第11話 帰る場所
春の風が森を優しく吹き抜ける。
街道を歩いていたアイリスは、見慣れた景色に足を止めた。
「……ここ。」
目の前には、懐かしい森が広がっている。
旅へ出る前、毎日のように通った場所。
思い出が詰まった森だった。
ゼノスは荷物を肩に担ぎ直し、にやりと笑う。
「覚えてるか?」
「もちろんです。」
アイリスは少し照れくさそうに笑った。
「忘れるわけありません。」
二人は森の中へ足を踏み入れる。
鳥のさえずり。
木漏れ日。
風の匂い。
何も変わっていない。
そのことが、胸を温かくした。
◇
森の奥まで来ると、大きな樫の木が姿を現した。
アイリスは思わず立ち止まる。
「ソル……。」
木の根元へ歩み寄り、そっと幹へ触れた。
幼い頃、この場所で白銀の猫と過ごした。
本を読み。
昼寝をして。
一緒に笑った。
ソルと過ごした時間は、たった半年にも満たなかった。
それなのに、今でも鮮明に思い出せる。
「元気かな……。」
小さく呟く。
返事はない。
それでも風が枝葉を揺らした。
さらさらと葉が鳴る。
まるで、
――おかえり。
そう言われたような気がした。
アイリスは優しく微笑む。
「ただいま。」
◇
森を抜けると、小さな建物が見えてきた。
孤児院だった。
煙突からは白い煙が上がり、庭では子どもたちが元気に走り回っている。
その光景は、旅立った日と何も変わらなかった。
「帰ってきたんだ……。」
胸が熱くなる。
ゼノスは何も言わず、その横顔を見つめていた。
少しだけ微笑む。
「行ってこい。」
その一言に背中を押される。
アイリスは駆け出した。
「院長先生!」
その声に、庭で遊んでいた子どもたちが一斉に振り向く。
「え?」
「あれ?」
「だれ?」
小さな子どもたちは首をかしげる。
旅立ったあとに入った子ばかりなのだろう。
すると、少し年上の少女が目を丸くした。
「……まさか。」
「アイリスお姉ちゃん!?」
その声が響いた瞬間だった。
「えっ!?」
「アイリスお姉ちゃん!?」
「ほんとだ!」
子どもたちが一斉に駆け出してくる。
勢いよく抱きつかれ、アイリスは思わずよろけた。
「わっ!」
「お姉ちゃん!」
「帰ってきた!」
「大きくなってる!」
笑い声が庭いっぱいに広がる。
アイリスも笑いながら、一人ひとりの頭を撫でた。
「ただいま。」
「約束どおり帰ってきたよ。」
◇
玄関の扉が静かに開く。
「どうしたんですか、そんなに騒い……。」
マリアは言葉を止めた。
目の前には、成長したアイリスが立っている。
一瞬だけ時間が止まったようだった。
「……アイリス。」
その声は少し震えていた。
「院長先生。」
アイリスは深く頭を下げる。
「ただいま帰りました。」
マリアは静かに歩み寄る。
そして何も言わず、そっと抱きしめた。
「……おかえりなさい。」
「無事で、本当に良かった。」
その温もりは、旅立った日と変わらない。
アイリスは自然と目を潤ませた。
「はい……。」
それ以上、言葉にならなかった。
◇
その様子を少し離れた場所から見ていたゼノスは、小さく笑う。
「約束は守ったぞ。」
ぽつりと呟く。
マリアは振り返り、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。」
「アイリスを……ここまで育ててくださって。」
ゼノスは頭をかいた。
「俺は何もしてねぇ。」
「勝手に育っただけだ。」
「ふふ。」
マリアは小さく笑う。
「それでも。」
「きっと、あなたがいてくださったからです。」
ゼノスは照れくさそうに視線を逸らした。
「……そういうことにしとくか。」
そのやり取りを見たアイリスは、思わず吹き出す。
「師匠、照れてます?」
「照れてねぇ。」
「顔、赤いですよ。」
「気のせいだ。」
子どもたちが笑う。
マリアも笑う。
その笑い声が、孤児院いっぱいに響いた。
◇
その日の夕食は、いつもよりずっと賑やかだった。
長い食卓には温かな料理が並び、子どもたちの笑い声が絶えない。
「アイリスお姉ちゃん!」
「旅ってどんなところだった?」
「魔物見た?」
「お城は?」
次から次へと質問が飛んでくる。
アイリスは困ったように笑いながら、一つずつ答えていく。
「橋が壊れた村があってね。」
「橋を直したの?」
男の子が目を輝かせる。
「ううん。」
「最初は失敗しちゃったの。」
「えー!」
子どもたちが一斉に驚く。
「アイリスお姉ちゃんでも?」
「うん。」
照れ笑いを浮かべながら頷く。
「でも、村のみんなが『また挑戦すればいい』って言ってくれたの。」
