16.生きている?
どうやら、聞こえてくる声はあの鏡からのようだ。
あれが元凶か。
いっそ、もっと低くて不気味な声なら警戒もするのだが、聞こえてくるのは女性的な声。
鏡がしゃべっている、というのはそれだけでも気味が悪いが、その口調はわずかながら警戒心を薄くさせる。
しかし、怪しい代物には違いない。本当に鏡なのか、実は魔物が化けているのか、すぐには判断不可。言われるままに姿を見せて、何をされるかわかったものではない。
この状況からして、エルスティンはこの声に何かされたに違いなかった。
たまたま壁をすり抜けたローグラッドは、さっきのガージェスのように倒れていたエルスティンが最初に目に入ったはずだ。
あの鏡の近くに、エルスティンは倒れていた。その彼女へ近付こうとしてローグラッドは何かされ、後ずさるようにして壁にぶつかってそのまま座り込んでいた、というところだろう。
ガージェスも、エルスティンを抱き起こすために鏡へ近付いた。だが、まだ声がしなかった、もしくは恐らく角度が悪かったために映らなかったので、何も起きなかったと思われる。
「ねぇ、あなたの顔を……」
鏡がまた要求してくる。見せるまで、言い続けるのだろう。
「見せる程の顔でもないのでな」
鏡に映る位置に立たなければ、二人のようにはならないはず。
しかし、どれだけ映ればどうなるかわからない。なので、ほこりが拭き取られている部分に、ホークルは魔法で泥をかけた。
これで、間違って鏡に映ってしまうことはなくなる。
「ああっ、何をするの。これじゃ、誰も見えないわ。ねぇ、いるんでしょ。そこに何人いるの? お願い、この汚れを拭き取って。あなた達の顔を見せて」
映せなくなれば、この鏡にこれ以上は大した攻撃はできないだろう。今の言葉からして、自分では汚れをどうにかするのは無理のようだ。
そう踏んで、ホークルはこの現場の調査は一旦後回しにする。
「ローグラッド、気持ちをしっかり持ちなさい。あなた、何をしにここまで来たのかわかる?」
強い口調で、責めるように声をかけるアードリー。今は優しく語りかけても届かない、と考えたのだ。
その声に、ローグラッドはのろのろと顔を上げた。
「アー……ドリー……?」
「そんなふ抜けた声で、私の名前を呼ばないでちょうだい。ほら、ちゃんと目を覚まして」
アードリーは、ローグラッドの頬を軽くぱちぱちと叩く。
「あ……うん……」
その刺激のおかげか、ローグラッドは徐々に正気を取り戻しつつあるような表情になる。
「立てるか、ローグラッド」
ホークルが声をかける。
「ああ……」
まだ完全に覚醒、とはいかないようだが、それでもローグラッドはホークルの手を借りながら、どうにか自力で立ち上がった。
「一旦、ここを出るぞ」
アードリーが先に出て、彼女に手を引かれたローグラッドが続き、ホークルは少し振り返ってからこの忌まわしい部屋を出た。
「ねぇ、顔を見せて。お願い、私にあなたの顔を……」
誰もいなくなった部屋で、鏡は懇願を続けていた。
☆☆☆
先にエルスティンを抱えて部屋を出たガージェスは、そのまま急いで建物の外へ出た。この中にいたら、また別の作用があるかも知れない、と考えたのだ。
幸い、外は晴れているので、枝葉の影があると言っても明るい。いい具合に風も吹いている。
ガージェスは近くの木の根元にエルスティンを降ろすと、何度も声をかけた。
「あたし……そんな……そんなこと……」
「エルスティン、戻って来い。目を覚ませ」
意識がないまま、何かをつぶやきながら泣き続けるエルスティンの頬を、ガージェスは軽く叩く。
エルスティンの状態を見て、彼女が夢の中で泣いている、と考えたのだ。
ガージェスは鏡の声を聞く前に、エルスティンを連れて部屋を出た。なので、どの道具が原因で彼女がこうなったのかはわからない。
それでも、精神に訴えかけ、相手を自滅させる道具類があることは知っている。あそこにある道具に、そういった作用を持つ物があったのだ、と推測した。
