炎上の可能性
それはきっと衝撃的な光景だった。
それはきっと、いや間違いなく進んではならない道だった。突き進んだ先には地獄が待ち受け、訪れた人間達は皆纏めて煉獄の底へと叩き落とされる。
彼等の見上げた先では鬼が嗤い、そうしてそのまま骨も残らず燃やされるのだ。
そんなイメージを一瞬でクラスの生徒達は思い描いた。かなり抽象的な想像であるものの、皆が思わんとしている内容はこれだけで十分。寧ろ解らない者の方が珍しいだろう。
彼等のクラスの実質ナンバーワン。学力を除いた肉体性能の総合値が最も高い人物への攻撃なぞ、逆に返り討ちに会うのが定めだ。
態と攻撃を受けたのが理由作りであるなど言うまでも無く、それは殴った張本人たる不良も気づいている。
気付いていて、それでも殴ったのだ。相手が気に入らない言動をしていたが故に。
我慢というものを忘れたが如く、不良の腕は正確にノースの頬を殴っていた。鈍い音は決して無事である事を証明してくれず、教室内は沈黙が流れ続ける。
明らかに意識を持っていくような一撃だ。加減も何も無い攻撃など、阿頼耶保持者相手でなければ絶対にしてはならない愚行だったに違いない。
一般人がこの一撃を受ければ確実に骨が折れる。そうなるように訓練していたからこそ、それは絶対だ。
確約された威力は、それだけに制限を設けなければ一種の兵器となる。特に阿頼耶保持者は最終兵器としての側面も存在しているだけに、迂闊な行動が言語道断であるのは当然だ。
自制の心を育むのがこういった学園の存在理由の一つであるが、それをしたとしても明確にそうなる保証は無い。
結局は本人次第になる部分が大きいのだ。不良のように安易に力を入れて殴る事も戦場に出れば嫌という程に体験するようになるだろう。
それでも、今此処は学園だ。ノースも不良も平等であるからこそ、そしてやってはならない事をしてしまったからこそ、罰則は当たり前の如くやって来る。
「――よし、これで名目は立つな」
殴られた頬を片手で軽く押さえながらも、ノースは軽い口調で顔を上げる。
口の端からは血が流れ、制服を僅かに汚していた。直ぐに怪我を治そうとナギサが立ち上がるが、それをノースは手で制す。
その程度で能力を使う必要性は無い。それに、そうせずとも勝手に身体は完治を目指す。
驚異的な速さでもって流れる血は止まり、傷付いた部分が修復されていく。それは見て解る程に速い。
不良はそれを見て、目を驚愕に広げた。あまりにも早すぎるが故に、驚くしかなかったのである。
阿頼耶保持者の回復速度は常人を逸脱しているとはいえ、それでも一気に治るような速さは保有していない。
目に見えて塞がるとするなら、それは小さな掠り傷が出来た時だけだ。断じて全力で殴った傷までを今この場で完全に修復させる事など出来はしない。
それだけの回復速度を有する、というだけでも注目は集めるだろう。
流れていた血の量も少なく、制服の袖で拭えば僅かな跡が残る程度。人間らしさとは無縁の規格外さが、彼には備えられてしまった。
だが、真に驚くべきは他にある。確かに回復速度はあるが、それ自体は阿頼耶の能力で十分に可能。
もしくは小規模解放を起こせば良い。それだけで人間の限界を容易く凌駕するのだから、した方が負傷した部分も一気に治って得となるだろう。
しかし、彼は阿頼耶を発動していない。実際に発動すれば皆解るだろうが、そもそもの時点で違うのだ。
普通の人間のままで、普通とは違う現象を起こす。
正しく生まれながらの英傑でなければ起こせない芸当だ。彼自身の実力の程も定期テストで見せている。
流石はクラスの第一位。並で終わらせる筈も無いのは当然だった。
「さて、そろそろ授業が始まる。このままお前達を殴り倒して医務室送りにしたいものだが、そうはなりたくあるまい。……直ぐに席に座って用意を済ませておけ」
彼本人としては挑発の意味合いが多分に含まれた言葉だった。
ああいった手合いは簡単に激高する。そうなるように自分を奮い立たせる精神構造を構築しているのだから、逆にそうならないと設計ミスということになるのだ。
適切な言葉と適切な顔の動き。双方合わせて放てば、相手は簡単に怒り狂う。ならばどうなるのかなど決まっている話。その証拠に取り巻きだけは臆して席に座ったが、リーダーはそうならなかった。
