人生とは鍛錬の連続である
鍛える事で何が変わるか。
それは己の肉体そのものであり、精神であり、即ち全てである。
生きるとは全て鍛える事に繋がるもの。言い方を変えれば努力するというもので、その始まりは赤ん坊の頃より始まっている。
赤ん坊が最初に辿り着かなければならないのは何だ。それは勿論、立ち上がることである。
転がる事も、四つん這いで歩く事も、それは過程でしかない。そして立ち上がれる事に成功したのならば、次に目指すべきは言語の獲得。これが無ければ会話自体が成り立たず以降の生活に支障をきたすのは間違いない。
このように人の生とは常に鍛錬と隣り合わせになっている。生きる為に己の肉体を磨き、身体を構成する栄養素を摂取し、より強靭で理知的な人間へと進化の足を進めていくのだ。
それが途中で挫ければ肥満体系の者になってしまうだろうし、性格の捻じ曲がった社会不適合者になる。
誰もが鍛える事を喜びだと感じている訳ではないのだ。
楽が出来るのならば楽をしたいだろう。誰かが出来るのならば任せたいだろう。怠惰に過ごす事を理想と断ずるのは人間としては非常に当たり前であり、故にそれに抗う真似をする者こそが真に尊ばれる。
鍛え上げた肉体にこそ花は集まる。理性の輝きにこそ黄金は舞い込む。
美醜の価値観とは残酷なもので、それが普遍であればある程にどうしようもない溝が生まれてしまうもの。
世界が平和にならないのは、こういった避けようのない格差が存在してしまうからだ。尤も、だからといって努力しない者にまで尊ばれる世の中というのは歪みに歪んでいる。
認める者など肥満を極めた者や、性格が狂人一直線の者だけだ。普通の者であれば必ず拒絶する。
とどのつまり、結局どんな思想を掲げたとしても誰もが納得する道理など在りはしないのだ。
人間は考える動物であるのだから、思想の違いが生まれるのは必然。そしてそれは、恐らく学園という若者達が集う場所にこそ最も顕著な形として現れる。
「おいグラン。最近ちょくちょくこっちの用事を無視するじゃねぇか。平民のクセしてよぉ」
授業と授業の合間にある、皆が一息を吐く休憩時間。
そんな大事な時間の中で粘つくような声が大きく聞こえた。ただ話すだけならばそこまでの声量は必要ではないというのに、皆に注目してほしいとばかりに上げている。
呆れながらも、出てきた人名の為に顔を動かす。席が若干離れているが故に向こうから此方が見ている様子は見えないだろう。
例え見えたとしても他も見ているのだ。それほど気にはされまい。
声の発生源には、五人の男達が居た。どれもこれも貴族らしさとは何だろうかと疑問を投げかけたくなる過剰な装飾品を身に着け、傍に女を一人ずつ侍らせている。
半円の形で集まり、一つの席を囲む。相手はグランであるのは言うに及ばず、当の本人は顔を俯かせていた。
「べ、別に良いだろ。僕が何してたって」
「良い訳ねぇだろうが。それじゃあ荷物持ちの役目が果たせねぇだろ?」
「何時からそんな話に――」
「何だ、お前俺に対して文句を吐くつもりかよ」
内容はシンプルだ。呆れるどころか笑いを取ろうと奮闘しているかの如き題目だ。
虐めは何処の学校でも十や百くらいはある。その全てを阻止するのは不可能であるし、特に此処のように特殊な学校であれば尚更に止めるのは難しい。
リーダー格が高い爵位を持っていればいる程にその学園に脅しを掛けられるのだから、寧ろこういった特殊な学園の方が虐めは多いのかもしれないと俺は思う。
虐められる原因なんて本当に些細なものだ。敢えて例に挙げなくとも、誰であれ簡単に思いつく。
今回は純粋にグランが虐め易い人間だったからだろう。彼等の思考には一定の理解が出来るが、そもそも虐めを好かない身としては下らないだけだ。
こういった輩こそが品位を落とすのだと、何故貴族の者達は考えないのか。
教養を得る機会があるというのに、どうして馬鹿にまで落ちようと思うのだろう。当時の俺ならば父や兄の迷惑にならない程度には努力しようと勉学を重ねてきたというのに。
リーダー格たる無駄に艶やかな黒髪を持つ男は座っているグランの襟を片手で掴んで持ち上げた。
