英雄
立て、立て、立つんだ。
今立たねば命が無い。例え内臓が破壊されようと、破壊された部分から多数の骨が外に飛び出たとしても、衝撃によって両腕が不自然な方向に捻じ曲がったとしても、立たねばならないのだ。
絶え間なく続く激痛の大波に支配されながら、彼は内心で叫ぶ。
今この段階でも阿頼耶で出せる限りの全力稼働を行い身体の修復を始め、立ち上がろうとしている。
バランスなど到底取れる筈も無い。そもそも、バランスを取ること自体が馬鹿な真似だ。
重傷中の重傷。死んでいないのが奇跡なレベル。
どんな医者に見せたとしても首を左右に振られるだけの身体で、それでも彼は懸命に全力を振り絞って立とうと全身全霊を傾けている。
そうしたとしても勝てる見込みは無いというのに。そうしたとしても何も現状は変わらないというのに。
阿頼耶によって回復速度が上昇したとはいえ、そもそもの傷が傷だ。早々に治る筈も無く、彼の身体は修復と破壊の二つが進行し続けていた。
血液を喪失。骨が肉から剥がれ落ちる。抜けていく力は生命の息吹であり、巡る活力もまた体外に排出され続けているのだ。こんな者を戦場へ出すなど許されない。
されど、今この場は戦場そのもの。しかも完全な敗北色に染め上げられ、誰も彼もが悲嘆に暮れる敗北者としての様相を露わとしている。
未だ軽症程度である阿頼耶保持者でさえ同様だ。此方の場合は彼が死んだと思っているのが影響しているのだろうが、兎に角立ち上がる事を選択する者は絶無である。
晴れない煙の中で、早く早くと彼は急かす。
この瞬間に敵は来ているかもしれない。この瞬間に別の仲間に標的を変えているかもしれない。
サウスラーナでも獅子の相手は無理だ。確率操作をしたとて、そもそもが零であれば意味が無い。
そうなればウィンターやライノールも同様に負ける。黒の部隊員の中に可能性が絶対に無いとは言い切れないが、しかし希望はあまりにも薄かった。
故に、彼は立ち上がろうと力を巡らせる。吹き出る血潮も零れ落ちる内臓も全て無視して、今この瞬間に確かな活路を見出す為に足掻くのだ。
それを人は愚かと呼び、或いは無謀と呼び、そして蛮勇とも言うのだろう。
勇気を出すべき場面でないのは明白。相手との実力差も解っているなら尚更に。――――しかし、それを否と言い切るからこそ彼は前を向くのだ。
明日を目指す。誰もが当たり前のように過ごす日々へと求めて、いざ飛翔せよ。
「――天に煌めく創星よ」
身体に走る激痛が言葉一つで消失する。
怪我の回復速度が著しく上昇し始め、それはまるで時間を巻き戻しているが如し。されどその違いに彼は気付かず、そしてその意識は深い場所に居た。
己の深奥。阿頼耶と直接接続している部分。どうしてかは解らずとも、彼は今そこに居る。
ナギサのように狙ったのではない。少なくとも、この瞬間において彼が願ったのは勝利だった。
それを叶える当ても何も無いというのに、彼はただそれだけを願い阿頼耶を起動していたのだ。
生きるという事は勝利する事である。
嘗て何処かで聞いた格言に沿って、彼の阿頼耶は再度の覚醒を開始した。
意識を遥か彼方へと置き去りにし、されど明確な勝利を目指して何者かが介入を行う。それは既存のレールを破壊するだろうが、新たな道をそこに作り上げる。
生への渇望?よろしい、認めよう。
勝つ事によってそれを満たし、お前を極点へと誘ってやる。
「生きよ、生きよ、生きよ。勝者には美酒が授けられ、眼下の者等が羨む誉を与えられるだろう」
言葉は強く、揺るぎなどただの一つも在りはしない。
身体は不自然な程に通常通りに動き、確かな一歩を踏み出した。己こそが王道を歩むのだと宣言するように、彼は誰よりも前を向いて敵へと向かい続けている。
それは煙の遥か先に居る者達全員にも届いた。未だ彼自身の姿が見えずとも、そこに確かな生の気配を感じ取れたのだ。
