13.うずまく殺意
鏡の口調はとても優しく聞こえるが、その内容は対極のもの。
エルスティンは、耳をふさいだ。
「最初はみんな、同じことを言うの。こんなことは考えていない。そんなはずはないって。考えつきもしないことだって言うのよ。だから、私は真実の姿をみんなに見せてあげるの。それが、私のお仕事よ。そんなふうに自分を偽らなくていいのよって、教えてあげるの。ずっと自分の本当の姿を見ているうちに、そうだったんだって、誰もが受け入れるようになる。全てのしがらみから、解放されるのよ。すてきなお仕事でしょう?」
鏡の声は、とてもほこらしげだ。自分の仕事を、心から名誉に思っているように聞こえる。
だが、こんな光景を見せられた方は、たまったものではない。
無意識に視線を移せば、また違う自分がいる。誰かと話をしているようだ。よく見ると、近所に住んでいた友達だった。
ゆるやかなくせのある、黒く長い髪。くるくるとよく動く、丸い瞳。何年も前に引っ越してしまったが、今でも手紙をやりとりする仲。ガージェスも、よく知っている女の子だ。
彼女が引っ越して以来、会っていない。そのせいか、話をしている自分は大人なのに、相手はエルスティンの記憶にある子どもの姿のままだ。
しかし、お互いにおかしいと思うことはないのだろう。普通に話をしている。
だが、その顔は……とても仲がいいようには見えなかった。
声は聞こえないが、口が動いているので会話をしている、と思ったのだが、どうやら口論をしているらしい。
「えっ……」
その様子を見ていたエルスティンは、息を飲む。
いきなり、鏡のエルスティンが子ども姿の友達を殴った。平手ではなく、拳で正面から殴ったのだ。
さらには、倒れた相手に馬乗りになり、両手で殴り続けた。やがてぐったりとなった女の子を、エルスティンは無表情に引きずって行く。
ある程度まで行くと地面に放り出し、エルスティンは動けなくなった子どもの身体を蹴り上げた。
「やめてっ」
何なのだ、これは。あの子が友達であろうとなかろうと、子どもにあんなひどいことができるものなのか。
「あの子は、あなたのお友達かしら。でも、あなたはあの子が大嫌い。かわいくて、大人みんなからかわいがられて。だったら、かわいくなくなればいい。その顔をつぶしてしまえば、大人はもう見向きもしなくなる。……あなたの心には、彼女への殺意がうずまいているのよ」
「彼女とは、もう何年も会ってないのよ。あたしは子どもの頃から今まで、ずっとあの子を嫌っていたって言いたいの?」
この鏡を知ったのは、今日。昔の話をする間もなく、この鏡の世界へ放り込まれた。鏡に昔のエルスティンを知る術など、なかったはずだ。
「私には、これまでのあなたについて知ることはできないわ。ただ言えるのは、あなたの心の中はこうだ、ということだけよ」
何でもないことのように言われ、鏡を責めようと、反撃しようとしていたエルスティンは言葉に詰まる。
本当にそうなの? 確かに、あの子はかわいかった。周囲の大人達も「かわいい子だ」ってよくほめてた。大人になった今は、きっと美人になっているはず。
それが憎い? 悔しい? あたしは嫉妬に狂ってるの?
