経済大国
経済大国
枢軸型録通信販売の力により日本は快進撃を続け、南方作戦は完了し、インド洋を押さえ、オーストラリアとは講和し、ハワイ諸島も占領した。
せっかく押さえた南方資源地帯であったが、石油などの資源も型録から購入できるため、南方からの資源輸入は形ばかりとなっていた。
1942年9月。イギリスとの講和が成立し、支援の望みが断たれた中国の国民政府は講和交渉に応じた。
インド洋に展開していた機動部隊は引き上げ、太平洋の日本海隊は大規模な戦力となった。
独ソ戦は依然として継続中であり、アメリカはイギリスが講和したにもかかわらず講和に応じることはなかった。
アメリカが講和に応じないため、日本はアラスカ方面への攻略作戦を開始した。
天候が荒れる10月に入る前に開始され、アリューシャン列島は速やかに占領していった。アラスカへの上陸作戦も行われ、橋頭堡を築き占領地を広げていった。
10月。米西海岸北部への空襲が開始された。
全ての日本の空母が参加した作戦であり、米国民の戦意を挫くための空襲だった。
米西海岸北部への空襲に対する抵抗は強く、日本海軍は制空権確保のためにも零式艦上戦闘機を絶えず補充していった。
この零戦は主に型録で購入され、無線通信機だけを改修して送り出されており、輸送任務の小型空母が機動部隊とハワイの間を、対潜警戒を厳重にしながら往復して届けていた。
高速の大・中型空母は、零戦、空冷の艦上爆撃機彗星、艦上攻撃機天山を搭載しており、彗星と天山は制空権重視の方針になってからは補充が後回しとなっていた。
低速の中型空母には、零戦、九九式艦上爆撃機、天山が搭載されていたが、九九艦爆は完全に補充される予定はなくなり、零戦のみが補充されていった。
制空権を確保したことで12隻の戦艦による艦砲射撃も加えられ、西海岸北部に破壊の嵐が吹き荒れた。
日本機動部隊の矛先がカリフォルニアへ向いた段階で、米海軍の反撃が始まった。
地上発進した大規模な米海軍機は、日本機動部隊に襲い掛かった。
そして、米新型戦艦6隻と多数の旧式戦艦からなる米戦艦部隊が、直掩機を従え日本艦隊を目掛けて猛進してきたのである。
米攻撃隊に対しては、全力で迎撃するも手が足らず、鑑爆の彗星を駆り出し、米雷撃機に対しては水上偵察機瑞雲も駆り出され、余力のない防戦となっていた。
米戦艦部隊には直掩機が随伴しているため、護衛なしで天山を向かわせるのは無謀であった。
制空権確保のために零戦を補充し続けたため、天山の数は相応に減っており、数の暴力で押し切るということもできなかった。かといって、零戦が足りなければ制空権を維持できなかったため、この戦況は当然の帰結であった。
米海軍は、日本海軍よりも優勢な戦艦戦力を活かす作戦に出てきたのである。
これに対し、日本戦艦部隊の者達は大いに歓喜し、航空機の邪魔が入らない艦隊決戦を切望したのであった。
真珠湾攻撃とマレー沖海戦で戦艦が航空攻撃により沈んでから、日本海軍では大艦巨砲主義は廃れ航空主兵となっていた。
そこに降って湧いた艦隊決戦の好機である。鉄砲屋達が意気軒昂となるのも当然であった。
米戦艦部隊の発見後、さらにその後方に数隻の空母からなる米機動部隊も発見した。
米海軍はまさに乾坤一擲の決戦を挑んできたのであった。
日本艦隊も米戦艦部隊を迎え撃つため、戦艦の数で劣勢ながらも直掩機をつけて戦艦部隊を送り出した。
開戦後、航空主兵が優勢となり戦艦戦力を軽視し、型録で大和型戦艦を購入しなかったことを、今更ながらに連合艦隊司令部は後悔する事態となっていた。
「まさかここまで大規模な戦艦同士の艦隊決戦が起きるとは…」
「長官。大和と武蔵は最強と確信しておりますが、あまりにも劣勢です」
「水雷戦隊の数は圧倒的にこちらが優勢だ。ここは水雷戦隊に頼るしかない」
