12.鏡に囲まれて
緊張しながら、エルスティンは鏡に触れてみた。
これ、という反応は特にない。
エルスティンは、そのまま鏡の表面をこすってみた。一部ではあるが、鏡のほこりが取れる。
「ああ。あなたの顔が、少し見えるようになったわ」
エルスティンの拳一つ分くらいだけ、鏡のほこりがなくなった。
磨き上げられた、と言うにはほど遠いものの、他の部分に比べればそこだけがかなりきれいになっている。鏡らしくなった。
その部分に、エルスティンの顔が映る。ただれていたり、骨になった自分の顔が映るということもなく、今朝出掛ける時に見た顔そのままだ。
もちろん、自分の目が怪しく光る、口が裂けるということもない。
見慣れた、いつもの自分の顔だ。
「もう少し、もう少しだけ見えるようにしてくれないかしら」
いいのかな。こんな勝手なことして……。
心の中でそう思いつつも言われるままに、エルスティンは手袋をはめたままで鏡をくるくるとこする。
さらに、拳一つ分のほこりが取れた。エルスティンの顔の半分以上が映るようになる。
「ああ、よく見えるようになったわ」
鏡の声は本当に嬉しそうだ。
「あなたの顔が見える。あなたの心も」
「心?」
鏡の言葉に、エルスティンは首をかしげる。
「私は、姿と心を映す鏡。心の奥底に眠る、本当の自分を見せる鏡なの」
心の奥底? 本当の自分って……。
「それって、どういう……」
すぐには理解できず、エルスティンは言葉に詰まる。
「ありがとう。あなたの心を見せてあげるわ」
鏡がそう言った途端、エルスティンの周辺が全て鏡になった。
「え、な……何、これ」
急に明るくなった。真夏の昼間のような明るさだ。
しかし、明るくなっても喜んではいられない。エルスティンの周囲は、鏡にぐるりと囲まれている。巨大な鏡の壁が前後左右、そして上下にもあるのだ。
合わせ鏡のようになって、どこを見ても戸惑った表情のエルスティンが何十人と映るばかり。出入口になるようなものは見当たらない。
鏡の壁が迫ってくることは今のところないようだが、距離感が全く掴めないのでひたすら不安になる。
それに、この明るさの光源はどこなのだろう。外ではないから太陽ではないし、かと言って火の明るさとも違う。
「怖がらなくていいのよ」
鏡の声がした。
これからおとしいれてやろうとか、傷付けてやろうという雰囲気は、その口調から感じることはない。
むしろ、とても穏やかで優しげな話し方だ。子どもをあやすような。
だが、いきなりこんな場所へ放り込まれ、怖がるなと言う方が無茶だ。
「ここに映るのは、全てあなた。全てがあなたの心の中。あなたが閉じ込めてしまっている、本当のあなたなのよ」
何度も「あなた」と繰り返され、口調は優しくても何となくたたみかけられているように思えた。
どちらを向いても、不安そうな表情のエルスティンが無数にいる。
だが、何度もきょろきょろしているうちに、その中で違う姿があることに気付いた。
本物のエルスティンは、立っている。映っている姿も、みんな立っている。だが、一人だけしゃがんでいるエルスティンがいたのだ。
ありのままの状態を映すのが鏡のはずなのに、違う格好、違う仕草をしているのを見るのは、恐怖でしかない。
それは自分の姿であっても、明らかに「今」の自分ではないのだ。
しゃがんでいるエルスティンは、こちらに背中を向けている。
もし近付いて相手がこちらを向いたら、とんでもなく醜い魔物の顔があるのではないか。絶対に悲鳴を上げるだろう自分に、襲いかかって来るのではないか。
そう思いながらも、エルスティンはそちらへ歩き出していた。
不安げな表情で立っている自分の姿しか映らない、この変化のない状況が心のどこかで耐えられなかったのかも知れない。
もし振り返ったら魔物で、本当に襲いかかって来たとしても、この状況を打破するきっかけになりえる。
自分と同じ姿でも、絶対に自分ではないのだ。いざとなれば、攻撃することもいとわない。
具体的にそう考えた訳ではないが、とにかくエルスティンは動いた。