拳を固めて殴った程度では効かないと確信しているのか、不良の行動は睨むだけ。
殺意すら浮かばせ、恥辱を受けた怒りの炎を瞳に宿し、されど何もしてはこない。
男として正しい行為だと言うべきか、それとも情けないと馬鹿にすべきか。意見は分かれるだろうが、ノースはそれを見て正しい行為だと少しだけ賞賛した。
強過ぎる相手に立ち向かったところで負けは見えている。相応の強さを手にするまで、可能な限り逃げ続けるのが賢い生き方と言えるだろう。
散々に挑発したというのに、何でもないようにノースは自分の席に戻る。
鞄から教科書類を取り出し、次の教師を待つ姿勢を取った。他の者達も同様の行動を起こし、残されたのは不良だけ。彼は酷く苛立ちながら手近のグランの机を蹴り、席へと戻る。
渦巻く感情は怒り一色。必ず復讐してやると燃え続け、それが治まる気配はまったく見えない。
それは小さな小さな種火。一定の実力を持っていれば誰であれ簡単に消せてしまう、そんな大した事の無いような焔だった。
不良自体もクラスの中ではそれなりの実力を保有しているとはいえ、それでもノース達のように実戦を経験した組からすれば程遠い。
何処からどう見たとしても勝機は薄く、復讐が実る確率は絶無そのもの。――それでもそこに種火が出来たのは確かであり、何かを起爆させるスイッチが出来た。
残るは大炎上へと導く線のみ。それさえ用意が済んでしまえば、誰が同じ真似をしたとしても似た結果を起こすだろう。
人の恨みは深い。己の感情次第で更に深くなり、やがてはそれが生きる理由にすらなる。
鼻息を荒くさせる彼もまた、感情的な人間だ。理性だけで動いていれば拳を振るうことなどなかっただろうに、感情的過ぎるが故に極小の爆発を起こしてしまった。
ならばこそ、もう止まる事はないだろう。
それが何であれ、不良は遂行せんと足掻き続ける。純粋な実力も、卑怯な手でも、それがノースに効くのであれば実践を選ぶのだ。何のことでもないような一幕が大事件にまで発展する事は多くある。
ならばこれも、その大事件への小事なのだろう。
招いた自覚が無いままに、全ては全て巡り回る。化外との戦いだけに意識を傾けているからこそ、ノースは人間達との戦闘を重要視していなかった。
しかしそれは当然の話だ。今は人間同士で争う戦争の世ではなく、誰もが一丸となって怪物と戦う世なのだから。
誰もそこに意識を向けない。誰も人間性の闇に触れようとしない。
真に恐ろしいのは化外だけなのか、それとも人間もなのか。今こそ再認識をすべき時が来たのかもしれなかった。
――――――――
「今日から一緒に鍛える事になった、グラン・ランスローだ。同じクラス故に名前程度は知っていると思うが、これから親睦を深めていってほしい」
「ど、どうも……よろしくお願いしまう」
放課後のグラウンド。
今日も今日とて鍛錬の時間となり、普段のメンバーが集まって来る。
その最初で自己紹介を行うグランの姿が見えるが、全員の反応は些かに気不味いものだった。
そもそも、この鍛錬の目的は実戦で満足に戦えるようにする為のものだ。目標としては獅子を単騎で撃破出来る程を想定していて、それが一日で解決する筈も無い。
常に向上心は必要であるし、それ故に周囲に目を向ける余裕も削られる。そんな中で、彼等の中ではあまり記憶に残らない人物が現れた。
親し気な反応をノースがしているので拒絶する腹積もりは無いものの、それでも歓迎するとは言えない。
グランが実戦を経験していないだろうとも解っている。そんなものは相手の感覚を少し掴むだけで理解出来てしまうから、彼からは向上心しか見えない。
何を目標にしているのかも瞭然だ。だからこそ、両陣の間は気不味いままであった。
このままでは非常にやり辛いと、勇気を持ってライノールが手を挙げる。顔は引き攣った笑みで固定され、挙動自体もどこか硬いまま。
誰かがやらねば進まないと思ったからこその行動に、素直に全員が内心で彼を称えていた。
「え、えーっとだな。なんでそんな話になったんだ?こっちは詳細を聞いてねぇから突然参加するって言われても……」
