開けてはいけない箱
開けてはいけない箱
1944年5月に独ソが講和した事で、6月にはイギリスとも講和が成立し、アジア・欧州での戦争は終結したも同然となった。
戦争相手国はは残すところアメリカのみとなり、日本はインド洋から引き上げた艦隊をアメリカ大陸へと向かわせる予定だった。
アメリカ海軍は、インド洋に展開していた日本艦隊が来航する前に、そして日中の米本土攻略軍が大西洋に到達する前に、大規模な艦隊で決戦を挑んできた。
それは、少数の大型空母と中型空母、多くの小型空母からなる機動部隊と、アイオワ級戦艦と思しき新型戦艦6隻と多数の旧式戦艦を擁する大艦隊であった。
迎え撃つ日本艦隊は、翔鶴型空母16隻の機動部隊と、戦艦部隊は大和型戦艦8隻と金剛型戦艦4隻であり、水雷戦隊は多数の重巡洋艦が率いていた。
長らく米西海岸を防衛していた日本艦隊は、巡洋艦と駆逐艦の数が膨大になっており、しかも米豪遮断作戦に参加していた艦艇も合流しており、その水雷戦隊の戦力だけでも米戦艦部隊と戦えるのではないかと思えるほどになっていた。
第三次カリフォルニア沖海戦は、大規模な航空戦から始まった。
日米機動部隊は双方ともに艦上戦闘機の割合が増しており、米機動部隊は戦闘機の数が日本機動部隊に勝り、日本機動部隊は艦載機の性能と数が勝っていた。
艦上戦闘機烈風は多数の米艦上戦闘機に拘束され、艦上攻撃機流星は米機動部隊を攻撃する前から損害を出していた。そして米機動部隊への攻撃は的を絞っていたものの、やはり効果的に炸裂する高角砲弾により、流星は多くの損害が出てしまっていた。
対する米攻撃隊は、多数の艦戦により直掩の烈風を足止めし、米艦爆艦攻を無傷で日本機動部隊へ向かわせていた。
日本機動部隊は、最上型航空巡洋艦や利根型重巡洋艦から、対潜哨戒任務の水上偵察機瑞雲を多数出していたが、その瑞雲まで直掩戦闘に駆り出される事になった。
空戦能力も高い瑞雲は、米艦爆艦攻の攻撃を阻害していったが、空母への攻撃を許してしまうのだった。
日米双方の空母は損傷し、流星が先に稼動可能な機体がなくなり、やがて米艦戦の数が減った事で米艦爆艦攻も撃破され可動可能機体がなくなっていき、海戦は戦艦同士による艦隊決戦にもつれ込んでいった。
日米の戦艦部隊が距離を詰めていく中、重巡洋艦率いる日本水雷戦隊と米護衛部隊の砲雷撃戦が開始された。
数に勝る日本水雷戦隊は、必殺の酸素魚雷を米護衛部隊へ放ち砲撃も加え、魚雷の命中により壊滅的打撃を与えたのであった。
戦艦同士の砲撃戦が開始される頃、重巡率いる日本水雷戦隊も米戦艦への雷撃を仕掛け離脱した。
そして、戦艦同士の主砲の命中弾が出る前に魚雷が米戦艦に命中したのであった。
米旧式戦艦には、この一度の雷撃で沈没する艦や大破する艦が出ており、この戦艦同士の艦隊決戦の勝敗は既に着いたも同然となったのである。
無傷のアイオワ級戦艦は大和型戦艦と互角に近い砲戦を行えたが、砲弾威力と防御力の高さで大和型戦艦に軍配が上がった。
雷撃で損傷していたアイオワ級戦艦は、大和型戦艦の46cm砲弾に耐えることができず、複数から数発の被弾で脱落していった。
米旧式戦艦には大和型戦艦2隻と金剛型戦艦4隻が対応したが、無傷の米旧式戦艦でも大和型戦艦の46cm砲弾を1発受けて轟沈する艦もおり、数的劣勢は見る見るなくなっていった。
アイオワ級戦艦を仕留めた大和型戦艦が参戦してからは、瞬く間に決着がついたのであった。
日本戦艦部隊は、大半が損傷していた米戦艦部隊を完膚なきまでに打ちのめし、圧倒的勝利を収めたのであった。
離脱していた重巡洋艦率いる日本水雷戦隊は、米機動部隊の追撃を開始していた。その後を日本機動部隊が支援のために追いかけていた。
