巻き返し
巻き返し
日本は忽然と現れた枢軸型録通信販売の力を活用し、兵器や戦略物資などを揃え態勢を立て直していた。
ニューギニア・ソロモン方面ではガダルカナル島からは撤退したものの、連合国軍に物量戦を仕掛け出血を強い、昨年までは考えも及ばなかった消耗戦を行っていた。
日本海軍では、大鳳型装甲空母8隻で新たな機動部隊を編成し、訓練も順調に進み仕上がってきつつあった。
そんな1943年5月に、米軍がアッツ島奪還のため攻撃を仕掛けてきたのである。
大本営はこれを受け、新偏された大鳳型装甲空母8隻からなる機動部隊の投入を決定した。
また、これに伴い増援も送られることになり、増援艦隊が編成された。
アッツ島では米軍の上陸を許してしまうも、アッツ島守備隊が粘り強く抗戦し、米上陸部隊を押し留めていた。
そこへ日本機動部隊が到着し、海戦が発生したのである。
米艦隊は、戦艦3隻、小型空母1隻、巡洋艦と駆逐艦多数からなる艦隊であり、日本機動部隊は大鳳型装甲空母8隻を擁する過剰な戦力であった。
日本機動部隊は天候が安定している時に発艦を行い、二次に渡る攻撃で米艦隊に大打撃を与え撃退した。実戦訓練には最適の相手となったのであった。
日本機動部隊は増援艦隊到着までアッツ島を支援し、その後ついでとばかりにアリューシャン列島にある各米軍基地を攻撃し、無事帰還した。
新たな機動部隊が実戦経験も積んだことで、この大鳳型装甲空母を擁する機動部隊は太平洋方面を担当することになり、既存の空母を擁する機動部隊はインド方面へと送られることになった。
また、大鳳型装甲空母を護衛艦艇と共にさらに購入し、訓練と輸送任務に従事させていった。
インド方面へは戦艦大和・武蔵・長門・陸奥・金剛・榛名が送られ、戦艦伊勢・日向・扶桑・山城は航空戦艦への改装が行われていた。
この航空戦艦に改装する4隻の戦艦と、沈没した戦艦比叡・霧島の代わりとして、大和型戦艦6隻が型録から購入され訓練に入っていた。
1943年6月。インド洋で日本機動部隊が分散し通商破壊を行っていたところ、イギリス東洋艦隊との海戦が発生した。
日本機動部隊は、探しても見つからないイギリス東洋艦隊の捜索を諦め、一応備えながらもインド洋での通商破壊を開始していた。
それに伴いモルディブ諸島などを占領し、通商破壊活動の拠点としようとしたところ、モルディブ諸島のアッズ環礁にイギリス軍の秘密基地を発見したのである。大規模な拠点であったがこれを占領し、通商破壊部隊の重要拠点となっていった。
通商破壊部隊の拠点も造り、機動部隊はいくつかに分かれて通商破壊を開始したのだが、英商船はイギリスの制空権下を航行するようになり、護衛の艦艇が随伴していることも増えてきた。
日本機動部隊の通商破壊は航空攻撃が主体なため、この程度の対策では問題にならなかった。むしろイギリスの艦船を、徐々に削っていけたのである。
そして、イギリスの艦船は沿岸部を航行するようになっていった。
これを複数の通商破壊部隊が合流し深追いしたところ、戦艦2隻、小型空母複数隻、巡洋艦と駆逐艦数隻からなるイギリス艦隊と海戦に至ったのである。
通商破壊部隊が合流した日本艦隊は、戦艦長門・陸奥、中型空母2隻と小型空母2隻、多数の巡洋艦と駆逐艦から構成されていた。
地上からの航空支援という地の利はイギリス側にあるものの、海上戦力的には日本が上回っていた。
英艦隊は地上からの航空支援も受けながら、日本機動部隊に襲い掛かってきた。
英艦載機の編隊を電探で捉えた機動部隊も応戦し、攻撃隊を送り出し英小型空母を撃破した。
通商破壊部隊による航空攻撃の後、戦艦と水雷戦隊による砲雷撃戦が行われた。
水雷戦隊の戦いは日本有利に進み、必殺の酸素魚雷により勝利を収めた。
戦艦同士は互角に近い砲撃戦の末、戦艦長門と陸奥が勝利した。
戦艦同士が撃ち合う中で、陸奥の三番砲塔で変質した装薬が発見され、急ぎ海中投棄されていた。もしこの海戦がなく、変質した装薬が放置されていたら、火薬庫で大爆発を起こしていた可能性も考えられたのであった。
このアラビア海海戦に勝利した日本通商破壊部隊は、戦艦部隊が抜けることになったものの、その後もインド洋で戦果を挙げていくのだった。
1943年7月。アリューシャン方面のダッチハーバー攻略作戦が発動した。
再び大鳳型装甲空母8隻による機動部隊が投入され、アリューシャン列島の米軍基地を丁寧に攻撃し、占領していった。
同7月。セイロン島攻略が開始された。
インド洋の制海権をほぼ確保した事で、ドイツ潜水艦が来航し、対ソ支援船舶に対する通商破壊が開始された。
日本はドイツ潜水艦への補給を担当し、制海権と制空権の維持を行った。
ニューギニア・ソロモン方面では航空機の消耗戦が続いていたが、米軍がF6F艦上戦闘機やP-47戦闘機を投入してくると損耗がさらに増えだしていた。
日本側も型録から購入し、性能を妥協して最低限の改修で安定性を向上させた艦上戦闘機烈風や、四式戦闘機疾風を投入していった。
さらに稼働率を上げるため、日本軍としては異例の、故障する前の段階での壊れやすい部品の交換を行っていた。
これにより、従来機に劣らない稼働率を実現させていた。
また、四式中戦車が運用試験の結果、最低限の改修で実戦投入が可能と判断され、ニューギニア方面や中国戦線へ次々と送られることになった。
1943年秋頃になると、米潜水艦の魚雷の不発が減少し、艦船への被害が増加していった。
これに対し大本営は対策を本格化させ、型録から電探や航空機搭載の磁気探知機を購入し配備を急ぎ、同じく型録からドイツの電波探知機や水中聴音機、水中探信儀などの電装品を購入し急ぎ艦船に配備していった。
また、航空戦艦や航空巡洋艦の水上機を用いた、輸送船の護衛が盛んに行われるようになっていった。
そしてそれは、海上護衛総司令部へと繋がっていったのであった。
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