戦艦部隊は双方直掩機に護られており、航空機による戦艦への攻撃は排除されていた。
米新型戦艦部隊へは戦艦大和・武蔵・長門・陸奥・伊勢・日向・扶桑・山城の8隻が対応し、米旧式戦艦へは金剛・比叡・榛名・霧島が多数の重巡洋艦と共に対応した。米戦艦部隊の護衛部隊には多数の軽巡洋艦が率いる水雷戦隊が対応した。
戦艦の数こそ米艦隊が上回っていたが、日本の水雷戦隊は型録により増強されており、水雷戦隊の数は日本が大きく上回っていた。
そのため水雷戦隊と米護衛部隊の砲雷撃戦は、圧倒的に日本有利に展開した。
米新型戦艦に相対する戦艦部隊は、米戦艦との距離を詰めていき、全艦一斉に砲撃を開始した。それに呼応するように、米新型戦艦部隊も砲撃を開始した。
大和型戦艦は射程が長く、本来はもっと遠距離から電探も活かし攻撃できたのだが、30,000mの距離まで米新型戦艦に迫り、全艦交互撃ちを開始したのである。
米旧式戦艦に対抗する金剛型戦艦と重巡洋艦の部隊は、重巡の雷撃距離まで蛇行しながら距離を詰め、魚雷発射後は到達時間までその場で粘り、砲撃を続けていった。
米新型戦艦に相対する戦艦部隊は、米新型戦艦に先に夾叉された。日本の戦艦は電探の情報も活かすことで命中率が従来より向上していたが、米新型戦艦は日本の戦艦以上に優秀な射撃盤を備えていると考えられた。
それでも日本の戦艦は練度が高く、僅かに遅れて夾叉を得たのであった。
戦艦伊勢・日向と扶桑・山城が2隻で1艦を砲撃していたが、圧倒的に性能の劣るこれらは、まず伊勢・日向が撃破され、そして矛先が扶桑・山城に向くと、やはり撃破され大破し落伍していった。
しかしその段階で、大和・武蔵は米新型戦艦2隻を撃破しており、伊勢・日向と扶桑・山城が相手にしていた米新型戦艦に矛先を向けていた。
金剛型戦艦と重巡洋艦の部隊は、満身創痍になりながら魚雷を米旧式戦艦部隊へ命中させ、形勢を互角に持ち込み水雷戦隊の来援まで粘っていた。
水雷戦隊が到着する頃には重巡洋艦は大破または沈没しており、金剛型戦艦も大破し炎上している状態だった。
水雷戦隊は再装填可能な艦が雷撃を行い、米旧式戦艦に打撃を与えていった。
大和・武蔵は新たな米新型戦艦を撃破後、劣勢であった長門・陸奥に加勢し、残っていた米新型戦艦を撃破した。
そして、雷撃を受け損傷している米旧式戦艦部隊へ、大和・武蔵・長門・陸奥の砲撃が始まった。
戦闘可能な戦艦の数では未だに米戦艦が上回っていたが、複数の61cm酸素魚雷を受けた米旧式戦艦は脅威ではなく、大和・武蔵・長門・陸奥は着実に米戦艦を撃破していった。
長門と陸奥も限界を迎え落伍し、大和と武蔵はその威をを示した。
艦隊決戦は戦艦大和・武蔵以外が大破し脱落したものの、米戦艦部隊を撃滅することに成功した。
日本機動部隊も奮戦し、米戦艦部隊の後方の米機動部隊を撃破する事ができたのだった。また、制空権確保のために零戦の割合が増えていたおかげで米海軍機の攻撃を凌ぐことができ、被った空母の損害は複数隻の翔鶴型空母が離着艦不能となった程度で済んでいた。矢面に立っていた大鳳型装甲空母は、爆撃を受けたものの装甲で弾き返し健在だった。
カリフォルニア沖海戦の結果、アメリカ海軍は一時的に海上戦力を喪失したに等しい損害を被っていた。
そして、サンフランシスコ・ロサンゼルス・サンディエゴなどの都市や港湾が、日本艦隊による徹底した砲爆撃を受け、イギリスが講和していた事も加わって、米国民の厭戦気運が一気に高まり、アメリカは講和交渉に応じたのであった。
しかし、戦時体制に移行していたアメリカは強気であり、領土割譲には一切応じなかった。
ドイツは独ソ戦をまだ戦っていたが、日本は戦争目的である支那事変が既に解決しており、アメリカと戦争を継続する理由がもはやなかった。
