水の試練
――――走る、走る。全てを伝える為に。
切れた息などに欠片も意識を向けず、身体の上げる危険信号を無視し、一人の学生は先程目に焼き付けた情報の全てを皆に伝えようと必死に前を向き続けていた。
彼は避難民達から役立たずの烙印を押された学生であり、複数のグループで纏まって外周を警備していた者の一人だ。他の仲間達が付き合いきれるかと警備を止めて出ていく中で一人だけ仕事を全うしようと動いていた者でもあり、彼が居なければ情報の伝達は著しく遅れていただろう。
先ず最初に見たのは、強烈な光。雷光が目の前で起きたが如く衝撃すら起こし、彼の身体を吹き飛ばす。
転がされた身体は土に塗れるが、既に度重なる戦闘によって制服も含めて綺麗な箇所は少ない。水すら貴重な現在において、顔を拭う手段は乾いた布だけだ。
故に胸元のポケットに入った布の切れ端を取ろうとして、彼はそれを見た。
「…………は?」
それはどう表現を詩的にしたとしても、綺麗に思えるものではない。
それはどう誇張したとしても、周囲の誰もが微妙に感じるものだ。
話を聞くだけならば単なる笑い話になるだけだろう。そう思わせるだけの唐突さがあり、滑稽さがあり、それでも彼の目には驚愕と恐怖が渦を巻く。
黄金の鱗。不気味で巨大な二つの瞳。青く煌めくヒレは宝石の如し。
さながら財宝が意思を覚えて動いているようで、しかしその動きは酷く生物的だった。最初から全て生きていなければ成せない動作を行い、その物体は当たり前に空を浮遊する。
あれは魚だ。どんなに目がおかしくなろうとも、あれは魚にしか見えない。
だがそれは、あまりにも巨大だった。化け魚にしては異質な大きさを誇り、単純に圧し掛かられただけで人間は容易く死ぬだろう。
脳裏を過ったのは大質量の化外という単語。
もしもあれがそうであるならば。もしもあれが元凶であるならば。その存在はムラトを素通りして此処に出現したことになる。
当初の動きとは明らかに違う。冷や汗を流しながら走りだし、早急に伝えなければと足を動かし続ける。
外周であるとはいえ、魚と此方の距離は近い。少しでも進めば避難民が存在し、そしてあの魚であれば容易く蹂躙する事も可能だろう。
逃げなければならない。少しでも遠く、少しでも長く。
例えそれが無駄な事だとしても、それでも彼の頭にはやらないという選択肢は無かった。それは彼なりの正義感が突き動かしたのかもしれないし、見返してやろうという気持ちもあったのかもしれない。
どちらにせよ、彼の選択は極めて良い方向に傾いた。
「――伝令!伝令!」
およそ絶叫に近い声だ。
男があげるには情けなくも思えるが、体裁を取り繕う余裕は無い。駆け込みながら進む姿は多数の避難民達からは奇怪に見えたものの、それでも場が騒ぎ始める。
阿頼耶保持者が慌てる事態というのは避難民達にとっては既に慣れたもの。化外の出現時にはよく目にする光景であり、今回もそうなのだろうと高を括っていた。
今度はどんな化外が現れたというのか。今度はどれだけの死人が出るというのか。
擦り切れた思考は最早諦観に近く、だが命を守る本能は自然と身体を動かす。そんな事などつゆ知らず、伝令だと声を張り上げた男は驚異的な速度でもってアルトの前に辿り着いた。
無酸素のまま走り過ぎた為に息は荒く、喉も痛い。
アルトはそんな姿を見せる彼に眦を鋭くさせ、報告を促す。これだけ急がなければならないと感じていたのだ。余程の事態が発生したと考えるのが自然だろう。
「報告!ムラトを襲撃したと思われる巨大な化外が出現!もう間近に居ます!!」
「何だとッ!?」
男が叫び、周囲の誰もがその情報に目を見開く。
ムラトを襲撃した対象は未だ遠かった筈だ。空間転移でもしなければ到底追い付ける訳もなく――であれば、そういう異能を隠し持っていたということなのだろう。
盛大な舌打ちをしつつ、立ち上がったアルトは周辺に居る警備隊員や学生に迅速な行動を促す。
既に一分一秒が貴重な状況だ。遅い行動をする者が居れば最悪切り捨てるくらいの覚悟が必要になる。
何人かの警備隊員達には確認と迎撃を指示。殆ど死ねと言っているようなものだが、当然守るべきは自分の命だ。決して打倒しなければならないとは思っていない。
