奪還戦
奪還戦
日本はペリリュー島の戦いで大和型砲台を活かし、米戦艦5隻を含む多くの艦艇を撃破した。
そして台湾沖航空戦では、九州・沖縄・台湾・フィリピン・再編した機動部隊の総力を挙げ、米機動部隊を撃滅した。
これほどの勝利を挙げても、やはりアメリカとは講和はできなかったのである。
本土ではマリアナ諸島から飛来したB-29爆撃機と、ジェット戦闘機橘花として採用したMe262の戦闘が始まっていた。
夜間に飛来した場合は電探に頼る迎撃となり、機上電探を搭載した二式複座戦闘機屠龍や夜間戦闘機月光が対応した。電探搭載の屠龍と月光は型録から購入でき、いたちごっこの電子戦に対応した電探の改良が続けられていた。
1944年12月。米機動部隊が壊滅したことで、日本は反転攻勢に出ることにした。
日本機動部隊は、練度の高い搭乗員と練度不足の搭乗員で、12隻の翔鶴型空母からなる機動部隊を編成し、マリアナ諸島へ送り出した。
艦載機の内8割が艦上戦闘機紫電改となっており、練度不足を数で補う作戦だった。
未熟な搭乗員には機体はいくら壊れても構わないので、搭乗員が無事に帰艦することを求めていた。それは機体がいくらでも補充が利くためであった。
マリアナ諸島への攻撃は、練度の高い搭乗員による奇襲攻撃から始まった。
危険な夜間発艦を成功させ、マリアナ諸島へは艦上偵察機彩雲に先導され超低空で侵入し、艦上攻撃機流星と爆装した紫電改が飛行場攻撃を敢行した。
しかし、日本機動部隊の接近は察知されており、迎撃の戦闘機が多数迎え撃ってきた。
紫電改は爆弾を投棄し征空戦闘に努め、流星が飛行場を攻撃した。
第一次攻撃隊は奇襲はならず強襲になるも、マリアナ諸島の飛行場への攻撃は成功し、相応の損害を与えた。
とはいえ飛行場が使用不能とまではいかず、反撃を受けることになった。
第二次攻撃隊は日が昇ってから出撃しており、彩雲に導かれながら迷うことなくマリアナ諸島へ到着した。
第二次攻撃隊の紫電改は爆装はしておらず、数の優位を活かした征空戦闘に徹した。
マリアナ諸島からの攻撃が日本機動部隊へ飛来したが、飛行場が万全でないためそれなりの数でしかなく、直掩機で十分迎撃が可能だった。
直掩機がもし撃ち漏らした場合は、対潜哨戒任務についている水上偵察機瑞雲が対応する予定だった。機動部隊には複数の最上型航空巡洋艦と利根型重巡洋艦が随伴し、多数の瑞雲を搭載していた。
機動部隊のマリアナ諸島への攻撃は、搭乗員を休息させつつ継続された。
機体と燃料・弾薬が尽きることがないため、上陸作戦が始まっても続き、搭乗員を補充しながらサイパン島の飛行場が奪還されるまで連日続けられた。
上陸作戦はサイパン島から行われ、戦艦部隊の艦砲射撃の後に着実に行われた。
橋頭堡を築いてからは三式中戦車が型録で現地に購入され、飛行場を奪還してからは航空機が現地に購入され、日本軍は航空機や戦車などの兵器を潤沢に活かし、奪還を進めていった。
一旦サイパン島に足がかりを作れれば、日本軍は兵器の物量で押していけた。
米軍も頑強に抵抗するのだが、惜しみなく砲爆撃を行う日本軍に、追い詰められていったのだった。
1945年1月。マリアナ諸島の奪還に成功した。
頑強に抵抗していた米軍には、容赦なく大和型戦艦による艦砲射撃を行い、その抵抗を粉砕していったのであった。
サイパン島には大和型砲台が設置され、防備を固めていった。
ニューギニア島では、前線に食料と医薬品が届き、戦線の再構築に成功していた。
ウエワクには型録により届けられた主食と医薬品、航空戦力や戦闘車両などが揃い、連合国軍の攻勢に抵抗していた。
2月。マーシャル諸島の奪還作戦が始まった。
さすがの米海軍も未だに機動部隊を再建できていないようで、マーシャル諸島の米軍占領地を各個撃破していった。
日本から南方への通商路は、対潜哨戒の強化により、米潜水艦の跳梁を抑えることに成功していた。
これにより、三式潜航輸送艇に頼っていたニューギニアへの食材などの輸送が、輸送船を用いて大規模に行うことができるようになり、反転攻勢に移れるまでになっていた。
中国での大陸打通作戦は、兵器や兵站の強化が行われ、当初の予定地を変更し昆明までもを占領していた。
有り余る航空機や三式中戦車を始めとする戦闘車両、そして燃料弾薬も豊富に供給され、重慶包囲作戦が始まるに至っていた。
中国の占領地は新国民政府に治安維持を任せ、型録によって強化された日本軍は支那事変解決を一気に推し進めていたのだった。
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