第五章 森の深みと忍び寄る影
洞窟を後にした四人は、再び雨の降りしきる森の中を進んでいた。
雨はまだ激しく、木々の葉を叩く音が絶え間なく響いている。
零は先頭を歩き、鬼哭丸の柄に右手を置いたまま、周囲の気配を鋭く警戒していた。
ルリアは零の背中に軽く寄りかかるようにして歩き、時折小さく息を乱していた。
天城蓮は少し後方を歩き、二本の刀を腰に差した軽やかな足取りで後方を警戒している。
シルフィアはルリアの横を歩き、杖を握りしめながら淡い緑色の魔力を絶え間なく放ち、皆の体力を少しずつ回復させ続けていた。
「零……まだ痛む……?」
ルリアが零の背中に小さく声をかけた。
零は前を向いたまま、低く答えた。
「問題ない。
お前こそ、無理をするな。傷が開いたら意味がない」
森は深く、木々が密集して視界をほとんど奪っていた。
足元は泥と落ち葉でぬかるみ、零の黒革旅靴がずぶずぶと沈むたび、冷たい水が染み込んでくる。
雨が木の葉を叩く音、遠くで獣の遠吠えが響き、時折木々の間から聞こえる金属の擦れるような音が、零の神経を尖らせていた。
聖騎士団の残党がまだ追ってきている可能性は高かった。
零は右腕でルリアの体を支え、左手に鬼哭丸を握ったまま、いつでも抜けるように構えていた。
(守ると決めた以上、絶対に守り抜く。
侍として、一度背中を見せたら終わりだ)
森を進むことおよそ二時間。
ようやく木々が少し開け、小さな岩壁に開いた別の洞窟を見つけた。
零はルリアをゆっくりと下ろし、鬼哭丸を傍らに立てかけた。
「ここで少し休む。
傷の具合をもう一度確認する」
ルリアは洞窟の岩壁に背を預け、浅い息を繰り返していた。
銀髪が顔に乱れ、紅い瞳がぼんやりと零を見つめている。
左の脇腹の傷は深く、血が完全に止まったわけではなかった。
零は刀袋から予備の布を取り出し、水筒の水で湿らせた。
「痛いだろうが、我慢しろ。
魔族の傷は冷えると悪化しやすい」
零の指が傷口を丁寧に拭う。
ルリアは小さく顔をしかめ、痛みに耐えながらも零の顔を見上げた。
「零……本当にありがとう……
私みたいな者を、ここまで守ってくれて……」
零は傷の手当てを続けながら、低く答えた。
「礼はいい。
侍として守ると決めたからだ。
それに、お前はまだ子供だ。こんな雨の中で死なせるわけにはいかない」
その時、洞窟の外から再び木々が激しくざわめく音がした。
零の瞳が鋭く細まる。
「来る……今度はもっと多い」
ルリアの体がびくりと震えた。
「聖騎士……また……?」
零は鬼哭丸を手に立ち上がり、ルリアを背後に庇うように構えた。
洞窟の外から、十二人の影が雨の中を進んで現れた。
今度は先ほどより組織立った追撃隊だった。
白銀の軽鎧を着込み、胸に太陽と剣の紋章。
十人には聖剣、二人は弓を構えている。
雨に濡れたマントが重く垂れ下がり、兜のスリットから冷たい殺意が零とルリアに向けられていた。
先頭の騎士が低い声で叫んだ。
「魔王の落とし子と、その侍の犬め……ここで終わりだ!
王女を渡せば、貴様だけは生かしてやるぞ!」
零は静かに構えながら答えた。
「生かしてやる、か。
随分と上から目線だな。
お前たちこそ、俺の太刀の錆になる覚悟はできているのか?」
一番手前の騎士が弓を引いた。
矢が雨を切り裂いて飛んでくる。
零は一瞬で間合いを詰め、鬼哭丸を横に払った。
ビュンッ!
矢が真っ二つに切断され、地面に落ちる。
そのまま零は二歩で弓使いに迫り、刃を振り下ろした。
ザシュッ!