まだだと。まだ終わった訳ではないと。諦めなければ絶対に最後には勝てると信じている男が、今この瞬間においてそれを成さんと確かな想いを胸にしていたのだ。
皆の顔に活力が湧く。特に阿頼耶保持者に関しては顕著なものだ。生きているし、まだ戦意もあるというそれだけで、誰も彼もが明日への渇望を強く抱いた。
サウスラーナには見える。あの晴天に輝くが如く、世界を照らす極星を。
太陽にも負けぬ光を放ち、あらゆる星々を凌駕する熱量を有し、されどその力に崩されない強靭な肉体。
人間の枠には元々収まってはいなかったが、彼の場合は阿頼耶保持者の枠さえ超えていた。
否。もしかするならば、これこそが阿頼耶を極めんとする者達の姿なのかもしれない。
「聖なる剣を腰に下げ、破邪の盾を腕に持ち、見果てぬ希望を背負う若人よ。いざ全ての者を率いて、勝利の道を駆け抜けよう。――――案ずるなかれ、艱難辛苦はお前を鍛える最良の友である」
「――こいつ……ッ!!」
獅子が歯を軋らせる。拳は血が出る程に握り締め、見開いた目には憎悪が灯り続けていた。
確かに殺した筈だ。人体の急所を破壊したとまでは言わなくとも、二度と戦場に出れない程度には破壊した。起き上がることも、まして呼吸をする事自体激痛を伴うようにしたのだ。
それが何だ。何だこの異常現象は。
目の前に立っているのは本当に先程まで戦ってきた男なのか。そう疑ってしまう程に、獅子の前に立つ男に傷らしい傷が見当たらない。
折れていた骨は全て正常な形となり、流れた血潮は体内へ。剥がれ落ちた内臓も適正な位置へと収まり、正真正銘無傷の状態のままで相対している。
最初の状態と一緒だ。時間が経過しただけで、どちらも決定打を受けた痕跡は一切無い。
仕切り直しだとばかりに睨む彼の姿に、獅子はどうしてか誰かの姿と重なった。
「いい加減、ぶっ潰れろォォォォォ!!」
振り払い、牙と爪を光らせ全速力でもって相手に向かう。
剣が効かないのは既に理解している。彼の筋力では無理矢理断ち切る事も出来ないし、どれだけ全力を尽くそうとも今のままでの彼では獅子は倒せない。
故にこそ、接近する獅子に怒りはあっても不安は無かった。もしもの可能性を欠片も考慮せず、その爪を彼の頭に振り落とす。
数秒後にはその頭からは脳味噌が出て、身体は痙攣でもしながら崩れ落ちるだろう。
そうなるのだ。そうなって当然なのだ。それこそが現実であり、人が生きている以上避けられない道理でなければならない。
――――ならば、獅子は幻想に敗れるだろう。
爪に激突するはただの剣。損耗によって罅が走っていた剣では怪物の一撃を全て受け止める事は出来ない。徐々に徐々にと破壊へと至る不吉な音を奏でながら、しかして獅子は愉悦に笑う事は無かった。
男と視線が合う。黒かった瞳は黄金に輝き、瞳孔が開ききっている。
それが正常な人間の反応ではない事は獅子とて理解が及んでいた。多数の戦闘を繰り広げ、蓄積された経験の中のどれ一つを取ろうとも、同様なものなど無かったのである。
唯一似ている状況と言えば、それは死者を見た時だ。ただの能力も無い兵士を殺した際に見た目は虚ろで、目前の相手と同じく瞳孔が開ききっていた。
それはつまり彼もまた死者であるとするのだが、少なくとも死んだ人間が活動するなど有り得ない。
更に言うのであれば回復など起きよう筈も無し。全てが全て異常な状態である彼に、獅子は困惑も抱きながら吠え続ける。
「天に飛び立て、我が御魂。例えその先が冥府の門であろうとも、己は絶えず不滅なり。故に見るが良い。これぞ我等が覇の道。幾星霜と紡ぎ続ける、未来に輝く極点である」
――幻想天極・黄道乃陣。
爪が剣を割るよりも先に、全ての用意が整われた。
最後の一言と共に阿頼耶は最大の出力でもって展開を開始。発現した能力は未だ不明であれど、獅子は警戒故に距離を取った。
