(十三)
プリクソスが辿り着いたのは、ボイオティアから二つの海を挟んだ先にあるコルキスの地であった。
黄金の牡羊とプリクソスを、家来を連れた威厳のある男が迎えてくれる。
「よくぞ辿り着かれた。異国の王子よ」
「貴方は…」
「私はコルキスの王、アイエテスと申す者」
「貴方が、この地の王…」
プリクソスは目を見張る。同じく王であり父であるアタマスと見た目の歳頃はさして変わりないだろう。しかし、アタマスとは違った佇まいの男だ。どこか神聖な雰囲気を纏っている。
「私が来ることを知っておいででしたか」
「いかにも。私の父はヘリオスといいましてな、空の上に居ります故、地上で起きている物事はすぐに判ってしまうのです」
ヘリオスは太陽神だ。昔、オリュンポスの神々と長きに渡って争ったティタンの神々の子孫である。プリクソスの目の前の王は、その神の血を引いているというのか。
「お疲れでしょうが、まずはゼウスにそちらの功労者をお返しせねばなりません。さあ、こちらへ」
長い間冷たい風に晒されていたプリクソスの身体は既に限界に達していた。牡羊から降りた途端、よろめく。アイエテスの家来に身体を支えてもらって、やっと立つことが出来た。
アイエテスがプリクソスを導いたのは、丘の上の祭壇であった。
大理石の柱に囲われた建物を見ると、プリクソスは息が詰まる。
故郷で命の終わりを覚悟したのも祭壇だった。ヘレと共に死ぬものと思っていた。そう思うと、否でも波間に落ちていくヘレの姿が喚起された。
黄金羊は生け贄を乗せる祭壇を見つけると、自ら進んでその上に横たわる。
「王子よ。これで、大神ゼウスに感謝の意をお届けなされませ」
アイエテスはプリクソスに曇りなく清められた剣を手渡す。
プリクソスは黙ってそれを受け取ると、祭壇の羊の前に膝をつく。
「私如きを遠い地まで運んでくれて、かたじけない。ゼウスよ、母ネフェレの願いを聞いて下さり、ありがとうございました」
王子は神へ謝意を述べると、粛々と儀式の手順に従い、牡羊の喉に刃を突き立てる。牡羊は鳴き声一つ上げず、静かに息を引き取った。神の使いに相応しい誇り高い死に様であった。
プリクソスが生け贄の儀式を無事こなしたのを見届けると、アイエテスは改めて王子を迎え入れた。
「ようこそ、コルキスへ。しばらくは我が館でゆっくりと身体を休められよ」
「ご厚意痛み入ります」
プリクソスはアイエテスの歓待を受け、静養することにした。
コルキスへ着いてから何日か、プリクソスは寝台から殆ど出ることがなかった。
アイエテスの招きで数度饗宴に顔を出しはしたが、食べ物も飲み物もあまり喉を通らなかった。
ヘレのことを想うと、何もする気が起きない。
生きる気力など、どこにあるのだろうか。
自分が息をしていることに意味があるのか。
神に生きよと言われても、自分自身で何の答えも見つからぬままでは動けない。
プリクソスは不意に強い香りを感じて惰眠から目醒めた。
身を起こして、辺りを見回す。
枕辺に花が置かれているのを見つけた。
スミレの花だ。小さく藍色の花を咲かせている。
「ヘレ」
妹の名を小さく呟く。
ヘレはボイオティアの民からよく「スミレのように美しい」と形容されていた。
思えばコルキスに着いてから、一度もその名を口にしたことはなかった。呼ぶ必要がなかったためだろうか。否、プリクソス自身が知らず知らずのうちに呼ぶことを避けていたからだろう。その名を呼んで返事のないことが、辛かったのだ。しかしいざ呼んでみると、驚くほど何の感慨も湧かなかった。
「プリクソス王子。入りますよ」
プリクソスが無感動のまま寝台に座っていると、アイエテスが入室した。
「お加減は如何かな?」
「身体は随分と休まりました。ありがとうございます」
プリクソスが礼儀のために頭を下げると、アイエテスは顎を摩った。
「ふむ。身体が癒えても、お気は沈んだままのようですな」
プリクソスは身を固くする。追い討ちをかけるようにアイエテスは重ねる。
「妹君のことは無念でしたな」
不調の原因を易々と見破られてしまった。流石は神の子息といったところか。
「何でもお見通しなのですね」
プリクソスは諦めたようにアイエテスの慧眼に感心した。
プリクソスの言葉には答えず、アイエテスは朗らかに笑んで、話題を変えた。
「ところで、貴方をお運びなされた牡羊ですが、その身は私が貰い受けてもよろしいですかな?」
「どうぞ。私にはもう必要のないものです。お世話になっている礼として、受け取って頂きたい」
「それは有り難い。あの黄金の毛皮は実に素晴らしい。この私とコルキスの地がゼウスのお役に立てた証として、大事に守って参りましょう」
プリクソスは無気力にアイエテスの話を聞いていた。神の役に立てたことを喜ぶ者の感動は、神に肉親を見捨てられた者には解る筈もない。
「神を憎んでおいでか?」
優しげな笑みを浮かべて、アイエテスが尋ねる。