枢軸型録通信販売にはアメリカに勝って欲しいとあったが、現状日本は大東亜戦争に勝利したと言ってもいい状況であり、アメリカを屈服させるまで戦う必要性を感じていなかった。講和交渉で譲歩し、アメリカの領土を全て返還したとしても、大東亜共栄圏を認めさせる等の数々の条件は飲ませるため、アメリカの国威は十分に下がるのであった。
11月。正式に枢軸国とアメリカの間で講和が行われ、ソ連への支援が途絶えることで独ソも講和交渉に入った。
そして12月。独ソで講和が成立し、戦争が終結したのであった。
戦争は終結した。しかし、枢軸型録通信販売はまだ使用可能であり、日本は軍備を整え、戦略物資を大量に備蓄し、万が一に備えた。
大東亜共栄圏が完成し、日本はその需要に応えるべく加工貿易に勤しみ、好景気を謳歌していた。
1945年8月15日まで実質無尽蔵な資源があるため、国内の生活基盤が急速に整えられていき、また復員した人材が経済活動へ投入されたことで大いに経済発展を遂げていった。
1945年8月。型録が消滅し使えなくなったが、日本はアメリカに及ばずともドイツに迫る経済力を付けていた。
その要因にはドイツ勢力圏が不安定なこともあったが、日本の急成長が最も大きい要因だった。
東南アジアの国々も徐々に発展しており、独立した各国に利権を持つ日本はその恩恵も受けていた。
アジアが発展すれば日本の加工貿易の需要が伸び、この好循環は続いていき人手不足から農村の機械化が進んでいき、いわゆる小作人はいなくなり日本はますます経済発展していった。
日本のアジアにおける経済活動の好敵手は、同盟国のドイツであった。
とはいえ欧州は遠く、ドイツは安定しない東方生存圏に注力しているため、まだまだ日本に有利であった。
1950年代にようやくアメリカは1929年の世界恐慌前の株価に戻り、アジアの市場開放を強く求めてきた。しかし、日本からは特に積極的に制限などしておらず、アメリカとの貿易は普通に行われていた。
ようするに、アメリカの商品が売れないのはおかしい、日本が制限をかけているに違いないという難癖であった。
アメリカにしてみれば自国の商品は最高であり、売れないはずがない。売れないとしたらその国に問題があると考えていたのである。
例を挙げると、アジアでは細い路地が多く、日本製バイクや軽自動車が売れていた。そしてなにより道路が日英同様に左通行となっている国も多く、左ハンドルの自動車は売れ難かったのである。
かといってアメリカは右ハンドルの自動車を作るでもなく、小回りの利く軽自動車を作ることもなかったのである。
むしろ、アメリカに合わせて制度を変えろ、規制を緩和しろとすら主張する始末であった。
当然この外圧には大東亜共栄圏が一丸となって抵抗し、ある程度の落としどころは模索しつつもうやむやにし、アメリカとの経済摩擦は続いていくのだった。
ちなみに、大東亜共栄圏は日本の核の傘に入っており、アメリカの武力による恫喝には応じなかったのである。
1990年代、日本はとうとう国内総生産でアメリカを抜くことができた。
日本の人口は増え続けており、それによる内需拡大も続いていることに加え、アメリカでの日本車の売れ行きが伸び、日本を世界一の経済大国へと押し上げたのであった。
とはいえ、日本はアメリカに比べ所得の低いいわゆる庶民が多い国であり、財閥などの富裕層との二極化が明確な国でもあった。
しかしそれは固定化されたものではなく、才能がある者は見出され出世もし、庶民から富裕になる者も多かった。
日本は経済でアメリカに勝利した。枢軸型録通信販売の求めていた勝利とは違う形かもしれないが、それは明確な勝利と言えるのだった。
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