静かに続ける。
「だからもう一度頑張れたんだ。」
子どもたちは真剣な表情で聞いていた。
「それで?」
「成功した?」
「うん。」
「橋が完成したらね。」
少し懐かしそうに目を細める。
「みんな、とても嬉しそうに笑ってくれた。」
その笑顔を思い出すだけで、胸が温かくなる。
「私ね。」
「魔法って、本当に人を笑顔にできるんだって思った。」
子どもたちは「すごーい!」と目を輝かせた。
食卓には、自然と笑顔が広がっていく。
◇
一方その頃。
「ゼノスおじちゃーん!」
子どもたちに囲まれたゼノスは、大きなため息をついていた。
「おじちゃんじゃねぇ。」
「師匠だ。」
「ゼノスおじちゃん!」
「……聞けよ。」
小さな男の子が木剣を持って駆け寄る。
「勝負!」
「よし来い。」
ゼノスは木の枝を一本拾う。
軽く構えた次の瞬間。
「えいっ!」
子どもたちが一斉に飛び掛かった。
「おっと。」
ひらり。
くるり。
豪快そうに見えて、その動きは驚くほど軽い。
誰一人転ばせることなく攻撃をかわしていく。
「ずるい!」
「速い!」
「もっと来い!」
庭中に笑い声が響く。
その様子を見ていたマリアが、小さく笑った。
「すっかり人気者ですね。」
ゼノスは苦笑する。
「元気がありすぎる。」
「ふふ。」
「昔のアイリスも、あんな感じでしたよ。」
「いや。」
ゼノスは首を横に振る。
「あいつは最初から大人しかった。」
「その代わり。」
少しだけ笑う。
「今の方がよく笑う。」
マリアも穏やかに頷いた。
「ええ。」
「本当に。」
◇
翌朝。
アイリスは畑へ出ていた。
「お姉ちゃん!」
「こっち!」
子どもたちと一緒に畑を耕す。
旅で覚えた知識を活かし、土の状態を見ながら肥料を混ぜていく。
「ここは水が溜まりやすいから。」
「少し高くすると育ちやすいよ。」
「へぇー!」
子どもたちは真剣に頷きながら土を運ぶ。
井戸の滑車も修理した。
壊れかけていた柵も直した。
ゼノスもいつの間にか屋根へ登り、傷んだ瓦を交換している。
「師匠。」
「いつの間に。」
「気になったからな。」
「報告書は書かないのに。」
「余計だ。」
二人のやり取りに、庭中が笑いに包まれる。
◇
数日後。
旅立ちの日がやってきた。
玄関には子どもたちが並んでいる。
けれど以前のように泣く子はいなかった。
「また帰ってきてね!」
「次はもっと旅の話聞かせて!」
「約束!」
アイリスは一人ひとりと指切りを交わす。
「うん。」
「必ず帰ってくる。」
その約束に、迷いはなかった。
◇
マリアは大きな包みを差し出した。
「少しですが、持って行ってください。」
「院長先生……。」
「こんなに。」
「食べ盛りですから。」
優しく微笑む。
「それに。」
「どこへ行っても。」
「ここは、あなたの家ですよ。」
その言葉に、アイリスは胸がいっぱいになる。
「……はい。」
「ありがとうございます。」
深く頭を下げた。
◇
孤児院を離れ、街道へ出る。
しばらく歩いたところで、アイリスは荷物の中に一通の封筒が入っていることに気付いた。
「あれ……?」
開くと、マリアの字が並んでいた。
『あなたが笑顔で帰ってきてくれたことが、何より嬉しかったです。
あなたは昔から、誰かのために頑張れる子でした。
でも、たまには自分の幸せも大切にしてください。
あなたが幸せでいることが、私たちの幸せでもあります。
疲れた時は、いつでも帰ってきてください。
ここは、あなたの帰る場所です。』
読み終えた頃には、視界が滲んでいた。
「……院長先生。」
小さく呟き、手紙を大切に胸へ抱く。
ゼノスは何も聞かない。
ただ隣を歩き続ける。
◇
その夜。
焚き火を囲みながら、アイリスは静かに笑った。
「帰る場所があるから。」
炎を見つめる。
「また頑張れます。」
ゼノスも炎の向こうで穏やかに頷く。
「ああ。」
「だから人は前へ進める。」
焚き火を囲みながら、旅を始めたばかりの頃に師匠から教わった言葉。
その意味を、アイリスは今なら心から理解できる。
焚き火が静かに揺れる。
その時、不意に小さく咳が漏れた。
「ごほっ……。」
「ん?」
ゼノスが振り返る。
「大丈夫か?」
「はい。」
アイリスはすぐに笑顔を作る。
「少し喉が乾いただけです。」
「風邪ひくなよ。」
「はい。」
そう答えながら、胸の奥に残る小さな違和感を気にも留めなかった。
まだ誰も知らない。
その咳が、静かに始まりつつある異変の最初の兆しだったことを。
翌朝、二人は再び街道を歩き始める。
白く輝く山々を目指して。
次なる目的地――雪国へ向かうために。