殺人や呪いに関与するような道具を作っていた人間の倉庫だから、そういった物ならいくらでもありえる。
あの日誌によると、あの部屋には失敗作を置いていたらしい。保管せずに、さっさと処分しろよ、と怒鳴りたくなる。
だから、エルスティンがこんな目に遭ってしまったのだ。
あの建物や道具が本当にグレバーニのものだとして、本人がそこにいたらガージェスはきっと掴みかかっていただろう。
ガージェスが何度も名前を呼びつつ、頬を叩いて刺激を与えていると、ようやくエルスティンの目が開いた。涙でちゃんと見えてないらしく、まばたきを繰り返す。
「ガー……ジェス……?」
様子はともかく、まずは意識が戻って少し安心する。
「ああ、ガージェスだ。エルスティン、俺のことがわかるんだよな?」
ガージェスはエルスティンの頬に手を当てながら、自分の顔を彼女に寄せた。もう少し近付けば、お互いの息がかかりそうな程に近くまで。
彼女が正気なら目を見開き、口ごもりながら後ずさりしようとし、木という障害物が後ろにあるので、動けないと知って焦り……という状態になりそうなもの。
だが、すぐそこにガージェスの顔があっても、エルスティンは涙を浮かべた目でただ彼の顔を見詰め続ける。
「ガージェス……生きてる?」
「ああ。エルスティン、ちゃんと生きてるぞ。ケガもしてない」
ガージェスは、エルスティンが「自分自身が無事に生きているのか」と尋ねたと思った。
あたし、生きてるの? と。
だが、エルスティンがもう一度尋ねた言葉に、自分が思ったこととは違うらしいと気付く。
「ガージェス、生きてるのね。ガージェスは……死んだりしてないよね」
「え……」
もしかして、俺が死んだと思って、泣いていたのか?
また涙をぽろぽろと流すエルスティンを見て、ガージェスも状況を把握しきれずに戸惑う。
だが、今はとにかくエルスティンに話を合わせておいた。
「あ、ああ。生きてる。ちゃんと生きてるぞ。ほら、俺の手、温かいだろ」
ガージェスは、エルスティンの手を握った。その感覚がちょっと違い、お互い防御の手袋をしたままだと気付き、急いで取る。
素手になると、ガージェスはもう一度エルスティンの手を握りしめた。
「わかるか? 手の感触、あるだろ。ほら、顔も」
握ったエルスティンの手を、今度は自分の頬に触れさせる。
「体温があるって、わかるか? ずっとばたばたしてたから、熱いくらいだろ」
「ガージェス……」
ようやく目の前にいるのが「生きているガージェス」だと認識できたのか、また涙が流れる。
「怖かったっ」
そう叫んで、エルスティンはガージェスに抱きついた。そのまま、声を上げて泣き出す。
「もう大丈夫だ、エルスティン」
ちゃんと何か言いたいが、他に言葉が思い付かない。
安心していい、ということを言いたいが、大丈夫という言葉しか出て来ないし、何か言ったとしても今のエルスティンの耳にはたぶん届かないだろう。
どうしよう。こういう時って……何が一番効果的なんだ?
子どもの頃、前後のことは覚えていないが、エルスティンがこんな風にしがみついて泣いていたことがあった。
どうしていいかわからず、幼いガージェスはエルスティンを落ち着かせようと、背中をとにかくぽんぽんと叩いていたような気がする。赤ん坊をあやす大人のまねをして。
そして、今もガージェスはそうしていた。
歳だけ取って成長してないな、と思いながら、そうすることしか思い浮かばない。何もしないよりいいか、と開き直る。
どれくらい経った頃か。エルスティンの泣き声が、ようやく消えてきた。
「少しは落ち着いてきたかしら」
後ろから声をかけられ、ガージェスはびくっとする。
意識がずっとエルスティンに向けられていたので、他にも人がいる、ということがすっかり頭から抜けていたのだ。
それがこんな抱き合った状態のところで声をかけられ、心の中で焦りまくる。
えらい所を見られた感があるが、今は特殊な状況だ。誰もが状況をわかっているし、別にやましいことはしていない……と自分に言い聞かせて振り返った。





