最も成功した社会主義国家
最も成功した社会主義国家
日本機動部隊は型録の力を最大限活用し、第二次ミッドウェー海戦及びその追撃戦で、再び米機動部隊を壊滅させた。
しかし、講和の糸口は掴めず、日本海軍は再び米豪遮断を行っていった。
大陸では支那事変が解決したが、日ソ中立条約不延長が通告され、ドイツも降伏した。
日本軍は型録が使える内に、満洲と南樺太の防備を急速に固めていったのである。
1945年7月下旬、米英より日本に対し、無条件降伏が突きつけられた。
降伏の条件は、天皇及び皇室の維持、占領地からの撤退、日本軍の完全降伏、中国・満洲の国民政府への返還などであり、優勢な日本軍にはとても受け入れられない条件だった。
仮に日本政府がこの無条件降伏を受け入れれば、即座に軍による武力を持っての政変が起きることは明白であり、とてもではないが受け入れられなかった。
ソ連に仲介を求めれば、満洲や南樺太の軍備拡張は侵略の前触れかと指摘される始末であった。
ソ連は満洲や南樺太の軍備を把握しており、その軍備は防衛というには過剰であると訴えてきたが、日本は来年中立条約が失効するための備えであると回答したのであった。
8月初旬。ニューギニア最大の日本軍拠点であるウエワクにB-29爆撃機が来襲し、ウエワクが壊滅した。
オーストラリアから飛来したB-29とみられ、アメリカが新型爆弾を完成させ投下したものと考えられた。
この新型爆弾投下を受け、米西海岸攻撃作戦は中止となり、出撃したばかりの日本艦隊はハワイへと引き返したのだった。
潜水艦の索敵によれば、米海軍は機動部隊を再び再編した可能性があり、これに加え新型爆弾の存在が判明したため、型録を活かせる最後の攻勢作戦は断念されたのであった。
3日後、夜間ラバウルを目指していた編隊を電探が捉え、迎撃機が上がったのだが、爆弾投下を許してしまい、ラバウル近郊で新型爆弾が炸裂し、被害を受けたのだった。
大本営はこの新型爆弾は現状B-29でしか運用できないと考え、ジェット戦闘機の配備を急ぎつつ、夜間戦闘機の配備も進めていく方針とした。
壊滅したウエワクでは、空襲警報により地下壕への避難を行えており、爆心地周辺以外の人的被害が抑えられていた。爆撃を逃れるために建設されていた地下工場などは健在であった。
日ソの交渉は続いており、双方新型爆弾の情報が入り、交渉は新たな様相をみせた。
ソ連は欧州の東側を制しており、現在米英とソ連の二つの陣営で分け合う形となっていた。そしてアジアは日本が主に押さえている形だった。
ソ連は満洲や南樺太の日本軍の防備を把握していた。それは、日ソ中立条約不延長から4ヶ月程で整えられた、東部戦線のドイツ軍もかくやという軍備となっていた。
そしてソ連はもちかけたのである。無条件降伏を頑なに強要する米英とは交渉せず、東側の陣営に入らないかと。
それは共産主義を受け入れ、社会主義国家として大東亜共栄圏ごと東側陣営に入れば、戦争を終結させられるというものだった。
8月15日、枢軸型録通信販売が、現れた時と同様に忽然と消滅した。
日本は最大限兵器や戦略物資などを備蓄しているが、今までのような型録頼りの戦い方はできず、これからは他国と同じ土俵で戦っていくことになった。
ガダルカナル島にも原子爆弾が投下され、大和型砲台もろとも壊滅した。
日本は大和型砲台の限界を感じ、防空網を整備しつつも、各地を地下要塞化していく方針に切り替えた。
大本営は、予定通りの型録の消失、予想外の原子爆弾投下、予想以上のアメリカの生産能力に、このまま戦争を続け来年のソ連の参戦も加われば、日本の状況は絶望的であると認識していた。
しかし、無条件降伏は受け入れられなかったのである。
9月になり、再建された米機動部隊がハワイに来襲した。
太平洋では多数の日本潜水艦部隊が常に索敵を行っており、米西海岸に展開する潜水艦が米機動部隊の動きを察知した。これを受け、各地は警戒態勢に入っていた。
日本機動部隊は、8隻の大鳳型装甲空母も加わり、さらに大規模な戦力となっていた。そして、最も来襲の可能性の高いハワイ方面に展開した。
米機動部隊の行動は潜水艦により把握され、進路がハワイであることが確実になり、迎撃態勢が整えられていった。
ハワイ海戦は、米機動部隊の攻撃を基地航空隊が迎撃するところから始まった。
航空戦力は日本軍側が圧倒しており、米艦上戦闘機は強力な新型を投入してきたが、ジェット戦闘機震電・火龍の活躍もあり撃退に成功した。
