第6話 師弟になる日
翌朝。
澄み切った秋空が孤児院の屋根を照らしていた。
窓を開けると、ひんやりとした朝の風が部屋へ流れ込む。
今日から、新しい人生が始まる。
そう思うと、不思議と胸は穏やかだった。
昨日まで胸を締め付けていた迷いは、もうない。
寂しさはある。
それでも、自分で選んだ道だから。
アイリスは大きく息を吸い込み、小さく微笑んだ。
◇
食堂へ入ると、香ばしいパンの香りが広がっていた。
台所ではマリアが朝食の支度を進め、子どもたちは眠そうな目をこすりながら席へ集まり始めている。
その一方で、部屋の隅では、大きな荷物を肩に掛けたゼノスが腕を組んで立っていた。
旅支度はすでに終わっているようだった。
アイリスに気付くと、にやりと笑う。
「よう、弟子。」
その呼び方に、アイリスは思わず頬を赤らめた。
「……おはようございます。」
一拍置いて、小さく続ける。
「師匠。」
口にした瞬間、自分でも少し照れくさくなる。
まだ慣れない響きだった。
ゼノスは腹の底から笑った。
「はっはっは!」
「その呼び方も、そのうち板についてくる。」
アイリスもつられて笑う。
昨日までは「ゼノスさん」だった人が、今日からは師匠。
たった一日で呼び方が変わっただけなのに、二人の関係は大きく変わった気がした。
◇
朝食の前。
「ちょっと来い。」
ゼノスが庭へ歩き出す。
アイリスは素直について行いた。
朝露に濡れた芝生が陽の光を受けて輝いている。
誰もいない庭の真ん中で、ゼノスは立ち止まった。
「旅に出る前に、一つだけ約束しとく。」
先ほどまでの笑顔とは違う。
賢者としてではなく、師としての真剣な眼差しだった。
アイリスは姿勢を正す。
「はい。」
ゼノスはゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「魔法だけ強くなっても意味はねぇ。」
アイリスは静かに耳を傾ける。
「強ぇ魔法なんざ、世の中にはいくらでもある。」
「だが、人を幸せにできねぇ魔法なら、そんな力は何の価値もねぇ。」
その言葉は、森で出会った日から変わらないゼノスの信念だった。
「俺がお前に教えるのは魔法だけじゃねぇ。」
一歩近付き、真っ直ぐアイリスを見る。
「人として強くなれ。」
「俺は魔法じゃなく、お前自身を育てる。」
その言葉が胸へ深く落ちていく。
才能を育てたいのではない。
自分という人間を育てたい。
そう言ってくれた人だった。
だから、自分はこの人について行こうと決めたのだ。
アイリスは自然と背筋を伸ばす。
「はい。」
「よろしくお願いします、師匠。」
深く頭を下げた。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
ぽん、と大きな手が頭へ乗る。
「固ぇな。」
ゼノスは苦笑した。
「弟子なんだから、もっと肩の力抜け。」
「はい……。」
「返事も固ぇ。」
「……はい。」
「まだ固ぇ。」
アイリスは思わず吹き出した。
「ふふっ。」
「難しいです。」
「慣れりゃいい。」
ゼノスも笑う。
「俺も師匠なんて初めてだからな。」
「えっ?」
アイリスは目を丸くした。
「師匠も初めてなんですか?」
「当たり前だ。」
「弟子なんざ、お前が初めてだ。」
そう言って豪快に笑う。
思わずアイリスも笑ってしまう。
(そうか。)
(私だけじゃないんだ。)
自分が初めて弟子になるように。
ゼノスにとっても、自分は初めて育てる弟子なのだ。
少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「よし。」
ゼノスは満足そうに頷く。
「それじゃ、朝飯食って、元気よく出発するか。」
「はい!」
今度の返事は、自然と明るく響いた。