「……そうだな。先ずはそこからだったな。すまない、俺が性急過ぎた」
確かに、これは全て彼の独断だ。
勝手な行動とも言え、それは本来褒められたものではない。それでもノースならば何かを考えているという今までの結果が責める事を許さず、疑問を口にするだけに留めた。
全員もノースとグランが昼食を取っている姿を見ている。それは遠目だったが、何か真剣に話をしていたのを僅かに記憶に残していた。
それ故に少なからずの期待も無いとは言えない。そも、何か変化を起こす時はノースの場合は大体良い変化になる場合が多い。良い選択肢を出す力があると言うべきか、それを見抜く力があるのだろう。
常人には疑問があっても、後々になって成果に繋がる。
過剰な鍛錬がその最たる例だ。彼が努力を欠かさなかったからこそ、獅子の撃退に成功している。
だからこそ、誰もが彼の説明に耳を傾ける。
要所要所で危険な部分もあった為にグランを睨む者が居たが、その点はノース自身が庇ったので戦闘にまでは発展していなかったものの、それでも内容が内容だけに問題も多くある。
特に問題となっているのは、やはり授業と授業の合間にあった騒動だろう。表層だけを見れば不良グループに注意を促しただけのものだが、裏側まで見ればそれで終わるとは誰も考えない。
五人の貴族は、全員が最低でも伯爵の子息。最高が侯爵の子息にまでなる。
伯爵までならばノース単体でも問題ではない。同じ位ならば、クラスの証言や本人の言葉だけで簡単に勝ち越すだろう。
例え賄賂を贈ろうとも、利がある方に傾き易いのが貴族だ。ノースの実家が相手であれば、どれだけ金を積まされたとしても協力はしない。
しかし、これが侯爵にまでなると話が変わる。その域にまでなれば王宮における重要な職務を任される立場となり、言ってしまえばその部分の操作を自身の手で行えてしまうのだ。
無論それが周囲に露見されないように準備する必要があるが、その程度は彼等にとって造作も無い。
更に言うのであれば、闇討ちの危険性もあった。
どれだけ人間としての性能が高くとも、それでも人間だ。寝ている場所を襲われれば一溜りもないし、食事に毒を混ぜるような真似を平気で行うような危険人物であれば、どのような手段を講ずるかも解らない。
それらを含めてグランを助ける価値があるのかと言えば、間違いなく現段階では無いだろう。
成績上位の者の中にはグランの名前は無かった。それはつまり、実力や知識についても最高で中位までしかないということ。
残酷な話であるが、それならば一緒に鍛錬などしない方が良い。
グランは以前以上に虐められる事になるだろうが、彼等にとって重要なのはノースの安全だ。グランを切り捨てて多少なりとて安全になるのならばそうした方が良い――――尤も、そんな話をすれば即座に鉄拳が飛んでくるだろうが。
「事情は把握したわ。でも大丈夫なの?グランは攻撃されるでしょうけど、貴方も多く攻撃されるわ」
「無論承知済みだ。最初はまさかここまでとは感じていなかったが、どうやら随分と平民は貴族達によって虐げられている。そろそろ意識の一つでも変えねばなるまい」
「……ふむ。今一つだけ思い付いたのだが、もしやノースと同じかもしれんな」
彼が鍛錬に誘ったのはグランの技術が欲しいからが一番大きい。
しかし、先の出来事を見て考えたこともある。それは、やはり学園という施設があっても平民と貴族という差は無用な争いを起こすものであるということだ。
基本的には平民側が弱い所為で起きているそうだが、当然貴族側にも強くはない者は居る。
この格差を無くしていけば将来の差別意識も多少なりとて現象傾向になってくれるかもしれない。確実ではないが、それを少しでも考えられるのならばしない選択肢は無いだろう。
最初は興味から始まったが、次にすべき事が出来たのだ。これでまた一つ実績を作り上げられれば、周囲がノースを見る目もまた変わって来る。
情報も簡単に集められるようになる。であれば、やらない道理は無い。
「では各人、新しく考えた鍛錬を今日から開始する。全員準備をしてくれ」
新しく始まった変化に皆が戸惑う。それが慣れるまでどれだけの時間が掛かるのか。
まだそれは、誰にも解らなかった。