震電と火龍は、元々艦載機を目指して開発された機体であるため、翼面荷重が低く抑えられており離着陸距離がジェット機としては短く、基地航空隊に多数が配備されていた。
米新型艦上戦闘機は艦上戦闘機烈風を上回る性能を見せたが、震電・火龍の高速な一撃離脱戦法により討ち取られ、また護るべき艦上爆撃機と艦上攻撃機を次々と落とされていったのであった。
米機動部隊の2派に渡る攻撃をハワイ諸島が退けた後、米機動部隊の背後に回りこんでいた日本機動部隊が攻撃を開始した。
日本機動部隊の攻撃は基地航空隊と連携し、米機動部隊の反撃を退けながら、三次に渡る攻撃で米機動部隊を一群ずつ確実に潰していった。
米機動部隊は一群が壊滅した段階で撤退を開始し、その日のうちに半壊した。
翌日の日本機動部隊と基地航空隊の陸上爆撃機銀河の攻撃により、米機動部隊は全ての空母を失ったのであった。
敗走する米艦艇に、日本の潜水艦が度々襲撃を仕掛け、米機動部隊は壊滅したのであった。
伊200型潜水艦が活躍し、ようやく索敵以外で戦果を挙げたのであった。
日本とソ連の交渉は続き、満ソ国境などでは大規模な日ソ両軍が睨み合っていた。
そして、日本国内や大東亜共栄圏の国々への根回しが終わり、日本はソ連の手を取ったのであった。
日本は共産主義を合法化し、政教分離、華族制度の廃止、象徴天皇制、最大95%の累進課税と所得上限の設定、最大50%の法人税、労働者保護法と労働組合の設置などを受け入れ、憲法改正も行い日本社会主義皇国となった。
国家神道は廃止され、代わりに国家共産党が設立された。指導者には象徴となられた陛下がご就任なされたのである。
大東亜共栄圏の国々も日本に倣い、皇帝や国王などの国家元首は象徴となって共産党指導者となり、貴族制度は廃止された。
政治犯として捕まっていた共産主義者や潜伏していた共産主義者は、共産主義が合法化されたため表に出てきたが、大東亜共栄圏内で新たに発足した共産党で高い地位に着くことはできなかった。そのため独自に政治結社を作り、政党を立ち上げていくことになっていった。
高い税率は、格差是正や主に財閥へ向けたものだった。
貴族制度は廃止され、税金と労働者保護により、特権階級は力を落とすことになった。
「働かざる者食うべからず」
「全ての国民は労働によって貢献すべし」
「国民はその能力に応じて労働し、その労働に応じた報酬を貰わなければならない」
そんな言葉が飛び交ったが、庶民は戦時中との違いが分からなかった。
日本及び大東亜共栄圏は、東側陣営に入った事を世界に喧伝した。
そして、一方的に休戦を宣言したのである。
もし戦争状態の終結に応じるのであれば、ハワイ諸島やオーストラリアより東方のソロモン諸島などの島嶼の返還に応じるとも宣言した。
また、戦争状態の終結と同時に捕虜の返還も行うとし、現在の捕虜の名簿と原爆などの連合国軍の攻撃によって死亡した捕虜の名前が一般公開された。
この一連の発表は、米国民を大きく動揺させることになり、厭戦気運を高めていった。
日本は防空網を強化したことでB-29の撃退に成功し続け、ガダルカナル以降の原爆の被害を抑えられていた。
米機動部隊を撃滅して間もないこともあり、米英からの攻撃は限定的だった。
10月。アメリカでは大統領に対し、アジアが赤化してしまった責任追及が行われていた。
米国民の間では、戦争の終結と捕虜返還を求める声が強まっており、米政府は決断を迫られていた。
11月。遂に米政府が折れ、日本と米英は事実上の終戦に合意した。
宣言どおり捕虜が返還され、ハワイ諸島やオーストラリア東方の島嶼が返還され、日本軍は大和型砲台も含めて撤退した。
しかしこれは同時に、冷戦の始まりでもあった。
冷戦下、日本は社会主義国家として、共産主義経済圏の中で経済発展を遂げていった。
元大東亜共栄圏の国々には、余剰となった兵器を資源権益と引き換えに譲渡し、同様にソ連に対しても、余剰となっていた大和型戦艦や中型空母などを資源権益と引き換えに譲渡した。
ソ連とは航空機の共同開発を行うなどして、西側陣営との兵器の開発競争が続いていた。
1950年代になり日本も核実験に成功し、東側陣営の中で確固たる地位を築いていった。
そして、日本的共産主義・社会主義が確立されつつあり、日本国民は勤勉に働いていた。
日本的共産主義は、ソ連が大東亜共栄圏を受け入れた時に容認しており、日ソの関係は良好だった。
