第三章 追撃の影と熱い吐息
洞窟の中で短い休息を取った後も、雨は一向に弱まる気配を見せなかった。
外では激しい雨音が続き、時折遠くから聞こえる金属の擦れる音が、零の警戒心を刺激し続けていた。
零は鬼哭丸を膝に置き、洞窟の入り口に座ったまま外を睨んでいた。
背後ではルリアが岩壁に寄りかかり、零の羽織を体に巻いたまま浅い息を繰り返している。
羽織の前はわずかに開き、雨に透けたドレスがまだ体に張り付いたままだった。
白い胸の膨らみが呼吸に合わせてゆっくり上下し、薄い布地越しにうっすらと浮かぶ曲線が、薄暗い洞窟の中で艶やかに光っていた。
零は視線を前へ固定しようとしたが、どうしても背後の気配が気になった。
(……まだ傷が塞がっていない。あの身体で無理に動かせば、また血が……)
ルリアの太ももに残る赤い筋、痛みで震えていた細い腰、零の指に残る柔らかな肌の感触が、頭から離れなかった。
ルリアが小さく身じろぎした。
「零……まだ、痛い……でも、少し楽になったよ……ありがとう……」
その声は甘く掠れ、洞窟の静けさに響いた。
零は振り返り、ルリアの姿を改めて見てしまった。
銀髪が濡れて頰や胸に張り付き、紅い瞳が潤んだまま零を見つめている。
羽織の隙間から覗く白い肌と、柔らかく膨らんだ胸の谷間が、零の視線を強く引きつけた。
「……動くな。まだ休め」
零の声は低く、わずかに掠れていた。
自分でも気づかないうちに、視線がルリアの胸元や太ももに落ちてしまっていた。
ルリアは弱々しく微笑み、零のほうへ体を少し寄せた。
「零の背中……とても広くて、温かかった……
背負われている間、ずっと零の匂いがして……安心した……」
その言葉に、零の胸が強く高鳴った。
(安心? 俺の背中で感じていたのは、そんなものだけか……?)
ルリアの身体が零の背中に密着していた時の感触——柔らかな胸の圧力、細い腰の震え、熱い吐息——が鮮やかに蘇り、零は無意識に拳を握りしめた。
ルリアが少し声を落として続けた。
「零は……私みたいな魔族の娘を、なぜそこまで守ってくれるの?
人間にとっては、私はただの敵……賞金首でしかないのに……」
零は少し間を置いて答えた。
「敵か味方かで、人を守るかどうかを決める侍などいない。
俺はただ……一度守ると決めたら、背中を見せないだけだ。
お前が魔王の娘だろうと、関係ない」
ルリアの紅い瞳がわずかに揺れた。
「でも……もし、私が本当の魔王の血を引く者として、
いつか人間を傷つけるような存在になったら……零は、私を斬るの?」
零はルリアの目を見つめ返した。
「その時は……その時だ。
今は、お前を守る。それだけを考えている」
二人の間に、雨音だけが響く短い沈黙が落ちた。
ルリアの指が、零の袖をそっと掴んだ。
その指はまだ冷たく、しかし確かな熱を宿していた。
その時、洞窟の入り口近くで木々が激しくざわめく音がした。
零の瞳が鋭く細まる。
「来る……複数だ」
ルリアの体がびくりと震えた。
「聖騎士……? また……?」
零は鬼哭丸を手に立ち上がり、ルリアを背後に庇うように構えた。
洞窟の外から、五人の影が雨の中を進んで現れた。
今度は先ほどより装備の整った追撃隊だった。
白銀のフルプレートに近い軽鎧を着込み、胸に太陽と剣の紋章。
三人には聖剣、もう二人は弓と短剣を構えている。
雨に濡れたマントが重く垂れ下がり、兜のスリットから冷たい殺意が零とルリアに向けられていた。
先頭の騎士が低い声で叫んだ。
「魔王の落とし子と、その侍の犬め……ここで終わりだ!
王女を渡せば、貴様だけは生かしてやるぞ!」
零は静かに構えながら答えた。
「生かしてやる、か。
随分と上から目線だな。
お前たちこそ、俺の太刀の錆になる覚悟はできているのか?」
ルリアが零の背中から小さく声を上げた。
「零……無理はしないで……私は……」
零は振り返らずに言った。
「黙っていろ、ルリア。
お前は俺の後ろにいろ。それだけでいい」
一番手前の騎士が弓を引いた。
矢が雨を切り裂いて飛んでくる。
零は一瞬で間合いを詰め、鬼哭丸を横に払った。
ビュンッ!
矢が真っ二つに切断され、地面に落ちる。
そのまま零は二歩で弓使いに迫り、刃を振り下ろした。
ザシュッ!
軽鎧の肩口が深く裂け、血が噴き出す。
騎士が悲鳴を上げて後退する。
しかし残る四人が同時に動き出した。
左右から二人が聖剣を振りかぶって斬りかかり、
後ろの二人が弓を構えて援護射撃を始める。
零の体が低く沈んだ。
鬼哭丸が雨を切り裂きながら美しい弧を描く。
最初の剣を弾き返し、反撃の横薙ぎを放つ。
刃が軽鎧の隙間を捉え、鮮やかな血が雨に混じって飛び散った。
「ぐあっ!」という短い悲鳴が上がる。
もう一人の騎士が聖剣を大きく振り下ろしてきた。
零は体を捻って避け、鬼哭丸を下から突き上げる。
刃が兜と胸当ての間を抉り、血が零の顔に飛びかかった。
零は血を振り払いながら、低く笑った。
「聖王国の騎士とは思えぬ動きだな。
もっと本気で来い。俺はまだ温まっていない」
ルリアが洞窟の奥から心配そうに声をかけた。
「零! 後ろに二人……弓が!」
零は即座に反応し、体を翻して矢をかわした。
同時に鬼哭丸を大きく振り回し、残る弓使いの一人を牽制する。
矢が零の肩をかすめ、羽織に小さな裂け目を作った。
痛みはほとんど感じなかった。
代わりに、背後のルリアの存在が零の集中力をさらに研ぎ澄ませていた。
(守らねば……あの身体を、これ以上傷つけさせない……)
零の動きが加速した。
三歩で間合いを詰め、残る聖剣使いの二人を同時に相手取る。
剣と剣が激しくぶつかり合い、火花が雨の中で散った。
金属の衝突音が洞窟に響き渡る。
零は一人の剣を弾き返し、もう一人の脇腹を浅く斬りつけた。
血が噴き出し、白銀の鎧を赤く染める。
「この侍……ただ者ではない!