他の者達も範囲攻撃の可能性も含めて全員が移動可能な体勢を取っている。ただ、彼を知るサウスラーナ達は獅子とはまた違う困惑の顔色をしていた。その理由は一重に、以前に見た阿頼耶と詠唱内容どころか能力名と思わしき部分がまったく異なっていたが為。
阿頼耶によって描かれるのは、その人の夢の形だ。英雄になりたいのならばそれに連なる形となり、変化される事は基本として一度も有り得ない。
稀に使用者本人の思想が変わる事によって能力が変化する事態があるものの、ここまでの道中において劇的な変化を及ぼすような事は起こっていない。
だからこそ、疑問を感じたのだ。今目の前にある事象は一体何であるのかと。
「……待たせたな。準備は終わりだ」
そして、祝詞を除いて初めて彼は言葉を話した。
普段通りの言葉遣いに、何処か余裕そうな態度。常の硬い雰囲気は鳴りを潜め、今の彼には人間としての熱さと呼べるものがある。以前も決してそれが無いとは言わないが、僅かであれども笑みを浮かべている姿と比較すれば前者の方が温かみがあるだろう。
ただし、その表情と今の状況はまったく嚙み合っていない。意図も意味も不明な笑みなど不気味でしかなく、それが特別珍しいものであればある程に彼の不自然さが際立ってしまう。
彼の笑みは確かに人間臭い。しかし、それは人間が自然と浮かばせる類のものではない。
言うなれば演技に近いのだろう。余裕であるかのような顔を作り、その下にある真意を隠す。勝負の場においては常套手段ではあるものの、既に互いの現状を知っていては意味は無い。
こうして違和感を持たせるのが精々だろうか。何か隠した札があると思わせ、判断を意図的に誤らせる。
そうする事で状況を有利に進めるのも情報戦の中では有り触れたものであるが、目前の獅子には何の意味も無い。
不気味であれば排除するのみ。元より彼の殺害は決めたことである。
「そうかい……じゃあ死ね」
最大速度。獣は化外ではなくとも人間を遥かに超える速度を出せる。
代表としては馬や豹といった生物だが、既存の生態系に当て嵌まっている時点で人間を超えているのであれば化外が出せる最大速度は想像の埒外にまで至るだろう。
残像を多重に生み出し、どれが本物であるかを隠す。十体の残像は様々な角度で彼に襲い掛かる形を取り、どれであってもその首を引き裂こうとしている風に見えてしまう。
これまで通りであるなら全方位に注意を巡らせての後手。ただし、先程までは間違いなくスピードに差が生まれている以上それは通用しない。
獅子が狙うは首。背後から音を極力消し、斜めに切り裂くように腕を動かす――――ように見せかけた。
本体は数ある残像の中でも一番正面。つまり最も攻撃を防がれ易く、そして絶対にそこには来ないだろうと思わせる正面突撃だ。
光る爪には殺意が漲り、速くその首を寄越せと獅子に叫ぶ。
殺せ、殺せ。似ている奴だからこそ、早急にこの世から退場させるのだ。
もう英雄など存在させてはならない。そんな者達が居るからこそ、世は何も変わってくれないのだから。
「――ッ、グ、」
そうして放たれた一撃は、しかし容易く剣に抑えられる。
金属音を響かせ、拮抗状態を構築。されど今までと違うのは、獅子の爪がただの剣を切り裂けないこと。
如何なる作用によってか武器の強度が跳ね上がり、それは化外の武器を凌駕するまでに至っていた。
予想外も予想外。確かに同じ人間なのかと疑問には感じていたが、それでもこの急な進化は尋常ではない。
鍔迫り合いとなって互いに押し合い、獅子はその意図を探る。
異常が起きたのは間違いなく阿頼耶が展開されてから。獅子との最初の戦闘時でも阿頼耶は発動していたが、今の出力は先程の倍以上にまで上昇をしている。
「一体、何が起きた……」
「教えてほしいか、ネメアの獅子よ」