日ソの技術交換も盛んに行われ、東側陣営は西側に後れを取ることなく発展を続けていった。
1970年代にはソ連の衰退が見え始めたが、日本が支え、ソ連も日本の民間企業を受け入れ、ソ連の国営企業との合弁会社を設立し、ソ連経済を維持し続けた。
日本企業の受け入れは、同じ東側陣営であったためソ連も受け入れやすかったのである。
1980年代、ソ連でペレストロイカが始まり、日本を参考にした大規模な経済改革が行われた。
ソ連では既に日本企業との合弁会社が多数存在し、そのおかげもあり改革は若干の混乱を生じさせただけで成功したのだった。
既に共産主義は当初の理想からは離れつつあり、徐々に資本主義に近付きつつあった。
それでも西側程の極端な貧富の差はできず、特権階級はあるものの西側の富豪に比べれば可愛いものだった。
ソ連で起きたペレストロイカの影響は日本にも及び、国家共産党が共産革命の完遂を宣言し、解党したのだった。
天皇陛下は国家共産党の指導者の地位がなくなっても、日本社会主義皇国憲法の定める象徴天皇であり、国民からの厚い尊崇と敬愛の念を集め続けたのであった。
1989年11月。東ドイツの報道官が先走った発言をし、それを聞いた群集が東西の往来が直ちに自由となったと誤解し、大挙して検問所に押しかけ、ベルリンの壁崩壊に繋がってしまった。
これを機に東西ドイツの交流は深まっていき、東西統一へ向けた流れとなっていった。
12月。米ソの指導者が会談し、冷戦の終結が宣言された。
東側陣営では経済改革の結果、共産主義が資本主義寄りに変容してしまっており、対立構造を維持する必要性が薄れていた。
また、冷戦下では軍事費が負担となっており、冷戦を終結させ軍縮を行いたかったのである。
冷戦が終結し、国際交流が盛んになり、西側陣営は日本の核シェルターの多さに驚くのだった。
日本は世界で唯一核兵器と戦った国であり、それ故にその備えには力を入れていた。
日本の核シェルターは、公開されている一般的なものでも膨大な数に上り、都市部の地下街は基本的に核シェルターを兼ねていた。
軍事基地はもちろんのこと、住宅地には当然のように完備されており、核による放射能津波を起こす兵器開発が始まってからは、核シェルターの津波対策まで行っていた。
後に2011年3月に起きた東日本地震では、巨大な津波が発生し、人々は長年続けてきた対核戦争の訓練に従い、最寄の核シェルターに避難し事なきを得ていた。
当初は、すわ核戦争勃発か?!と日本国民は動揺したものの、大地震が原因と分かり、津波が収束してからは粛々と災害復興していくのだった。
日本は核兵器に備えるため、何か事あらばすぐに核戦争を疑いがちであった。学校教育の防衛授業では、必ず核攻撃に対する対応が教えられていた。
冷戦終結と共にそれらも薄れてはいったが、自治体で定期的な核攻撃に対する避難訓練は義務付けられたままであり、核シェルターは災害時の避難所としても活用されているため、国民は混乱することなく対応できたのであった。
国際交流は、日本の市場が奪われると同時に販路を広げることにも繋がった。
高性能な西側の製品に当初は押されたものの、追いつけ追い越せで製品開発に奮闘し、日本製というブランドが確立されるまでになっていったのである。
その設備投資と労働者への還元は、皮肉にも高い税率がもたらしていた。
やがて日本は、世界で最も成功した社会主義国家と言われるようになり、事実そうであると日本国民も自負しており、今日も誇りを持って労働に勤しむのであった。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマーク・評価・リアクションありがとうございます。
象徴天皇制があるのに共和国はおかしいとご指摘をいただき、共和国は君主がいない制度であることから、国名を修正いたしました。
日本社会主義共和国→日本社会主義皇国と変更いたしました。
日本共産原理主義党「権力者がそのまま共産主義を名乗っているだけではないか!」
中華人民共産党「全くだ。本流は我々だ!」
ベトナム共産党「うちは政権を取れそうな勢いですよ?」
カンボジア原始共産党「なかなか支持が集まらない。ところで、日本人は眼鏡かけた人多いね」
日本共産原理主義党「ん?なにかな?眼鏡?カンボジア原始共産党君、何だか目が怖いよ?何でじっと見てくるの?」
カンボジア原始共産党「…」