視線だけで会話を続ける数人の警備隊員達は走り出し、学生はその姿に不安を抱く。
一瞬だけとはいえ、彼等の顔は普段見て来たものよりも明らかに厳しくなっていた。それこそ死すらも考慮しているような、本来ならば浮かべるべきではない顔だ。
避難民を強制的に立ち上がらせ、未だ正確な情報が揃っていなくとも走らせる。
ムラトを滅ぼした化外が出現したと誰かが口に出せば皆が恐怖し、我先にとノイタナに向かって走り出す。その必死さは生を欲するが故のものであり、護衛として多数の学生組が周辺を囲むように走り続けている。
人間としての性能が違うが為に必死な形相を浮かべて走る者達にも追従する事が出来た。
それは僥倖と言えるのかもしれないが、さりとて現在の状況が最悪だ。
全員をさっさと下がらせて自分も逃げるというのがこの場合の最良なのだろうが、全員が無事に遠くに逃げるまでは時間が掛かる。
その間に件の化外が此処に到着すれば惨たらしい死体が複数揃えられてしまうだろう。
それだけは何としてでも死守せねばならない。例え己が死のうとも。
得物である剣を見る。特注の剣には不壊の阿頼耶が今もずっと続き、その刀身には罅の一つも入っていない。
雑魚ならばこの剣の一撃でもって屠れる。
だが、巨大な化外に対して此方の攻撃が果たして有効なのか。ムラトでの多数の攻撃は殆ど意味を成さず、そのまま攻撃を許してしまった。
もう二度と、自身が何の意味も無い人間だとは思いたくない。己はただ死ぬ為だけの存在であったなどと、そんな馬鹿馬鹿しい事実を欲しくないのだ。
故に避難民が全員彼の背後に行くまで、自身はそこで立ち続ける。
同じ様に立ち向かおうとする学生にはさっさと逃げろとだけ告げ、同じ警備隊員は彼の覚悟に心を動かし共に立つ。
馬鹿な真似だ。愚かな行為だ。自分だけでも逃げれば助かるかもしれないというのに、彼が選択したのは守るという最も難しい行為だった。
「何馬鹿な事してるんですか、リーダー」
「言うな。俺だって理解はしているさ――さて、今が踏ん張りどころだ。全員で生きて帰れるよう、全身全霊で行くぞ」
「合点承知」
――――――――――――
「逃げるぞッ!」
張り上げたアルベールの声が周辺に響く。
既に大多数の避難民は移動を開始し、彼等の周囲には学生しか残っていない。
そんな状況であるからこそ彼は叫ぶが、一人ノースは相手がやって来るだろう方向を見つめるだけ。
それが堪らなく苛立たせる。急がなければならないというのに、何を悠長な真似をしているのか。
この際強引にでも連れて行くかと腕を掴もうとし、そこで漸く彼はアルベールを見る。
――その目には覚悟があった。その目には動きを止めさせられる何かがあった。
「相手の進む速度が予定よりも速い。これでは逃げたところで直ぐに追い付かれる。……誰かが足止めをしなければなるまい」
「それは今警備隊の人達が――」
「足りると思うか?」
アルベールの言葉を、全てノースが切る。
緊張感のみが満ちる中、その疑問に全員が当たり前の反応を示す。それは首を左右に振ることであったり、沈黙を貫くことであったり、拳を握り締めて視線を地面に落とすことであったりだ。
当然否。彼等だけではどう頑張ったとしても相手の進行を妨げる事は出来ない。
足掻いた末に無残な末路を辿るだけ。命を投げ捨てるような戦いをするとしても、それでも彼等が遠くに見える魚の怪物を抑え切れるとは思えなかった。
ならばどうする。一体どうやって、無事に避難民を逃がす。
沈黙が続く。その中でノースだけは、唯一魚を見ながら言葉を続けた。
「俺が行こう」
それは自殺志願者の言葉だ。
彼の告げた内容に全員が息を飲み、馬鹿なと口を開く。学生の経験度では警備隊員達よりも先に死ぬ。
どれだけ彼個人の阿頼耶が強力だったとしても、それでも相手は本来人類が立ち向かうべきではない存在だ。それを止めようなどと、明らかに死にに行くような話だった。
容認など出来よう筈も無い。アンナは涙を浮かべながら腕を掴み、嫌だと首を左右に振る。
「今は逃げようよ!貴方だけじゃ絶対に勝てないッ!!」