激突の最中、両者は互いに言葉を放つ。
その中で初めて獅子は驚愕の感情を瞳に浮かべた。一体どうしてお前がそれを知っているのだと睨めば、彼は当たり前のように再度言葉をぶつける。
「見れば解る。何故そのような姿となっているのかは定かではないが、格が通常の化外とは明らかに違う。加えて俺が見てきた怪物共から考えるに、貴様は一等級の存在だ。……尤も、一番の理由は嘗て似たような姿を見たからだがな」
「――テメェ何者だ。通常の化外と格が違う?俺が見てきた?一等級?疑問点は尽きないが、一番疑問に思うのは最後。一体お前は何歳だ。少なくとも三百や四百は決まってる」
「馬鹿を言うな。人間がそれほど長く生きれる筈が無い。俺は十七だよ、今はな」
「クソッタレ。益々見逃せなくなったなぁオイ。特にネメアを知っているってんなら、最優先だ」
互いに武器を弾き合い、距離を取る。反動で彼の剣が上を向いた僅かな瞬間に獅子は超至近にまで迫り、そのまま先と同様に腹に拳を叩き込もうと腕に力を注ぐ。
人間である限り、どれだけ強くなろうと弱点は変わらない。ならばそこを突くのみ。
対人間であるならばそれは正解だ。弱点を攻撃するのは戦闘の基本であるが、最も有効な手段である。
そこに加えて最速の一突きは凶悪の一言。一等級と断じた彼の評価そのままに、魔の槍を思わせる右手の突きは正確に胴体を捉えた。
鈍く響く殴打の音。直撃は明確であり、獅子も完全に当たったと確信している。
そしてそれを示すように彼の口からは血が吹き出し、再度臓物を破壊した。
「――ははは、いかんな。久し振り過ぎて鈍っているようだ」
だが、彼の顔は笑みのまま。
崩れぬ相貌を持った状態で彼は右手に持った剣とは反対の左腕で獅子の腕を掴む。投げ飛ばそうというのならば無理な話だ。単純な体重だけでも片手一本で動かすのは不可能に近い。
だが、その現実を嘲笑うように彼は片手一本で獅子を森へと投げ飛ばした。速度はただ投げただけにしては速く、木に叩き付けようとしているかの如く体勢を整える余裕を与えない。
故に獅子は防御体勢を取り、そのまま木に激突していく。
最初の衝突だけで三本の木が圧し折れ、更に奥へと木が折れる。木の伐採には道具が必要であるというのに、彼は単純に投げるだけでそれを成していた。
獅子の全長は彼の約二倍。それだけの質量を持ち上げ、剰え投げる。誰もが唖然とするのは同然であり、恐らくベテランであろう黒の部隊員もまたその反応は変わらない。
超人の中の超人。今の彼を指し示す言葉としてはこれこそが一番だ。
受けた傷も再度急速回復によって塞がっていき、遂には最初から攻撃を受けたとは思えない程にまで状態が復元される。
基礎能力の上昇などという生易しいものではなく、それは一種の異能そのものだった。
「まだ殺るのだろう?やられた振りなどせずにさっさと向かってこい。俺はお前の悉くを凌駕し、英雄が英雄たる証を見せてやる」
「――ハッ、ふざけんじゃねぇよ」
森から獅子が歩み出る。王者たる風格はそのままに、未だ不明なままの彼へと向けて勝負を続けようという意思を燃やしていた。
ならば戦いは終わらない。どちらかが滅びるまで、この戦いは続くだろう。
互いに逃げの一手は無し。それをするにはあまりにも二人は真っ直ぐ過ぎていた。燃え尽きようとも構わないと彼は意思力を上げ、獅子もまた己の全てを表に引き摺り出す。
放たれる圧は全方位へと容赦無く降り注ぎ、そこに誰かの為に弱めるという優しさが欠如していた。
見えるのは両者共に相手のみ。他の者達など外野でしかないと思考から切り捨て、武器を構える。
今こそ真に阿頼耶の全力が出てくるだろう。それが如何様なものであれ、獅子もまた決して揺るがぬ様を維持し続けるに違いない。
故に、これが最後。終わりの時まで、終了の鐘は鳴りやまないのだった。




