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白銀の猫と創生の魔女  作者: 金林明莉
第二章 師弟
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第5話 決意の日

 翌朝。

 窓から差し込む柔らかな朝日が、孤児院の食堂を優しく照らしていた。

 台所ではマリアが朝食を用意し、焼きたてのパンの香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がっている。

「アイリスお姉ちゃん!」

「おはよう!」

 元気な声とともに、小さな子どもたちが駆け寄ってきた。

 アイリスは振り返り、穏やかに微笑む。

「おはよう。」

「今日も元気だね。」

「うん!」

「お腹すいたー!」

「ふふ。」

「もう少し待っててね。」

 そう言って頭を優しく撫でると、子どもたちは嬉しそうに笑いながら席へ戻っていく。

 その様子を見つめながら、アイリスは自然と食器を並べ始めた。

 パンを配り、温かなスープを運び、小さな子には食べやすいよう器を手前へ寄せる。

 いつもと変わらない朝。

 いつもと変わらない日常。

 それなのに――。


『お前だからだ。』


 昨夜の言葉が、不意に胸の奥で響いた。

 思わず手が止まる。

「アイリス?」

 マリアの優しい声に、はっと我に返る。

「あ……。」

「すみません。」

「少し考え事をしていました。」

 マリアは何も尋ねず、小さく微笑むだけだった。

「朝食にしましょう。」

「はい。」

 食卓には、いつものように笑い声が溢れていた。

「今日ね!」

「ぼく、一番早く起きたんだよ!」

「ちがうもん!」

「ぼくの方が早かった!」

「はいはい。」

「喧嘩しないで食べようね。」

 子どもたちの賑やかな声に、アイリスも思わず笑みを浮かべる。

 この光景が好きだった。

 泣き虫な子も。

 元気いっぱいな子も。

 甘えん坊な子も。

 みんな家族だった。

(ここが……。)

(私の帰る場所。)

 そう思うほどに、胸が締め付けられる。

     ◇

 朝食を終えると、子どもたちは庭へ飛び出していった。

 アイリスは食器を洗い終えると、静かに外へ出る。

 誰にも行き先を告げる必要はなかった。

 足は自然と、あの森へ向かっていた。

 木漏れ日の差し込む小道を歩く。

 鳥たちのさえずり。

 木々を揺らす風。

 土と草の匂い。

 何度歩いたか分からない道だった。

 やがて、大きな樫の木が見えてくる。

 アイリスはゆっくりと歩み寄り、その幹へそっと手を添えた。

「……また来ちゃった。」

 思わず小さく笑う。

 返事はない。

 あの日までなら、どこからか白銀の猫が姿を現していただろう。

 木の上から飛び降りてきて、当然のように隣へ座っていたはずだ。

 けれど今は、静かな風だけが葉を揺らしている。

 それでも、この場所へ来ると心が落ち着いた。

 目を閉じれば、自然とたくさんの思い出が浮かんでくる。

 一緒に森で過ごしたこと。

 小川で遊んだこと。

 花冠を作って笑い合ったこと。

 そして、自分の夢を初めて口にした日のこと。

(困ってる人をもっと助けられる魔法を実現したい。)

 あの日の気持ちは、今も変わっていない。

 むしろ、昨日の出来事で、その想いはさらに強くなっていた。

 ゼノスは笑わなかった。

 子どもの夢だと馬鹿にもしなかった。

 魔法の才能だけを見ていたわけでもなかった。

 何度も失敗を繰り返したこと。

 諦めずに続けてきたこと。

 孤児院のみんなを大切にしていること。

 その全部を見てくれていた。

 そして――。

『お前だからだ。』

 その言葉が胸に蘇る。

 自分だから。

 努力したからでもない。

 魔法が使えるからでもない。

 自分自身を認めてもらえた。

 そう思うたび、胸の奥が温かくなる。

 同時に、新しい想いも芽生えていた。

(もし……。)

(ゼノスさんと旅に出たら。)

 もっと魔法を学べる。

 もっと世界を知れる。

 もっと多くの人を助けられるかもしれない。

 橋を架けることも。

 家を建てることも。

 困っている人へ、新しい魔法を届けることも。

 今よりもっと、できるようになるかもしれない。

 その未来を想像すると、不思議と胸が高鳴った。

 けれど、その高鳴りと同じくらい、不安も押し寄せてくる。

(やっぱり……怖い。)

 孤児院のみんな。

(院長先生。)