やがて重巡率いる水雷戦隊は撤退する米機動部隊に追いつき、米護衛部隊が迎え撃つも数に勝る水雷戦隊に蹴散らされ、米機動部隊は壊滅的打撃を被ったのであった。
日本艦隊は、米艦隊に壊滅的な損害を与え撃退した。
日本政府はこの大勝利を喧伝し、アメリカとの水面下の交渉を有利に進めていったのであった。
7月、日本軍は遂にメキシコ湾に到達し、テキサス油田などを孤立させる事に成功した。この地域は重要拠点なだけあり抵抗が強いため、日本軍は包囲するに留めたのであった。
しかし、油田から東へ延びる送油管は破壊しており、米東海岸への陸路での石油の供給は断ったのであった。
8月、合流したインド方面派遣艦隊と共に、パナマ運河攻略作戦が行われた。
圧倒的な航空戦力の下、アメリカ軍の抵抗を排除し、日本軍はパナマ運河を制圧したのだった。
パナマ運河が占領された事で、遂にアメリカは講和交渉に応じたのであった。
1944年9月。アメリカとの講和が成立し戦争は終結を迎えた。
アラスカ・アリューシャン列島、グアム島やウェーク島などは日本に割譲され、ハワイやフィリピンは独立した。
日中は講和の条件に移民に関する法律の改正を求めていた。
アメリカの抵抗は強かったものの、最終的には移民に関する法律は改正された。
中華民国は、欧米との不平等な状態を解消することができ、租界が返還され、不平等条約なども撤廃された。
それは日本との間でも同様であり、大東亜戦争での中華民国の貢献を鑑み、日本は利権と影響力は残しつつも中華民国への不平等な状態を解消したのである。
10月。戦災復興で人手不足のアメリカへ、中国人労働者が押し寄せていた。
アメリカほどではないが東南アジアへも中国人は進出していた。伝え聞く話では、中華が広がったというものが出てきていた。
日本にも大勢の中国人労働者が入り込んで来ており、気付けば中国に好意的な発言をする議員なども増えてきていた。警鐘を鳴らす者もいたが、高を括る者が多かった。
11月。アジア連邦を作ってはどうかという話が中華民国から出てきた。天皇陛下を盟主として仰ぎ、天皇が徳を持ってアジア連邦を治めるというものだった。そして、国号は「和」はどうだろうかというところまで話は聞こえてきたのである。
鈍い者でもここまで聞けば気が付いた。これは易姓革命のようなもので、新たな中華の王朝を誕生させようとする動きであったのである。
仮にアジア連邦が成立しても、数十年は日本が主導的立場を維持できるであろうが、50年100年と時を重ねていくにつれ、アジア連邦の国々はおろか日本や天皇家ですら中華に取り込まれる可能性が高かった。
幸いアジア連邦の話は正式な提案ではなく、発案未満の噂程度の段階であったため、日本政府は中華の浸潤を防ごうと、日本国内の中国人労働者をアメリカへ押し付ける政策を打ち出したのである。
日本政府は、アメリカで大成功した中国人の話を大東亜共栄圏内で流布し、日本国内の中国人がアメリカへの移民を希望する場合、便宜を図っていった。
ただ、そうしていくうちに懸念も出てきた。
アメリカに流入する中国人がこのまま増えていき、中国人移民がアメリカの人口の上位に入るようになってしまえば、アメリカが中華に取り込まれてしまうのではないかというものだった。
アメリカが中華になるかもしれない。
この想定をした日本政府は、自らが中華を広げる手助けをしてしまっているのではないかと認識し、日本は開けてはいけない箱を開けてしまったのではないかと後悔し、臍を噛むのであった。
支那事変を解決するための支那戦争、そして経済制裁を打破するための大東亜戦争であったが、日本はそれに伴い中国人を内に抱え込む形となってしまっていた。