「何を……しているの?」
しゃがんでいるエルスティンは、近付いて来るエルスティンに気付いていないのか、振り返ることもない。
何やら手を動かしているようだ。その足下には、黄色い鳥の羽が散らばっていた。さらによく見れば、数羽の小鳥が死骸となって転がっている。
「何してるのっ。やめてっ」
何が起きているのかを知って、エルスティンは叫んだ。
しゃがんでいるエルスティンは、小鳥の羽をむしり取っていたのだ。
生きたままで。
それだけでは飽き足らず、翼そのものまでも傷付けている。
手の中で必死に小鳥は暴れるが、人間の力にはかなわない。小鳥は逃げることもできず、そのまま果ててしまう。
彼女の足下に転がる小鳥の死骸は、そうやってできたものだ。
手の中の小鳥が動かなくなると、どこからかまた新しい小鳥が現れる。そして、エルスティンは同じことを繰り返すのだ。
「やめてっ。そんなひどいこと、しないでっ」
エルスティンは止めようと、しゃがんだ自分の姿に手を伸ばす。だが、その手がすり抜けた。鏡に映った姿だから、掴むことができないのだ。
声を出しても相手に届かず、止めようとする手は何も触れられない。
一方で、小鳥の悲鳴も聞こえなかった。
「そんな……」
エルスティンにできるのは、その残酷な光景をただ眺めるだけだ。
あれは……キャナじゃないの?
子どもの頃、黄色い小鳥を飼っていた。エルスティンは、その小鳥をとてもかわいがっていたのだ。
寿命で死んでしまってから何年も経っているし、ひどい状態の死骸になっているのですぐにはわからなかった。
でも、目の前で繰り返されている行為の被害者は、エルスティンが大切にしていたその小鳥だ。
羽を、翼をむしり続けるエルスティンは……とても楽しそうに見える。その顔には、笑みさえ浮かんでいた。
不気味なにこやかさに、自分の顔ながらぞっとする。いや、むしろ自分の顔だから、なおさら怖い。
でも、どうしてキャナが何羽もいるの? あたしが飼ってた鳥は、一羽なのに。一度しか飼ってないのに。
「これが心の中の、本当のあなた」
「そんな……うそよっ」
鏡の言葉に、エルスティンは即座に言い返した。
「あなたは知らないだけ。気付いていないだけ。本当のあなたは、こういう小さな生き物をひどく毛嫌いしているの。小さい、というだけで愛される価値があるように思っている動物達をね。ほら、見てごらんなさい」
その声に、エルスティンは視線を動かした。
そこには、また別のエルスティンがいる。彼女は薄茶の子犬を押さえ付け、力任せに殴っていた。
その小さな身体では逃げることもできず、子犬はされるがままだ。
見ていられずに視線をそらすと、また別のエルスティン。こちらの彼女は、白い子ねこを捕まえると頭上から地面へ叩き付ける。
「やめてってばっ」
目をつぶり、エルスティンは叫んだ。
あの子犬や子ねこも、何となく覚えている。それぞれ友達が「飼うことになった」と嬉しそうに話していて、エルスティンも一緒に遊んだ子達だ。
本当は自分も欲しかったが、父親が動物の毛でくしゃみが止まらなくなる体質だった。それを知っているから、わがままを言うこともできず。
本当は、小鳥もいい顔をされなかった。だが、自分の部屋から絶対に出さない、と約束し、両親はベーカリーの仕事が忙しくて娘をあまり構ってやれない、という後ろめたさもあって、キャナを飼うことを許してくれたのだ。
うらやましかったのは、認める。だが、あんなひどいことをしようなんて、一度も考えたことはない。なでたり抱っこしたりして、友達の家で楽しい時間を過ごした。
それに、ちゃんと成長した姿を見ている。あの子達の寿命がくるまで、何度も遊んだのだ。
「自分だけ空を飛ぶなんて、かわいくない。こちらの気持ちも考えずに遊んでくれとせがむなんて、うっとうしい。かわいさを押し付けてすり寄ってくるなんて、虫唾が走る……。本当のあなたは、心の中でこんなことを考えているのよ」
「うそ……うそよ。そんなこと……」