彼女の言葉は真実だ。彼本人の技能は外側の者達とは違い、内側の本人が一番よく解っている。
強力な阿頼耶が行使出来るのはオリオンのお陰。無理をすれば寿命が削り続けられ、それでも更に出力を上げようものなら一気に残った生命を使い潰すだろう。
それで相手が倒れるのならばまだしも、保証は何処にも無い。無駄に命だけを消費して死ぬという事になれば、最早犬死以外のなにものでもなくなるのだ。
そうなってほしくはない。彼にはまだまだ目指せる頂があると彼女は考えているようだが、最早彼自身の成長は限界に近い。
元より彼の性能は平凡だ。全体的に均等に能力が割り振られ、だからこそ特化されたものが無い。
何かが特化していれば話は別だったものの、そうでない彼の成長限界は間近だった。
――だがしかし。それでも彼には諦められない夢がある。
成長限界が間近である事を本能で理解し、彼女達の言葉も正論であると理性が理解し、己の行為が余程の馬鹿であるとも当然納得している。
しかしだからこそ、逃げる事は許されないのだ。それは己にとって敗北に繋がるから。
絶対に負けてはならない。一度の敗北でも許せば、その時点で己の人生は転げ落ちる。
もうあの頃には戻れないと嘆きながら暮らすのだ。そんな人生など生憎御免である。
「案ずるな。俺は絶対に勝つ。何があろうと、何が起ころうと」
根拠の無い言葉を並べ、彼は内にある阿頼耶を動かす。
燃え立つ気配は戦闘時の彼を間近に見ている者ほど驚愕させた。純粋な肉体強化系だとばかりに思っていたが、彼の身体には炎が纏わりついている。
炎熱系の能力かとも思われるが、そうと断ずるにはアンナは自分が掴んでいる腕が熱くないと感じているた。ただ何処までも暖かく、優しさに溢れた炎だったのだ。
彼が今までの戦闘時で発揮した阿頼耶の出力は一割。これは彼自身の寿命が削られない限界値であり、それを超えようものなら一気に消費が始まる。
彼はそれを今始めたのだ。己の目的を達する為に、希望の未来をその手に掴む為に。
何度倒れようとも立って見せる不屈の精神と共に、彼は前へと歩き出す。――――それを止めようと彼女は腕に力を入れようとして、されどまったく入らなかった。
理性は止めろと訴えている。
ここで止めねばあの人は死ぬ。規格外の化外にまともな方法など通用しないのだ。
それが出来るのは英雄のみ。真実、人類の中の最高峰でなければ無茶をひっくり返す事は出来ない。
だが三人全員が、その場で動きを止められていた。
彼の姿に威圧されたのもそうだが、何よりもその姿に嘗て本で読んだ英雄の姿が重なったのだ。
不撓不屈の精神でもって、あらゆる難事を踏破する。
御伽噺の中にしか現れない理想の中の理想。現実では見る事の出来ない存在が、今この場には居る。
彼はそうしなければ英雄とは呼ばれないと思っているからそうしているが、真実を知らない者達からすればその精神は眩し過ぎて、しかし同時に惹かれてしまう。
真の英雄は此処にあり。見果てぬ夢を目指し、雛は今正に成長の時を刻もうとしている。
「――天に煌めく創星よ」
紡がれるは彼のものではない、別の人物のもの。
貸している存在は彼のその姿に微笑みを浮かべ、小さな拍手を送る。
才が無いと思い込んでいる者が英雄への道を歩んでいるのだ。それを祝福しない筈が無いだろう。
例えその先が破滅でも、オリオンは素直な気持ちで前へと向けさせる。何故なら彼もまた英雄故に。
――生きよ、生きよ、生きよ。勝者には美酒が授けられ、眼下の者等が羨む誉を与えられるだろう。
――聖なる剣を腰に下げ、破邪の盾を腕に持ち、見果てぬ希望を背負う若人よ。いざ全ての者を率いて、勝利の道を駆け抜けよう。案ずるなかれ、艱難辛苦はお前を鍛える最良の友である。
――天に飛び立て、我が御魂。例えその先が冥府の門であろうとも、己は絶えず不滅なり。故に見るが良い。これぞ我等が覇の道。幾星霜と紡ぎ続ける、未来に輝く極点である。
『故に勝者は我等のモノだ』
重なった言葉は、さて誰のモノだったのか。それは誰にも解らず、彼の身体の各所からは一気に焔が噴出する。それを見て、その圧倒的なまでの存在感に全員が情景を覚えた。
――幻想天極・黄道乃陣 。




