その笑顔は不思議と温かく、見ているだけで胸の奥が満たされていく。
誰かが名前を呼んだ。
――アイリス。
もう一度。
今度は少しだけ寂しそうに私の名前を呼ぶ。
アイリスはその声のする方へ手を伸ばした。
あと少し。
あと少しで届く。
そう思った瞬間。
世界は静かに砕け散った。
◇
ゆっくりと目を開ける。
見慣れた木の天井が視界に映った。壁の隙間から入り込む朝の冷たい空気が頬を撫でる。まだ夜明け前だった。
窓の外は群青色に染まり、東の空だけがわずかに白み始めている。部屋には子どもたちの穏やかな寝息が静かに重なっていた。
アイリスは毛布から身体を起こした。誰も起こさないよう、ゆっくり足を床へ下ろす。
毛布を丁寧に畳み、そっと部屋を見回した。まだ誰も起きていない。それを確認すると、小さく息を吐き、音を立てないように部屋を出る。
廊下はひんやりとしていた。人の気配はまだない。
この時間だけは好きだった。
誰とも話さなくていい。
誰の視線も気にしなくていい。
静寂な空気に包まれていると、胸の奥のざわめきが少しだけ遠ざかっていく気がした。
◇
裏庭には昨日運び込まれた薪が積まれていた。アイリスは物置から斧を取り出し、一本の薪を立てる。
深く息を吸う。
振り上げる。
振り下ろす。
乾いた音が朝靄の中へ響き、割れた薪の香りが、ほのかに辺りへ広がる。
薪は綺麗に二つへ割れた。
もう一本。さらにもう一本と同じ動きを黙々と繰り返す。
斧を振っている間だけは余計なことを考えなくて済んだ。
夢のことも。
家族のことも。
胸の奥に残る、名前の分からない寂しさも。
今だけは忘れられる。
「今日も早いのね。」
ぬくもりがある声が聞こえた。
振り返ると、院長のマリアが木のカップを片手に立っていた。栗色の髪を後ろで一つに束ね、優しい茶色の瞳でアイリスを見つめている。
「おはようございます。」
「おはよう。」
マリアは積み上がった薪へ目を向け、少し驚いたように微笑んだ。
「もうこんなに割ったの?」
「あと少しで終わります。」
「十分よ。少しくらい休んでもいいのに。」
アイリスは静かに首を横へ振る。
「私ならできます。」
迷いのない返事だった。
マリアは困ったように笑う。
「本当に頑張り屋さんね。」
アイリスは小さく会釈をすると、再び薪へ向き直った。迷いなく斧を振るう。
その小さな背中を見つめながら、マリアは静かに息をつく。
この子は昔からそうだった。頼まれたことは嫌な顔一つせず引き受ける。
薪割りも。
洗濯も。
自分にできることは黙々とこなす。
けれど、「疲れた」の一言だけは、一度も聞いたことがなかった。
「アイリス。」
「はい。」
「頑張ることは悪いことじゃないわ。」
マリアは優しく微笑んだ。
「でも、少しくらい自分を甘やかしてもいいのよ。」
アイリスは少しだけ考える。そして、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。」
一拍置いて続ける。
「でも、大丈夫です。」
その笑顔は礼儀として浮かべたような、どこか儚い笑みだった。
マリアはそれ以上何も言わない。
朝日が山の向こうからゆっくりと姿を現し始める。静かな朝が、孤児院を優しく照らしていた。
◇
朝食の時間になると、食堂は子どもたちの賑やかな声で満たされた。
焼きたてとは言えない黒パンと、野菜を煮込んだ温かなスープ。質素な食事でも、子どもたちは楽しそうに笑い合っている。
アイリスはいつもの窓際の席へ腰を下ろした。空いている席はまだいくつもある。
朝食を受け取った同年代の子どもたちは、一度だけアイリスへ視線を向けた。小さく顔を見合わせる。
「……あっち座ろう。」
「うん。」
二人は何事もなかったように別の席へ歩いていった。
アイリスはその様子を横目で見ただけで、静かにスープを口へ運ぶ。
驚きもしない。
寂しそうな顔もしない。
もう、それが当たり前になっていた。
マリアはその光景に気付いていた。けれど、今は何も言わなかった。
子ども同士の距離は、大人が言葉だけで埋められるものではないと知っていたからだ。
しばらくすると、小さな足音が近付いてくる。
「アイリスお姉ちゃん。」
顔を上げると、五歳ほどの女の子が嬉しそうに立っていた。
「どうしたの?」
「今日も森へ行くの?」
「……うん。」
「気を付けてね。」
その言葉に、アイリスの表情がほんの少しだけ柔らかくなる。
「ありがとう。」
女の子は満足そうに笑うと、小走りで友達のところへ戻っていった。
アイリスは黒パンを手に取る。一口だけ食べると、残りを小さな布で丁寧に包んだ。
薬草採りが終わったら、森で食べよう。
そう思いながら、大切そうに布袋へしまう。
◇
朝食を終えると、子どもたちはそれぞれの持ち場へ散っていった。
食器を片付けたアイリスも桶を抱え、裏庭へ向かう。朝日に照らされた洗濯物は、まだ少しだけ冷たい。
井戸から汲んだ水で一枚ずつ丁寧に洗い、軽く絞って物干し竿へ掛けていく。白い布が風を受け、ゆっくりと揺れた。
洗濯物を干し終えた頃だった。
「アイリス。」
振り返ると、マリアが薬草籠を抱えて立っていた。
「今日は少しだけお願いがあるの。」
「はい。」
「薬草が少し足りなくなりそうなの。森へ行くついでに採ってきてもらえる?」
アイリスは籠を受け取り、小さく頷く。
「分かりました。」
「いつもの場所に生えているので大丈夫よ。」
「はい。」
薬草採りは毎日の仕事ではない。マリアが手を離せない時だけ頼まれる、小さなお手伝いだった。
「急がなくていいからね。」
「はい。」
短く返事をすると、アイリスは小屋へ向かった。
薬草を傷付けないよう布を敷いた籠を持ち、肩から小さな布袋を掛ける。中には朝食で残した黒パンが入っていた。
薬草採りが終わったら、森で少し休もう。
ただ、それだけのつもりだった。
◇
孤児院の門を抜ける。
森へ続く細い小道には朝露が残り、草花が静かに揺れていた。見上げれば、木々の隙間から柔らかな陽の光が差し込んでいる。
鳥たちのさえずりが、静かな朝を彩っていた。アイリスはゆっくりと歩く。この道は何度も通った。
季節が巡るたびに少しずつ景色は変わるけれど、不思議と飽きることはない。
春には可憐な花が咲き。
夏になれば木陰が涼しくなる。
秋には落ち葉が道を埋める。
冬になれば、一面の雪景色になる。
どの季節の森も好きだった。
好きというより――落ち着く場所だった。
孤児院が嫌いなわけではない。マリアは優しい。小さな子どもたちも慕ってくれる。
それでも。
森にいる時間だけは、誰かの視線を気にしなくていい。
何も考えず、ただ風の音へ耳を澄ませていられる。
そんな場所だった。
やがて木々は深くなり、森の入口が見えてくる。アイリスは一度だけ立ち止まり、小さく深呼吸をした。澄んだ空気が胸いっぱいに広がる。自然と肩の力が抜けた。
「……よし。」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
そして、森の中へ一歩足を踏み入れた。
木漏れ日が揺れる。
風が優しく吹き抜ける。
まだアイリスは知らない。
今日、この森で出会う一匹の白銀の猫が。
自分の心を少しずつ変え。
やがて人生そのものを大きく変えていく存在になることを。