その拘束を必死にグランは外そうとするが、まるでぐらつく気配が無い。どうやら彼の力では対象を動かす事は出来ないようだ。
その様子を、残りの四人と女共が笑っている。
非常に胸糞悪い事案だ。教師に連絡でもして一斉に生徒指導室行きにでもしてやろうか。
あそこに住まう教師陣はどんな生徒だろうと更生させることで有名だ。表で流れている限りだが、それでも中々に苛烈な性格をしているらしい。
そこでならば彼等も大人しくなるのではないかとも思うが、同時にグランの情報も広まってしまう。
今のままでは彼が注目されても悪印象しか与えまい。大人しい姿は貴族達にとっては格好の的だ。
それで破滅されては勉強を受ける事も出来なくなってしまう。放課後までにはまだ時間があるのだ。潰されてしまう訳にはいかない。
ならば素直に助けに入るべきかと結論をつけて、席を立つ。
貴重な休憩時間ではあるものの、それ以上に貴重な存在が居るのだ。また同じような人間を探すなど骨でしかなく、そんな事を続けるつもりも無い。
偶々目に入ったからこそ、彼の人柄を知ったからこそ、見捨てるのは愚かだろう。特に彼は此方に対して少なからずの好意を抱いている。それが表層の自分に対してのみであろうとも、その部分に関してだけは真実なのだ。
直向きな性格と合わせれば、限りなく芽が出る確率が低くとも助ける価値はある。
打算的な部分も含め、彼が今後多少なりとて将来性があるのならば手を差し伸べる事もすべきだ。まだまだ普通の状態の俺に負けるようでは化外なぞ倒せないが、何時かきっと必ずこんな表だけの人間を超えてくれると信じていた。
「そこまでにしておけ」
普段の俺らしくない言葉に、ざわめきが走る。確かにらしくないことだろうが、こんな小さな言葉一つでそこまで騒がれたくはない。
向こうは向こうでかなり驚いた顔をしていたが、それでも次の瞬間には忌々しい者を見る目つきは向けてきた。……どうやら彼の中での俺の評価はかなり悪いらしい。
まぁ、相手は見るからに悪人だ。耳に穴が開いていて、髪は何等かの方法で無理矢理整えられ、立つ姿も非常にだらしがない。
作法で考えるならば迷わず駄目だしを受けるだろう。着崩した制服も無しだ。
いっそ模範的とまで言える程の悪人面には逆に感心さえ覚えてしまう。スタンダードな不良そのものだ。
故に、かけるべき言葉の類も容易に浮かぶもの。特に目の前の人間達は群れている。
こういった人間は基礎部分からして性能が低い。鍛錬を怠り、群れる事で気を大きくし、まるで己等は誰にも負けない無敵の人間なのだと錯覚するのだ。
一人一人の練度がどうしようもないくらいに低いのは事実だろう。
俺でも勝てるかもしれない。そう考えれば、如何に相手が弱いのかは誰であれ理解する筈だ。
「今日は俺が約束を交わしている。何か彼に用があるのならば次回にしてくれないだろうか」
態とゆっくり集まっている彼等の前に出る。
グランが驚きに目を見開いている姿が見え、こんな場面だというのに少し噴出しそうになった。あれは誰も最初から助けてはくれないだろうと確信していたからこその顔だ。それだけ辛い生活を送ってきたのだろうと思うと同情心が芽生えるもので、されど妙な顔をされると芸のようにも見えてしまう。
俺の言葉に――されど不良達はまったくもって引きはしない。
当然だ。俺程度の存在に気圧される筈も無く、同じクラスであるならばぶつかりに行くのは自然だろう。
相手が実戦を経験していないというのもある筈だ。正確に現在の実力を把握出来ていないからこそ、視界の端に見えるナギサの青筋を浮かべた顔が印象的だった。
あれは後々面倒な事を起こす合図だ。止めたいが、しかしこんな連中の為にわざわざ動くのも面倒臭い。
「なんだよ、コイツの味方するってか。俺の爵位を知ってそんなこと言ってんのかよッ」
「此処では関係無いだろう、爵位は。文句があるならば正当性を持ってからにしろ。今のお前達の行動が実家の人間にどう影響を与えるのかなど解り切っているだろうが」
「はっ、んなもん関係ねぇよ。平民は俺達に平伏して、ただただ言う事を聞いていれば良い。折角守ってやってるんだ。その程度は当然だ」
