第二次ミッドウェー海戦
第二次ミッドウェー海戦
型録の力により持ち直し、戦力の増強した日本は、1944年11月に起きた台湾沖航空戦で勝利し、アメリカに対し反撃に転じた。
米機動部隊が壊滅している隙を突き、マリアナ諸島やマーシャル諸島を奪還した。
型録で購入できる未完成だった艦上戦闘機烈風は性能を妥協し、最低限の改修で実戦投入が可能になった。妥協した性能でも紫電改を上回っており、米戦闘機と互角以上に戦えることは確かだった。
また、同じく未完成だった四式中戦車も完成し、ウエワクなどでは現地に購入し届けた四式中戦車を、本土から輸送した改修部品で完成させ前線に投入していった。
1945年3月。ハワイ攻略作戦が始まった。
日本海軍は増強した戦力の訓練が完了し、一気にハワイ攻略を行う決断を下した。
最初の目標はミッドウェー島であり、ここで米機動部隊に出迎えられる事になったのである。
日本海軍は、米機動部隊の再建には半年以上掛かると見積もっていた。しかし油断はしておらず、ミッドウェー海戦の戦訓である偵察を重視し、多くの艦上偵察機彩雲や潜水艦で索敵を行っていたのだった。
ハワイ攻略作戦の前段階として、多くの潜水艦がハワイ方面に派遣されていた。
この潜水艦部隊が、オアフ島真珠湾に出入りする多くの米艦艇を察知し、日本艦隊のミッドウェー島攻略の日時に合わせて、多数の大型艦艇が出撃するのを掴んだのである。
日本機動部隊がミッドウェー島に近付くと、同島からの航空攻撃が始まった。
日本機動部隊は、16隻の翔鶴型空母と数隻の中型空母を擁しており、ミッドウェー島からの航空攻撃を難なく退けられた。
日本機動部隊は彩雲の偵察と潜水艦の情報により、米機動部隊の位置を特定していた。
そしてお互いが攻撃圏内に入った時、第二次ミッドウェー海戦が発生した。
日本機動部隊は艦上戦闘機の割合を7割にしており、航空優勢を維持した海戦となった。
翔鶴型空母には烈風と艦上攻撃機流星そして彩雲を搭載し、中型空母には零式艦上戦闘機と艦上攻撃機天山を搭載していた。
日本機動部隊の攻撃に合わせ、潜水艦部隊も米機動部隊へ攻撃を行った。
潜水艦による雷撃は米機動部隊に混乱をもたらし、海戦をより有利に進める結果に繋がった。
米機動部隊は短期間で再編したため練度が甘く、対空戦闘能力こそ高かったが、米攻撃隊は数に勝る日本の直掩機に撃退されていった。
米機動部隊やミッドウェー島は、後方から航空機の補充を受けている節があり、日本機動部隊への攻撃は延べ8回に及んだ。
日本機動部隊は米機動部隊を四次に渡る攻撃で着実に一群ずつ潰していき、半壊し撤退する米機動部隊を追撃した。
敗走する米機動部隊を多数の潜水艦が捕捉し続け、時に潜水艦が襲撃を加えてはその足を遅くした。
日本機動部隊も米潜水艦の接触を受け続けたが、対潜哨戒任務の水上偵察機瑞雲が十分な数揃っており、米機動部隊との距離を離されることはなかった。
翌日には米軍基地からの航空攻撃を退けながらも、四次に渡る攻撃を行い、再編されたばかりの米機動部隊を撃滅したのだった。
日本機動部隊は、艦載機が損耗すれば補充を要請し、最小限の改修を行って実戦投入していた。
このため、航空優勢を保ったまま追撃を行うことができ、見事米機動部隊を討ち果たしたのである。
その後はハワイ方面の島嶼を攻撃、占領していき、オアフ島の攻略を腰を据えて行っていったのであった。
4月。中国では各地の軍閥が新国民政府の軍門に下り、国民政府がインドへ亡命した。これで新国民政府が中華民国となり、長らく続いた支那事変は解決したのであった。
そんな折、ソ連が日ソ中立条約の不延長を一方的に通告してきたのである。
幸いにも支那事変が解決した直後であったため、満洲や南樺太の防備を固める意見で大本営は一致した。
