第4話 才能ではなく人格
夕食を終えた孤児院は、ゆっくりと夜の静けさに包まれ始めていた。
食堂では子どもたちが食器を片付け、それぞれ寝る支度を始めている。
「おやすみなさい!」
「おやすみー!」
元気な声が廊下へ消えていく。
アイリスは最後の皿を洗い終えると、布巾で丁寧に水気を拭き取った。
「ありがとう、アイリス。」
マリアが穏やかに微笑む。
「いえ。」
「いつものことですから。」
アイリスも小さく笑みを返す。
その様子を、少し離れた場所でゼノスが腕を組みながら眺めていた。
(本当に自然なんだよな。)
誰かに頼まれたわけでもない。
褒められたいわけでもない。
年下の子が困っていれば手を貸し、重い物があれば代わりに運ぶ。
それが、この少女にとっては呼吸をすることと同じくらい当たり前になっていた。
ゼノスは静かに口元を緩める。
(やっぱり間違っちゃいねぇ。)
◇
やがて子どもたちが寝室へ向かい始める。
「ゼノスさん!」
「また遊ぼうね!」
「おう!」
「今度は絶対つかまえるからね!」
ゼノスが豪快に笑う。
「はっはっは!」
「言ったな!」
「楽しみにしとくぜ!」
笑い声が少しずつ遠ざかり、やがて孤児院は穏やかな静寂を取り戻していく。
食堂に残ったのは、ゼノス、マリア、そしてアイリスの三人だけだった。
暖炉の火が静かに揺れ、薪が小さく音を立てる。
マリアは湯気の立つお茶を三つ用意すると、ゼノスとアイリスの前へ静かに置き、自分も向かいへ腰を下ろした。
「どうぞ。」
「ありがとな。」
ゼノスは湯飲みを受け取り、一口すすった。
「……うめぇ。」
思わず漏れた一言に、マリアが小さく笑う。
「今日は薬草茶です。」
「身体も温まりますよ。」
「なるほどな。」
「だからこんなに落ち着くのか。」
ゼノスは感心したように頷いた。
少しの沈黙が流れる。
暖炉の火だけが静かに揺れていた。
やがてマリアは姿勢を正し、穏やかな眼差しでゼノスを見る。
「それで。」
「本日は、どういったご用件でしょうか。」
空気が少しだけ変わる。
アイリスも自然と背筋を伸ばした。
ゼノスは湯飲みを机へ置くと、真っ直ぐマリアを見つめた。
「ああ。」
「その話をしに来た。」
一拍置いて、飾らない口調のまま告げる。
「アイリスを弟子にしたい。」
部屋の空気が止まる。
アイリスは息を呑んだ。
昼間、森で言われた言葉。
けれど、あれは勢いで口にしたものだと思っていた。
まさか、本当に孤児院まで来て話をするとは思ってもいなかった。
マリアも驚いたように目を瞬かせる。
「弟子……ですか。」
「ああ。」
ゼノスは迷いなく頷いた。
「本気だ。」
「俺は、この子を育てたい。」
その声には冗談めいた響きは一切なかった。
森で豪快に笑っていた男とは思えないほど真剣な眼差しだった。
マリアは静かに息を整える。
驚きはあった。
だが、目の前の男が軽い気持ちで口にしているわけではないことは、今日一日を共に過ごして理解していた。
だからこそ、聞かなければならないことがある。
「……どうして、この子なのでしょうか。」
静かな問いだった。
責める口調ではない。
大切な娘を託すかもしれない相手だからこそ、その理由を知りたかった。
ゼノスはすぐには答えなかった。
ゆっくりと目を閉じる。
今日一日の出来事が頭の中を巡っていく。
森で見た、何度も書き換えられた術式。
薬草を語る真剣な眼差し。
人を助けたいと語った夢。
そして孤児院で見た、誰かのために自然と動く姿。
目を開いたゼノスは、小さく息を吐いた。
「才能だけなら――」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「他にもいる。」
◇
その言葉に、アイリスの胸が小さく痛んだ。
(……やっぱり。)
(私に期待されているのは、魔法だけなんだ。)
そんな思いが胸をよぎり、自然と視線が床へ落ちる。
しかし、ゼノスはゆっくりと首を横へ振った。
「けどな。」
「俺が見たのは、そんなもんじゃねぇ。」
その一言に、アイリスは顔を上げる。
ゼノスは穏やかな表情のまま続けた。
「森で初めて会った時、お前は何度失敗しても術式を書き換えてた。」
「暴発しても止めねぇ。」
「失敗した理由を考えて、また試す。」
「諦める気なんざ、これっぽっちもなかった。」
アイリスは思わず目を瞬かせる。
あれは、自分にとって当たり前のことだった。
誰かに見られているなど考えたこともない。
「薬草だってそうだ。」
「効能も育ち方も保存方法も、全部自分で調べて覚えたんだろ。」
「……はい。」
「誰にも教わってません。」
「だろうな。」
ゼノスは小さく笑う。
「あの知識は、人から聞いただけじゃ身につかねぇ。」
「自分で調べて、失敗して、積み重ねてきた奴の知識だ。」
アイリスは何も言えなかった。
褒められている。
それは分かる。
けれど、どこか落ち着かなかった。
そんなアイリスを見ながら、ゼノスはさらに続ける。
「それに、お前は言ったよな。」
真っ直ぐな視線が向けられる。
「『困ってる人を助けられる魔法』って。」
アイリスは静かに頷いた。
「はい。」
「橋も……。」
「家も。」
「病気で苦しんでる人も。」
「みんな助けられる魔法があったらって……。」
「そう思ってます。」
その声に迷いはなかった。