魔王の娘を守るために、ここまで強いのか!」
一人の騎士が叫んだ。
零は冷たく答えた。
「守るためだけじゃない。
俺は侍だ。剣を振るう理由など、それで十分だ」
ルリアが背後から必死に声をかけた。
「零……もう十分だよ……
私を守るために、無理して傷つかないで……
もし零が倒れたら……私は……」
零は戦いながら、わずかにルリアの方へ声を投げた。
「心配するな。
俺は倒れない。
お前を守ると決めた以上、絶対に倒れない」
その言葉に、ルリアの紅い瞳が熱く潤んだ。
「零……ありがとう……
でも、私も……零のそばにいたい……
零が戦っている間、私の心臓も一緒に痛い……」
零の胸に熱いものが込み上げた。
戦闘の最中にも、ルリアの甘い声と、洞窟に残る彼女の体温が、零の集中力を微妙に乱していた。
(この声……この想い……俺をここまで揺さぶるのか……)
最後の騎士が、聖なる光を宿した剣を大きく振りかぶった。
「聖王の名の下に、魔族を討つ!」
零は低く息を吐き、鬼哭丸を両手で構えた。
青白い光が刃全体を走る。
次の瞬間、零の体が影のように動き、騎士の間合いに入り込んでいた。
鬼哭丸が美しい弧を描き、騎士の聖剣を弾き飛ばした。
そのまま一閃。
刃が軽鎧の胸当てを深く切り裂き、騎士が膝をついた。
戦いの音が、突然静かになった。
地面には五人の聖騎士が倒れ、血と雨が混じり合って赤黒い水溜まりを作っていた。
零の黒い羽織は新たに血しぶきで染まり、肩に浅い傷ができていた。
息が少し荒くなっていたが、目はまだ鋭く輝いていた。
零は鬼哭丸を振って血を払い、鞘に収めると、すぐにルリアの元へ戻った。
ルリアは壁に寄りかかったまま、紅い瞳を大きく見開いていた。
「零……大丈夫……? 肩の傷……血が……」
零は膝を折り、ルリアの顔を覗き込んだ。
その距離は近く、ルリアの甘い吐息が零の頰にかかった。
「俺は大丈夫だ。お前こそ……傷が開いていないか?」
零の指が自然とルリアの脇腹に伸び、羽織を少しめくって傷口を確認する。
白い肌が露わになり、柔らかな胸の下部まで視界に入った。
ルリアの体がびくりと震え、甘い声が漏れた。
「ん……っ、零……触らないで……今は……はぁ……
でも……零の指、優しい……」
しかしルリアは零の手を振り払わず、むしろ弱々しく零の指に自分の指を絡めてきた。
その指は熱く、細く、零の手に絡みつくように震えていた。
零の胸に、再び熱いものが込み上げた。
(この感触……この吐息……守るだけだと言い聞かせているのに……なぜ、こんなに……)
ルリアの紅い瞳が、潤んだまま零をじっと見つめている。
その瞳には痛みだけでなく、零に対する信頼と、どこか期待のような色が混じっていた。
零の視線が自然とルリアの胸元に落ち、羽織の隙間から覗く柔らかな膨らみと、雨に濡れた肌の艶に釘付けになる。
二人の間に、雨音だけが響く沈黙が落ちた。
零の指がルリアの肌に触れたまま、微妙に動きを止めていた。
ルリアの唇がわずかに開き、甘い息が零の顔にかかる。
このまま近づけば——触れれば——どうなるのか。
零は自分の心臓の音が、雨音より大きく聞こえるのを感じていた。
「……零……」
ルリアが小さく名前を呼んだ。
その声は甘く、洞窟の空気をさらに濃密にした。
「零が戦っている姿……とてもかっこよかった……
でも、怖かった……零が傷つくのが……
私、零のそばにいたい……もっと近くに……」
零はゆっくりと手を引き、羽織をルリアの体にかけ直した。
しかし指先がルリアの胸の近くを掠め、柔らかな感触が一瞬残った。
「もう少し休め。
追手はまだ来るかもしれないが……ここで無理に動くのは危険だ」
ルリアは小さく頷き、零の袖を弱々しく掴んだまま、目を細めた。
「零のそばにいると……怖くない……
零の目……少し、熱い……
私も……零のことが、気になって仕方ない……」
零は答えず、外の雨を見つめた。
しかし内心では、侍の誇りと、抑えきれない何かが激しくせめぎ合っていた。
ルリアの身体の感触、甘い吐息、潤んだ紅い瞳——すべてが、零の心を静かに、しかし確実に揺さぶり続けていた。
雨はまだ降り続いている。
洞窟の外では、桜の花びらが雨に打たれながら舞い落ち、
二人の間に生まれた微妙な熱が、ゆっくりと膨らみ始めていた。
この逃避行が、ただの逃げではない何かへ変わっていく予感を、
零もルリアも、まだ言葉にできずにいた。