確かに枢軸型録通信販売の力で、日本は対米戦争に勝利できた。しかしその勝利に伴い、内に抱えた中国人もまた勝利していたのかもしれなかったのである。
日本政府は中華民国の梃入れを開始した。
中華民国が豊かになれば、市場は拡大しそれを独占している日本も潤う。そしてなにより出稼ぎ労働者も中国を出ることも少なくなるからである。
日本は中国を手中に収めた。しかし、手にして初めてその正体に気が付いたのであった。
1945年8月15日、枢軸型録通信販売の分厚い本は、出現した時と同様忽然と消え去った。
日本はそれまでに可能な限り戦略物資を型録で購入し、資源などの備蓄を行っていた。これからは輸入に頼る他なく、各国との資源輸入交渉も既に終えて輸入が始まっていた。
依然としてアメリカへは中国人が流入しており、先に移民していたアメリカ人との間で諍いも起こっていた。そんな問題を抱えつつもアメリカは戦後復興を続け、かつての威信を取り戻そうとしていた。
対して英ソは力を落としており、アメリカへの負債も抱えていた。
日本は、型録での兵器や戦略物資などの購入費用が実質紙幣の印刷代のみであったため、日本の戦争による負債はある程度抑えられていた。
経済制裁は解除され資源の輸入も再開し、ソ連もおとなしいため、日本は軍備を縮小し経済活動に注力していった。
余剰となった戦闘車両や航空機そして艦艇などは、ハワイ王国も含めた大東亜共栄圏の国々に利権と引き換えに譲渡された。
大東亜共栄圏の国々は、近代的軍隊を持つ一端の独立国になっていったのであった。
戦後の勢力図は、ドイツ勢力下の欧州、アメリカ、日本が影響力を持つ東アジアに分かれていた。
ドイツ勢力下では紛争が絶えず、アメリカは流入する中国人に頭を抱え、東アジアへの利権と影響力に留めた日本は平穏だった。
日本は着実に経済力をつけていき、枢軸型録通信販売の貯金がなくなっても何ら問題ない国力を身に付けていた。
やがて、アメリカ人における中華系住民の占める割合が、ドイツ系、アイルランド系に次ぐ第三位になる時がやってきた。
中華系住民が増えると共に中華思想はアメリカに浸潤し、アメリカこそ世界の中心であるという思想に至っていた。
しかしそれは、アメリカが対独参戦する前に持っていた思想と変わらず、事実上の敗戦により失いかけていた思想を、中華思想が混ざった事で取り戻していたのだった。
アメリカにおける中国人富裕層も増えていき、いずれ未来では中華系の大統領も誕生すると思われた。
世界は経済戦争は頻繁にあれども、大規模な戦争は起こり難くなっていた。
特に各国が核兵器を保有するようになると、核保有国同士の紛争も少なくなっていったのである。
ドイツは紛争からテロとの戦いに移り変わり、アメリカは南米に影響力を強め、日本は加工貿易に勤しんだ。
アラブ地域はイギリスから独立し石油で潤い、アフリカは戦前と同じ状態だった。東南アジアからインドに掛けては独立し、経済発展を遂げていた。
アジア・欧州・アメリカは経済的な結びつきが強まり、貿易摩擦はありつつも経済発展していき、特に人口が増え続けているアメリカは世界一の経済大国であった。
対して欧州は少子化が問題となっていた。日本は良くも悪くも戦前同様の文化が根強いため、結婚するのが当たり前であり、一時期ほどではないが庶民は子沢山であった。
小作人は農業の機械化と共に減少していき、インフラは農業の機械化と共に整備されていった。
大正時代のような自由が取り戻され、徴兵制も残る日本ではあるが、今や技術大国といえる国となっており、世界になくてはならない国にまでなっていたのであった。
お読みいただきありがとうございます。
誤字報告ありがとうございます。何度も見返しているんですけどねぇ。助かります。
ブックマーク・評価・リアクション励みになっております!