二人は並んで食堂へ戻っていく。
秋の朝日が、その背中を優しく照らしていた。
◇
朝食を終えると、旅立ちの話を聞きつけた子どもたちが次々と集まってきた。
「アイリスお姉ちゃん!」
「これ、あげる!」
一人の男の子が、小さな折り紙を差し出す。
少しいびつな形だったが、一生懸命折ったことがすぐに分かった。
「ありがとう。」
アイリスは両手で大切に受け取る。
「これはね!」
「お花!」
女の子は庭で摘んだ小さな野花を束ねていた。
「とってもきれい。」
「大事にするね。」
別の子は、木の実を糸でつないだ小さなお守りを首から外して差し出した。
「これね!」
「ぼくのおまもり!」
「アイリスお姉ちゃんが持って!」
「えっ。」
一瞬ためらう。
「でも、大切なものでしょ?」
「うん!」
「だからあげる!」
その真っ直ぐな笑顔に、断ることはできなかった。
「ありがとう。」
「すごく嬉しい。」
一人ひとりが、自分にできる精一杯の贈り物を持ってきてくれる。
拙い字で書かれた手紙。
花。
絵。
木の実。
どれも高価なものではない。
けれど、どんな宝石より温かかった。
アイリスは一つひとつ受け取り、その子の名前を呼びながらお礼を伝えていく。
「ありがとう、ルカ。」
「ありがとう、ミア。」
「ありがとう、ユノ。」
その度に子どもたちは照れくさそうに笑った。
その様子を少し離れた場所から見ていたゼノスは、腕を組んだまま静かに目を細める。
(いい場所だ。)
(だから、あいつはあんな真っ直ぐ育ったんだな。)
ふと、一人の小さな女の子がアイリスの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……ねぇ。」
「うん?」
「帰ってくる?」
その一言で、辺りが静かになる。
他の子どもたちも、不安そうな顔でアイリスを見上げていた。
昨日は笑って送り出そうとしていた。
けれど、本当に今日別れるのだと実感したのだろう。
寂しさを隠しきれなくなっていた。
アイリスはゆっくりとしゃがみ込み、一人ひとりと目を合わせる。
そして、優しく微笑んだ。
「うん。」
「必ず帰ってくる。」
「約束。」
小さな女の子が、おずおずと小指を差し出す。
「ゆびきり……。」
アイリスは笑顔で自分の小指を絡めた。
「約束。」
「ゆびきりげんまん。」
その姿を見ていた子どもたちも次々と集まってくる。
「ぼくも!」
「わたしも!」
気が付けば、小さな手が何本も差し出されていた。
アイリスは一人残らず指切りを交わしていく。
「約束。」
「絶対帰ってくるね。」
「うん!」
「待ってる!」
「いっぱい魔法覚えてきて!」
「すごい魔法使いになってね!」
元気いっぱいの声が重なる。
胸がいっぱいになる。
寂しい。
離れたくない。
そんな気持ちは、きっとみんな同じだった。
それでも誰も、「行かないで」とは言わなかった。
夢へ向かう自分を、笑顔で送り出そうとしてくれている。
その優しさが、何より嬉しかった。
◇
「アイリス。」
マリアが静かに声を掛ける。
「少し、こちらへ。」
アイリスは頷き、マリアの後について庭の花壇へ向かった。
色とりどりの花が秋風に揺れている。
マリアはポケットから、小さな布袋を取り出した。
「これを。」
「……お守りですか?」
「ええ。」
優しく微笑む。
「あなたが幼い頃、高い熱を出したことを覚えていますか。」
アイリスは少し考えてから、小さく首を傾げた。
「小さすぎて、あまり……。」
「そうですよね。」
マリアは懐かしそうに笑う。
「その時も、このお守りをあなたの枕元へ置いていました。」
「どうか元気になりますように、と願いを込めて。」
アイリスはそっと布袋を受け取る。
小さな袋は、長い年月を経た柔らかな手触りだった。