「平民でも阿頼耶に覚醒し、戦っている者は居る。その発言はまったくもって愚かだ。――お前は自分が馬鹿だと吹聴している自覚が無いのか?」
「――なんだと手前ェ?」
少し話しただけでもう把握した。
最初から解り切っていただろうが、リーダー格と思わしき男は馬鹿だ。愚か者だ。同じ馬鹿でも、彼等のような存在は害悪という名で区分されるべきだろう。
親の恩恵があるからこそ今があるというのに、感謝すらせずに当然だろうと平民すら見下している。
典型的とも言えるが、こんな存在に実際に会うと頭痛がするものだ。こういう貴族ばかりが有名になって平民全体から貴族は糞だと言われてしまうものだが、それでもこういった層は一定数存在してしまう。
儘ならないものだと嘆くも、それを解決するには別の貴族が行動するしかない。
故に。グランが絡まれているのならば、同じ貴族であり願った側である俺が止めるのが道理なのかもしれない。
相手は狙いを明らかに俺に変更する。絡めるならば何でも構わないのだだろう。
そこから察するに、相応に位は高い筈。もしも返り討ちになったとしても親の力でも借りて報復するのは間違いない。それがどれだけ情けないのかを知らないまま。
努力を捨てた人間の末路だ。
「どんな人間にも相応の権利があり、特に此処では能力の大小関係無く平等だ。外では違くとも、この施設の中では脅されれば報復をする事が出来る。彼はあまりそうしないが、通常であれば貴様程度は簡単に死んでいた可能性もあるだろう。身の丈にあった生活をしろと言っているのだ。群れて強いつもりになって何の意味がある」
群れてこそ真価を発揮する人間も居るとはいえ、それは別の意味合いでの強さだ。
彼等がまずすべきなのは個々人の質を向上させることであり、それが出来なければ群れたとしても大きな戦力とは見られないだろう。
鍛錬不足は少しでも鍛えている人間が見れば簡単に解るからな。特に鍛錬漬けの毎日を過ごす俺からすれば、体型を見るだけである程度の差は見抜けてしまう。
言葉に、拳を震わせる不良。目は敵意に染まり、更に煽れば殺意すら宿すだろう。
リーダー格がそうなっているが故に周りの仲間達も同様に此方を睨んでいる。多少なりとて圧を感じるが、獅子に比べれば明らかに弱い。
潰すだけならば阿頼耶を起動して一瞬で終わるだろうか。俺の視界の端で事の成り行きを見守るオリオンに視線を投げれば、その意図を察したのか首を縦に振った。
向こうの方が実力は上だ。そんな本人から肯定されたのならば、それは真実なのだろう。
「グラン、この後の予定は忘れるなよ。馬鹿の戯言も流せるようにならなければ、とてもではないが戦場で生きて帰れんぞ」
「は、はい。……解りました」
言うべきことは言った。クラス全体が沈黙に支配されてしまったものの、それでも正義を成した事実に少しばかり胸が軽くなる。今後が少し不安になるが、それは相手から攻撃される事実に対してではない。
一番怖いのは俺の仲間達だ。俺に何かすれば、少なくとも二名ばかりが手を出してくる。それがウィンターやライノールであればまだ多少なりとて常識が効くだろうが、その二人は逆に状況を傍観することを決めるだろう。
本当に危なくなれば流石に介入すると解っているも、そもそも何の関係も無い者が間に入っては状況が混沌と化すだけだ。
俺がするのは言葉を用いる事のみ。暴力に出るような真似は相手がそれを選択した時だ。
言うべきことを言って、席に戻ろうとする――――――――なんてのはきっと不可能なのだろう。
無言で、されど鼻息荒く、誰にでも解るような所作でもって拳を振り上げる音を聞いた。
誰かの息を呑む音も同時に聞こえ、やはりこうなるのかと溜息を吐きたくなる心境を抑える。
振り向けば、そこには拳。此方の顔面を砕かんとする一撃は、しかしどうしようもなく遅い。
されどそれを敢えて受けようと動きを止めた。そうしなければ、俺に正当性が与えられないのである。
手を出すには、それ相応の理由が居る。建前が無ければ批判される世の中において、大義名分は大事だ。
故に教室には鈍い音が響いた。決定的で致命的な、全てを終わりにしてしまう一撃が決まってしまったのだ。