「あれは、あなたの両親かしら」
鏡の声に、はっとする。見なければいいのに、視線をそちらへ向けてしまった。
確かに、そこには両親の姿がある。
今までは自分の姿ばかりのところに誰かが現れていたが、光景がかなり変わっていた。
恐らく、自分の家のダイニング、だろう。テーブルを挟んで、両親とエルスティンが向かい合って座っている。
だが、双方の顔はとても険しい。その様子からして、親子げんかの真っ最中なのだろう。
何? お父さんもお母さんも、何を怒ってるの? あんな怖い顔の二人、見たことない。あたしが何かやらかして叱られることはあっても、あんな怖い顔じゃなかった。
エルスティンが三人の姿を見ていると、座っていたエルスティンが突然立ち上がる。キッチンにあるナイフを握りしめると、両親へ向かって振り回した。
恐怖に顔を歪める両親に構わず、エルスティンはまるでためらうことなく斬り付ける。
母親の首を斬り、血しぶきがエルスティンの顔や身体に飛んだ。しかし、そんなことを気にする様子もなく、父親に顔を向ける。
父親は逃げようとしたが、身体が動かないのかわずかに後ずさりする程度。エルスティンは、その胸にナイフを突き立てた。
「いやっ」
エルスティンは顔を覆う。
「何か生活態度でも咎められたのかしら。それとも、何か意見を言って、口答えするな、とでも言われたのかしらね。親というだけで、子どもを自分の思い通りにできる。なんて身勝手な考えなのかしら。親の操り人形なんて、まっぴらごめん。だったら、操れないようにすればいいだけのことだわ。……あなたは心の奥底では、両親に対する怒りと恨みが渦巻いているのね」
「お願い、もうやめてっ」
手が、身体が震える。あんな光景を、ずっと正視してはいられない。涙が浮かんできた。
両親は「店をしているから、短い時間しか構ってあげられない」といつもすまながっていた。
確かに淋しくはあったが、エルスティンの周囲には友達がいたし、ハーロネルトに入るまではガージェスもそばにいた。
誕生日には、欲しいと言ったプレゼントの他に、もう一つ何かを足してくれたりもして。
いつもではないが、定休日にはみんなでピクニックへ行ったり、買い物に出掛けたりした。
構う時間を作れなくても、両親なりに何かしようとしてくれていたのだ。
そんな両親に感謝こそすれ、怒りだの恨みだのがあるはずがない。
「本当の自分を知るのが、そんなに怖い? だけど、偽りの自分でこのまま一生を過ごす方が、もっとつらいんじゃないかしら」
「だからって……こんなの……あたしは……」
本当に、これが自分自身なのか。
目の前で繰り返される光景と鏡の言葉に、エルスティンは自分がどう考えているのか、自分の気持ちはどうなのか、わからなくなってくる。
「大丈夫、そんなに怯える必要はないのよ。ここに映っている光景は、あなたの心の中。現実に彼らを傷付けた訳じゃない。こうしてやりたい、と思っているだけで、実際には誰も傷ついていないのよ。安心して」
「だけど……こんなの、いや……」
あんなひどいことをしたい、と考えているなんて、信じられない。本当だとしたら、自分は何という恐ろしい人間なのだろう。
何でもないように接して、親しげに笑っているのに。心の中では、相手を殺したい程に憎んでいるなんて。
人間は裏の顔がある、と聞いたりもするが、ここまで黒い裏の顔を自分が持っているなんて、考えたくない。
「誰かを傷付けるなんて、したくない」
エルスティンは顔を覆ったまま、首を振る。
「でもね……ほら」
鏡の言葉に、どきっとする。その声に、つい顔を上げた。
また別の恐ろしい光景が、そこに広がっているのだろうか。誰かを傷付けようとしているのだろうか。
「え……」
そこは、鏡だらけの空間ではない。さっきまでいた、自宅のダイニングでもない。普通の部屋の中だ。さらに言えば、見覚えのある場所。
机、ベッド、クローゼット、本棚……。置かれている小物も全て、エルスティンの物。
ここは、エルスティンの部屋の中だ。
「あなたの心の中にいる者達。ここにいる誰もが、傷付いているわ」
部屋の隅に、何か転がっていた。自分の部屋に、あんな物はない。
どうやら人形みたいだが、実際のエルスティンの部屋にあるのは、小さなねこのぬいぐるみくらいだ。
何の人形?
黒髪の人形……と思ったが、違う。
それは、さっき鏡の中のエルスティンが傷付けていた友達だった。
殴って、引きずって、蹴り上げた相手。
確かめるまでもなく、その顔色は明らかに息絶えていた。口から血を流し、うつろな目でエルスティンを見上げている。
それを見たエルスティンは、思わず後ずさった。
その足に、何かが当たる。びくっとして振り返ると、当たったのは両親の遺体。
「なっ……どうして」