 この森。

 この樫の木。

 ここには、自分の大切なものが詰まっている。

 それでも――。

 昨日、ゼノスは言ってくれた。

『お前だからだ。』

 その言葉は、今も変わらず心の中で温かく響いている。

 アイリスはゆっくりと空を見上げた。

 枝葉の隙間から、青い空が広がっている。

 静かに息を吸い込み、小さく息を吐く。

「……私。」

 樫の木へ向かって、小さく呟く。

「もっとたくさんの人を助けられる魔法使いになりたい。」

 その言葉は、誰かへ向けたものではない。

 自分自身の心へ、そっと言い聞かせるような決意だった。

     ◇

 孤児院へ戻る頃には、昼の陽射しが庭を明るく照らしていた。

 庭先では、小さな花壇の手入れをするマリアの姿がある。

 色とりどりの花へ水を与え、咲き終えた花を丁寧に摘み取っていた。

 アイリスは少しだけ立ち止まり、その後ろ姿を静かに見つめる。

 幼い頃から変わらない光景だった。

 泣いた日も。

 嬉しかった日も。

 この人はいつも、この庭で花の世話をしていた。

「おかえりなさい。」

 振り返ることなく、マリアが優しく声を掛ける。

 アイリスは少し驚いて目を瞬かせた。

「……ただいま。」

 マリアはじょうろを置くと、ゆっくりとアイリスへ向き直る。

 穏やかな笑みは、いつもと何も変わらない。

「少し、気持ちは整理できましたか。」

 アイリスは思わず苦笑する。

「……分かるんですね。」

「ええ。」

 マリアは優しく頷いた。

「あなたを見てきましたから。」

 それだけで十分だった。

 アイリスは少し照れくさそうに笑う。

 二人は庭のベンチへ並んで腰を下ろした。

 夏の風が花々を揺らし、小さな蝶がゆっくりと飛んでいく。

 しばらくの間、どちらも何も話さなかった。

 静かな時間が心地よく流れる。

 やがてアイリスが小さく口を開いた。

「……怖いんです。」

 その一言に、マリアは何も言わず耳を傾ける。

「ここを離れることが。」

「みんなと離れることが。」

 アイリスは膝の上で両手をぎゅっと握り締めた。

「私がいなくなったら、小さい子たちは寂しがると思います。」

「お手伝いだって、今までみたいにはできません。」

「院長先生にも、いっぱい迷惑を掛けてしまいます。」

 言葉にするほど、不安が大きくなっていく。

「だから……。」

「弟子になりたいって思うのに。」

「その一歩が踏み出せなくて……。」

 俯くアイリスの横顔を、マリアは優しく見つめていた。

 少しの沈黙が流れる。

 やがてマリアは静かに微笑んだ。

「アイリス。」

「あなたは、本当に優しい子ですね。」

 その言葉に、アイリスは顔を上げる。

「でも。」

「少しだけ勘違いをしています。」

「……え?」

「あなたは、自分がいなければ、この孤児院は成り立たないと思っていますか。」

 アイリスは慌てて首を横へ振る。

「そんなことは……。」

「思っていません。」

「そうですね。」

 マリアは柔らかく笑う。

「ここは、あなた一人が支えている場所ではありません。」

「私もいます。」

「年上の子たちもいます。」

「みんなで支え合っているから、今までやってこられたのです。」

 アイリスは静かに聞いていた。

「もちろん。」

「あなたがいなくなれば寂しいでしょう。」

「泣いてしまう子もいるかもしれません。」

「私も、とても寂しいです。」

 その言葉に、アイリスの胸が締め付けられる。

 けれど、マリアは穏やかに続けた。

「ですが。」

「寂しいからといって、あなたを引き止めることはできません。」

 その声は、とても優しかった。

「あなたには夢があります。」

「困っている人を助けられる魔法使いになりたいという、大切な夢が。」

「その夢へ向かう道を、私が塞いではいけません。」

 アイリスの瞳が揺れる。

「院長先生……。」

 マリアはそっとアイリスの手へ自分の手を重ねた。

「アイリス。」

「あなたは今まで、人のために生きてきました。」

「自分のことより、いつも誰かを優先してきました。」

「だからこそ。」


「今度は、自分の未来のために歩いてもいいのですよ。」


 その言葉が、静かに胸へ染み込んでいく。

 アイリスは目を潤ませた。

「でも……。」

「私、本当に行ってもいいんでしょうか。」

 震える声だった。

 マリアは迷うことなく頷く。

「もちろんです。」

「あなたが選んだ道なら、私は応援します。」

 一度言葉を区切り、小さく笑う。

「寂しくないと言ったら嘘になります。」

「でも。」

「それ以上に嬉しいのです。」

「あなたが、自分の夢へ向かって歩き始めることが。」

 アイリスは唇を噛み締めた。

 涙が滲む。