プリクソスは頭を振った。
「憎んだら楽になれるのでしょうが、憎む気さえ起きません」
「そうか。しかしそれは、正しいことかもしれませんな」
「正しい?」
「然様。神は人とは元来異なる存在。人が救いを欲したからとて、その者を憐れんで手を差し伸べてくれるような方々ではありません。手を貸して下さることはありますが、それは神の気紛れのようなものです」
「それでは、気紛れで私は助けられたのですか」
プリクソスはアイエテスの言葉に反感を抱く。
「ある意味では、そうでしょう。神にとっては、人の子の命が一つ二つどうなろうと平気なのです。あのままお二人が偽の生け贄に捧げられていても、神には何の痛手も得もない。それが、貴方のお母上がゼウスに必死に嘆願なさったので、助ける気になっただけのこと。確かに王子と王女をボイオティアから逃がす手筈は整えて下さった。しかし、神がなさるのはそこまでです」
アイエテスの言う通りだ。コルキスへと走る牡羊を用意し、プリクソスとヘレを乗せた。そこまでしか、神はしていない。ヘレを救ってはくれなかった。
「お二人を無事にコルキスまで運ぶことまでは、神の意図には含まれてはいない。そういうものです」
「神は何故、そのように非情な手助けをなさるのですか」
「今の王子にとっては非情でしょうな。しかし、人間にとってはその方が有り難いという面もある」
こんな半端な助けに有り難さなどあるものか、とプリクソスは内心で毒づいた。
「神は人間の生きる姿を見ているのですよ。己の運命に抗い、嘆き、それでも前を向いて生き、安らかな顔で死に逝く人間というものを、飽くことなく見ているのです。神と違って、人は運命を知らないまま生きる。その中で神が思いもしなかった行動をする。その様を楽しんでいるのです。だから神は、人間の生の全てを思い通りにしようとはせず、手を出すときは限りを設けている。最終的に如何に生き、死ぬのかは人間自身に委ねているのです」
神は真実と運命に基づいて、人間の側にいるだけだ。側で見守りながら、人に真実を背負わせ、運命を廻す。ときに助け、ときに弄び、ときに懲らしめる。だが、人の命は人のものだ。故に、濫りに恵みをもたらしたり、不幸を送って運命を変えることはしない。
「初めから、我が妹は海に落ちて死ぬ運命にあったのでしょうか」
「お二人をコルキスへ逃がすことが決まった時点では、少なくとも決まっておったでしょうな。その運命をお二人がどうなさるのか、神はご覧になっていたのではないでしょうか」
まだ未熟な少女が雲の高さから海を見下ろせば、気を失うことは十分有り得る。それをプリクソスが察知して守り通すか、予見通り失うか。もしくは妹を追って海に身を投げるか。
「そして今は、王子が妹君を亡くしてどうなさるのか、見ていらっしゃいましょう」
妹がいない失意のまま心身共に衰弱して生きることを辞めるか、妹がいないことを受け入れて王子としての責任を果たすか。
「神と人の間には隔たりがあります。たとえ神を憎んだとて、その隔たりをどうにか出来るわけでもありませんし、何も起きはしませぬ。神は死なず、死んだ者が甦ることもない。我々に出来ることは精々、生きることくらいなのです」
プリクソスは神に対して自分が過ぎた期待を抱いていたのだと知った。同時に、神は勝手な者達だと悟った。神は気侭に人間を眺めているに過ぎない。人を救おうとする慈悲深い存在ではない。ならば、プリクソスが今後どのように生きようとプリクソスの勝手だ。
「アイエテス殿。こちらの花はどなたが置いて下さったのでしょうか?」
プリクソスは枕辺のスミレを手に取り、王に尋ねた。
「我が娘の仕業ですな。王子が少しでもお元気になるようにと置いて行ったようです」
「その姫君はどちらにいらっしゃいますか?」
「恐らく、館の裏の野原でしょう。草花の好きな優しい娘です」
アイエテスの返答を得ると、プリクソスは寝台から降り立ち、身支度をした。
「王子。どちらへ?」
「今からその姫に会いに行きます。礼を言いたい」
アイエテスは驚いたように瞠目したが、すぐに機嫌良く王子を案内した。
その後、プリクソスはアイエテスの娘カルキオペを妻とし、コルキスの地で生を全うした。プリクソスの無事を見届けたゼウスは牡羊の功を讃え、空に輝く星に加えた。プリクソスがアイエテスに贈った黄金羊の毛皮は、神聖なる森で不眠の竜に守られていたが、これを巡ってまた一つの物語が紡がれることになる。
そして、プリクソスの妹ヘレが落ちた海峡は、彼女を偲んで『ヘレの海』と呼ばれるようになったということだ。
最後までご愛読下さり、ありがとうございます。
「星座譚」シリーズ第一弾『牡羊譚』如何でしたか?
今後も、十二星座の物語を書いていく予定です。
そちらもどうぞよろしくお願いします。
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