そして、型録が使える内に防備を固めるべきだという意見が大勢を占め、大陸向けの兵器ということでドイツ製のⅥ号戦車Ⅱ型などの重戦車が、大量に購入配備されていくことになった。
ドイツ製重戦車を運用するためには時間が掛かるため、満洲や南樺太で大規模に部隊を編成訓練し、各地に燃料輸送車と燃料そして弾薬を備蓄していくことが決定した。
航空機も大量に配備されていくのだが、ほとんどが使い慣れた日本製であり、ドイツ製はジェット戦闘機のMe262を配備した。
ジェット機は高性能ではあるが未だ不安定なものであり、完成しつつある単発ジェット戦闘機震電が比較的安定しており、正式採用前ではあったが陸軍でも火龍として採用が決定した。
ちなみに、型録から購入できる震電を改修してジェット機化するのは断念された。
単発ジェット戦闘機であるハインケルHe162なども参考にされ、Jumo004Bを活かせる機体になっていった。
日本国内ではドイツのジェットエンジンを参考に、新たなジェットエンジンの開発が進んでいた。
型録が使える内はJumo004Bを大量に購入し、在庫がなくなれば国産ジェットエンジンに頼る予定だった。
ハワイ方面のの占領が完了し、日本海軍は再びニューギニア・ソロモン方面を目指した。
日本政府はアメリカとの講和の糸口が掴めず、海軍の動きに同意するしかなかった。
5月にはガダルカナル島への攻撃が始まり、過剰な砲爆撃の末、上陸作戦が行われ、占領が進められていった。
ガダルカナル島には不退転の決意を込めて、大和型砲台が設置されることが決まっていた。
ビルマでは日本陸軍が巻き返しており、稼働率を高めた四式戦闘機疾風が航空優勢を維持し、イギリス軍を押し返していた。
インド洋へも日本機動部隊は派遣され、セイロン島や島嶼のイギリス軍を攻撃していた。
そして、欧州からドイツ降伏の情報がもたらされたのである。
それは無条件降伏であり、交渉の余地のないものであった。
ドイツの降伏を機に、アメリカとの講和を模索するが、日本は全盛期の領域を取り戻しており、むしろ勝っているとすら言える状況となっているため、国内や軍を納得させる講和の条件が難しくなっていた。
5月下旬に陸海軍共同の、機動部隊をも投入した、ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦が開始された。
連合国軍はハワイを失陥した事で、補給が滞り始め物量を活かした戦い方ができなくなってきていた。そこでポートモレスビーを押さえることで、一気にニューギニアの戦いに決着をつけようとしたのだった。
6月。ニューカレドニア・フィジー・サモアなどの攻略が始まった。
ドイツとの戦争が終わったオーストラリアなら、講和に応じるのではないかと考えられていた。
7月。単発ジェット戦闘機震電・火龍が正式採用され、正式採用前から各企業で量産態勢が整えられ、生産が始まっていた。
本来震電は、大鳳型装甲空母への搭載を目指し開発されていたが、Jumo004Bですら発艦するための初期推力が足りず、海軍はしぶしぶ艦載機としての開発を断念したのだった。
日本は講和を引き出すため、米西海岸攻撃の準備を進めていた。
米豪遮断が完成したはずのオーストラリアは未だ講和に応じておらず、オーストラリアへは航空攻撃を継続して行っていた。
ニューギニアやビルマは、型録を活かし物量に勝る日本軍が押し切り、ほぼ占領が完了し、防衛戦に移行していた。
日本軍は型録が使える内にソ連への防備を固めつつ、連合国から講和を引き出すための次なる侵攻に移ろうとしていた。
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