大切に使われてきたことが伝わってくる。
「院長先生……。」
◇
アイリスは、お守りを胸の前でそっと握りしめた。
布越しに伝わる温もりは、不思議と安心する温かさだった。
「辛い時。」
マリアが静かに口を開く。
「苦しい時。」
「迷った時。」
「このお守りを見てください。」
アイリスは小さく頷く。
「そして思い出してください。」
優しい微笑みを浮かべながら、マリアは続けた。
「ここは、あなたの帰る場所です。」
「いつでも、帰ってきていいのですよ。」
「私も、みんなも。」
「あなたが帰ってくる日を、ずっと待っています。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に込み上げていたものが、とうとう溢れ出した。
「……院長先生。」
涙が頬を伝う。
「今まで、本当にありがとうございました。」
何度も言いたかった言葉だった。
けれど、口にすると本当に別れが来てしまう気がして、言えずにいた。
マリアは何も言わず、そっとアイリスを抱きしめた。
幼い頃から何度もそうしてくれたように。
泣いた日も。
嬉しかった日も。
怖かった日も。
いつだって、この腕の中は温かかった。
「あなたは、私の自慢の娘です。」
耳元で囁かれたその一言に、アイリスは堪えていた涙を止めることができなかった。
「……はい。」
小さく返事をするのが精一杯だった。
◇
やがて、旅立ちの時が来る。
孤児院の門の前には、子どもたちが並んでいた。
アイリスはみんなの顔を一人ずつ見つめる。
笑っている子。
泣いている子。
必死に涙を堪えている子。
どの顔も、大切な家族だった。
アイリスはゆっくりと頭を下げる。
「今まで、本当にありがとうございました。」
「立派な魔法使いになって、またみんなに会いに帰ってきます。」
子どもたちから元気な声が返ってくる。
「待ってるー!」
「約束だからね!」
「絶対帰ってきて!」
アイリスは涙を拭き、精一杯笑った。
「うん。」
「約束。」
ゼノスはその様子を静かに見届けると、ふとマリアを振り返った。
「安心しろ。」
「弟子は必ず、一人前にして返す。」
マリアは穏やかに微笑み、静かに頭を下げる。
「……お願いします。」
「どうか、あの子をよろしくお願いいたします。」
ゼノスは照れくさそうに鼻を鳴らした。
「任せとけ。」
「……行くぞ。」
「はい。」
二人はゆっくりと歩き始めた。
誰も引き止めない。
みんな笑顔で手を振っている。
その笑顔が、何よりの応援だった。
マリアは静かに二人を見送り、小さく胸の前で手を組んだ。
(どうか、お二人ともご無事で。)
◇
森へ入る。
見慣れた小道。
聞き慣れた鳥のさえずり。
木漏れ日。
土の匂い。
何度も歩いたこの道も、今日だけは少し違って見えた。
やがて、大きな樫の木が姿を現す。
アイリスは自然と足を止めた。
ゆっくりと樫の木へ歩み寄る。
そして、そっと幹へ触れた。
(ソル。)
静かに目を閉じる。
(行ってくるね。)
返事はない。
けれど、その瞬間。
さらり、と風が吹き抜けた。
枝葉が優しく揺れ、木漏れ日が踊る。
まるで――。
(いってらっしゃい。)
そう言われたような気がした。
アイリスは小さく微笑む。
「行ってきます。」
今度は声に出して呟いた。
もう振り返らない。
ゼノスが少し先で立ち止まり、振り返る。
「置いてくぞ、弟子。」
その声に、アイリスは笑って駆け寄った。
「待ってください、師匠。」
ゼノスは豪快に笑う。
「はっはっは!」
「それでいい!」
二人は肩を並べて歩き始める。
孤児院という帰る場所。
ソルとの大切な思い出。
新たな師との出会い。
そのすべてを胸に、少女は未来へ向かって歩き出す。
秋風が二人の背中を静かに押していた。