ゼノスは満足そうに笑う。
「そういう夢を、本気で語れる奴は案外少ねぇ。」
部屋が静まり返る。
暖炉の薪が小さく弾ける音だけが響いた。
ゼノスはゆっくりと食堂の方へ視線を向ける。
「でもな。」
「今日、一番驚いたのはそこじゃねぇ。」
アイリスもマリアも、その言葉を黙って待つ。
「夕飯のあとだった。」
ゼノスは静かに語り始める。
「誰にも頼まれてねぇのに。」
「小さい奴の皿を持ってやって。」
「重たい鍋を運んで。」
「転びそうな子を支えてた。」
アイリスは少し困ったように首を傾げた。
「……そんなの。」
「みんなやってます。」
「いや。」
ゼノスははっきりと言う。
「やってねぇ。」
「少なくとも、お前みたいに自然にはな。」
アイリスは言葉を失う。
「誰かに褒められるためでもねぇ。」
「見てもらうためでもねぇ。」
「当たり前みたいに身体が動いてた。」
「それが、お前なんだ。」
マリアは静かに微笑む。
院長として、ずっと見続けてきた姿だった。
年下の子どもが泣けば駆け寄り、誰かが困れば一番に手を貸す。
アイリス自身は、それを特別なことだと思ったことは一度もない。
ゼノスはゆっくりとマリアへ向き直る。
「人を助けることが、この子には当たり前になってる。」
「そんな奴は、滅多にいねぇ。」
その声には、確信があった。
何十年と人を見てきたゼノスだからこその重みがあった。
マリアは小さく目を伏せる。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
この人は、ちゃんと見てくれていた。
魔法だけではなく、この子が歩んできた十年間を。
◇
ゼノスはゆっくりとアイリスへ向き直った。 真っ直ぐに、その瞳を見つめる。
「俺が育てたいのはな。」
一呼吸置く。
「魔法の才能じゃねぇ。」
静かな声だった。 けれど、その一言は誰よりも力強かった。
「お前自身だ。」
時間が止まったようだった。
アイリスは息を呑んだ。
(……私、が。)
胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。
これまで褒められる時は、いつも結果だった。
薬草を覚えたから。
魔法が上手だから。
頑張ったから。
でも――。
自分という存在そのものを認められたことは、一度もなかった。
気付けば視界が滲んでいた。
一粒の涙が頬を伝う。
「……どうして。」
声が震える。
「どうして……私なんですか。」
ゼノスは少しだけ照れくさそうに頭をかいた。
「だから言ってんだろ。」
困ったように笑う。
「お前だからだ。」
その言葉は、飾り気もなく、真っ直ぐだった。
だからこそ、深く胸へ届いた。
アイリスは唇を震わせる。
言葉が出ない。
涙だけが静かに零れていく。
マリアはその姿を優しく見つめていた。
この十年間。
誰よりも努力し、誰よりも我慢してきた子だった。
人を助けることばかり考え、自分のことはいつも後回し。
そんなアイリスが初めて、「あなた自身」を認めてもらえた。
マリアの胸にも温かなものが込み上げる。
(本当に……。)
(この方なら。)
(安心して、この子を託せる。)
静かな沈黙が流れた。
やがてマリアは穏やかに微笑み、口を開く。
「ありがとうございます。」
「この子を、そこまで見てくださって。」
ゼノスは少し照れくさそうに笑う。
「礼を言われるようなことじゃねぇよ。」
「俺は、本当にそう思っただけだ。」
その言葉にも飾りはなかった。
マリアは一度頷くと、窓の外へ目を向ける。
すっかり夜は更けている。
「もう遅い時間ですね。」
「ゼノス様。」
「今夜はどうか当院へお泊まりください。」
ゼノスは少し驚いたように目を丸くした。
「いいのか?」
「もちろんです。」
「大切なお話は、焦って決めるものではありません。」
そう言ってアイリスへ優しい視線を向ける。
「アイリス。」
「答えは今日でなくても大丈夫。」
「ゆっくり考えなさい。」
「あなた自身が選んだ道なら、私は応援します。」
アイリスは小さく頷いた。
「……はい。」
ゼノスも腕を組みながら笑う。
「俺も急がねぇ。」
「ちゃんと自分で決めろ。」
「それがお前の人生だからな。」
その言葉に、アイリスはもう一度静かに頷いた。
◇
夜。
自室へ戻っても、眠気は訪れなかった。
窓から差し込む月明かりが、部屋を淡く照らしている。
ベッドへ腰掛けたまま、今日一日の出来事を何度も思い返した。
ソルとの思い出。
孤児院のみんな。
マリアの優しさ。
そして――。
『お前だからだ。』
その一言が、何度も胸の中で響く。
自分だから。
才能ではなく。
努力だけでもなく。
自分自身を見てくれた人がいた。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
同時に、不安も残っていた。
この場所を離れていいのだろうか。
本当に、自分が行ってしまっていいのだろうか。
答えはまだ出ない。
それでも――。
心は少しずつ、未来へ向き始めていた。
窓の外では、静かな夜風が木々を揺らしている。
アイリスはそっと胸へ手を当て、小さく目を閉じた。
(もう少しだけ……。)
(ちゃんと考えよう。)
その夜、少女は初めて、自分自身の未来と向き合い始めた。