 けれど、それは昨日の涙とは違っていた。

 悲しい涙ではない。

 背中を押してもらえた、温かな涙だった。

「……ありがとうございます。」

 小さく頭を下げる。

 マリアは何も言わず、優しくその頭を撫でた。

 幼い頃から何度もそうしてくれたように。

 その温もりに触れた瞬間、胸の奥に残っていた迷いが少しずつほどけていくのを、アイリスは感じていた。

     ◇

 昼過ぎ。

 庭では、子どもたちの元気な笑い声が響いていた。

「ゼノスさん、こっちこっち!」

「捕まえてみろ!」

「逃げろー!」

 ゼノスは子どもたちに囲まれながら、昨日と変わらず豪快に笑っている。

「はっはっは!」

「そんな遅ぇ足で逃げ切れると思ってんのか!」

 大きな身体で本気になって追い掛けるものだから、子どもたちは悲鳴を上げながらも楽しそうに走り回る。

「きゃー!」

「ゼノスさん速いー!」

「ほらほら!」

「捕まるぞ!」

 わざと少しだけ手を緩める。

 あと少しで届きそうな距離を保ちながら追い掛ける姿に、子どもたちは夢中になって笑っていた。

 その光景を少し離れた場所から見つめながら、アイリスは自然と口元を緩める。

(昨日と何も変わらない。)

 賢者だからと威張ることもない。

 子どもだからと見下すこともない。

 誰とでも同じ目線で笑い合える人。

 森で出会った時も。

 孤児院へ来てからも。

 そして今日も。

 ゼノスはずっと変わらなかった。

(やっぱり……。)

 胸の奥で、小さく答えが形になっていく。

 この人なら。

 この人になら。

 ついて行きたい。

 もっと魔法を学びたい。

 もっと多くの人を助けられるようになりたい。

 その想いが、昨日よりもはっきりと心に根付いていた。

 アイリスは静かに歩き出す。

 子どもたちは顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げる。

「アイリスお姉ちゃん?」

 ゼノスも振り返る。

 二人の視線が重なった。

 ゼノスは口元を少しだけ緩める。

「決まったか?」

 急かすような口調ではない。

 答えを信じて待っていた者の、穏やかな問いだった。

 アイリスはゆっくりと頷く。

 一歩前へ進み、深く頭を下げた。

「ゼノスさん。」

 静かな声だった。

 けれど、その言葉に迷いはなかった。

「私を……。」

 一度、小さく息を吸う。


「弟子にしてください。」


 庭が静まり返る。

 子どもたちも、マリアも、その言葉を静かに見守っていた。

 ほんの一瞬の沈黙。

 そして――。

「はっはっは!」

 ゼノスの豪快な笑い声が庭いっぱいに響き渡る。

「もちろんだ!」

 迷いのない返事だった。

 ゼノスは大きな手をアイリスの頭へぽんと乗せる。

「ようやく言ったな。」

「待ってたぜ。」

 アイリスは少し驚いたように顔を上げる。

「……待ってたんですか?」

「当たり前だ。」

 ゼノスは笑う。

「弟子ってのはな。」

「無理やりなるもんじゃねぇ。」

「自分の足で、自分の意思で選ぶもんだ。」

 その言葉に、アイリスは昨日の夜を思い出す。

 急がなくていい。

 ちゃんと自分で決めろ。

 それがお前の人生だからな。

 あの言葉は、本心だったのだ。

「だから。」

「今のお前の返事が聞けて嬉しい。」

 その笑顔は、昨日と同じように真っ直ぐだった。

 アイリスも自然と笑みを浮かべる。

「よろしくお願いします。」

 もう一度、深く頭を下げる。

「ああ!」

「任せとけ!」

 ゼノスは力強く頷いた。

 その様子を見守っていたマリアも、静かに微笑む。

 子どもたちの一人が、不思議そうにアイリスを見上げた。

「アイリスお姉ちゃん、お勉強に行くの?」

 その一言に、アイリスはしゃがみ込み、小さく頷く。

「うん。」

「もっとたくさん勉強して。」

「もっとたくさんの人を助けられる魔法使いになってくるね。」

 子どもは少し寂しそうな顔をしたあと、にっこり笑った。

「じゃあ、すごい魔法使いになって帰ってきて!」

「うん。」

「約束。」

 小さな指が差し出される。

 アイリスは優しくその指に自分の指を絡めた。

「約束だね。」

 青空の下、小さな約束が結ばれる。

 その光景を見ながら、ゼノスは腕を組み、満足そうに笑っていた。

(これでいい。)

(こいつは、自分で未来を選んだ。)

 誰かに決められた道ではない。

 誰かの期待に応えるためでもない。

 自分自身の意思で選んだ、新しい人生。


 少女はその日、初めて自ら未来への一歩を踏み出した。

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