軽鎧の肩口が深く裂け、血が噴き出す。
騎士が悲鳴を上げて後退する。
しかし残る十一人が同時に動き出した。
左右から五人が聖剣を振りかぶって斬りかかり、
後ろの二人が弓を構えて援護射撃を始める。
零の体が低く沈んだ。
鬼哭丸が雨を切り裂きながら美しい弧を描く。
最初の剣を弾き返し、反撃の横薙ぎを放つ。
刃が軽鎧の隙間を捉え、鮮やかな血が雨に混じって飛び散った。
「ぐあっ!」という短い悲鳴が上がる。
もう一人の騎士が聖剣を大きく振り下ろしてきた。
零は体を捻って避け、鬼哭丸を下から突き上げる。
刃が兜と胸当ての間を抉り、血が零の顔に飛びかかった。
零は血を振り払いながら、低く笑った。
「聖王国の騎士とは思えぬ動きだな。
もっと本気で来い。俺はまだ温まっていない」
戦いは激しさを増した。
零は洞窟の入り口を背に、狭い地形を活かして敵の数を分散させる。
鬼哭丸が雨を切り裂き、聖剣を弾き返し、鎧の隙間を的確に抉る。
血しぶきが零の黒い羽織に飛び、肩や腕に浅い傷がいくつも増えていく。
ルリアが洞窟の奥から心配そうに声をかけた。
「零! 後ろに三人……弓が!」
零は即座に反応し、体を翻して矢をかわした。
同時に鬼哭丸を大きく振り回し、残る弓使いの一人を牽制する。
矢が零の肩をかすめ、羽織に小さな裂け目を作った。
痛みはほとんど感じなかった。
代わりに、背後のルリアの存在が零の集中力をさらに研ぎ澄ませていた。
(守らねば……この少女を、これ以上傷つけさせない……)
零の動きが加速した。
三歩で間合いを詰め、残る聖剣使いの五人を同時に相手取る。
剣と剣が激しくぶつかり合い、火花が雨の中で散った。
金属の衝突音が洞窟に響き渡る。
零は一人の剣を弾き返し、もう一人の脇腹を浅く斬りつけた。
血が噴き出し、白銀の鎧を赤く染める。
「この侍……ただ者ではない!
魔王の娘を守るために、ここまで強いのか!」
一人の騎士が叫んだ。
零は冷たく答えた。
「守るためだけじゃない。
俺は侍だ。剣を振るう理由など、それで十分だ」
最後の騎士が、聖なる光を宿した剣を大きく振りかぶった。
「聖王の名の下に、魔族を討つ!」
零は低く息を吐き、鬼哭丸を両手で構えた。
青白い光が刃全体を走る。
次の瞬間、零の体が影のように動き、騎士の間合いに入り込んでいた。
鬼哭丸が美しい弧を描き、騎士の聖剣を弾き飛ばした。
そのまま一閃。
刃が軽鎧の胸当てを深く切り裂き、騎士が膝をついた。
戦いの音が、突然静かになった。
地面には十二人の聖騎士が倒れ、血と雨が混じり合って赤黒い水溜まりを作っていた。
零の黒い羽織は新たに血しぶきで染まり、肩に浅い傷ができていた。
息が少し荒くなっていたが、目はまだ鋭く輝いていた。
零は鬼哭丸を振って血を払い、鞘に収めると、すぐにルリアの元へ戻った。
ルリアは壁に寄りかかったまま、紅い瞳を大きく見開いていた。
「零……大丈夫……? 傷が……血が……」
零は膝を折り、ルリアの顔を覗き込んだ。
「俺は大丈夫だ。お前こそ……傷が開いていないか?」
ルリアは小さく頷いたが、痛みで顔を少し歪めた。
「零……ありがとう……
零が戦う姿……かっこよかった……
でも、怖かった……零が傷つくのが……」
零は低く言った。
「心配するな。
俺は倒れない。
お前を守ると決めた以上、絶対に倒れない」
外では雨がまだ激しく降り続いている。
遠くで、再び金属の足音のようなものが聞こえた気がした。
零は鬼哭丸の柄に手をかけ、目を細めた。
「休む時間は短い。
すぐにまた動くぞ、ルリア。
お前を安全な場所まで連れて行く」
ルリアは零の袖を弱々しく掴んだ。
「うん……零と一緒なら……どこまでも……」
洞窟の外では、桜の花びらが雨に打たれながら、ゆっくりと舞い落ち続けていた。
二人の逃避行は、まだ始まったばかりだった。
そしてこの雨の夜は、零とルリアの運命を、静かに、しかし確実に結びつけようとしていた。




