使っていないもの
酷く感覚が遠い。
痛みも疲労もあるはず。だが、それらは意識の表層に上ってくることはなく、ただの情報として渦巻くのみだった。
痛みだけではない。視覚も聴覚も嗅覚も鈍い。いや、鈍いというかそれらを処理する器官がイカれてしまっていたような。
まるで自分の体から神経が解けていってしまったような感覚。
そんな中でただ一つ。もたれ掛かる体温が冷たくなっていくことだけがわかった。
「……これで満足かよ」
呟いた言葉は誰に届くでもなく、虚空に消えていく。
視界に広がるのは土と岩。血と灰に覆われた赤と黒の世界。
泥のように全身に纏わりつくものは、どうしようもなく沸き上がるどす黒い感情。
手から零れ落ちた短刀から鳴る金属音も、唇を濡らす血液の味もどこか別世界の出来事のようだった。
それはまるで、世界が止まってしまっているかのような。
意識が闇に解けていく。
解けて、溶けて、融けて。
やがてそのまま、視界も黒く染まっていく。
風の音一つしない静寂の中。
無機質に開いた扉の光のみが、煌々と辺りを照らしていた。
***
強いのだろうとは思っていた。
ボスを単独で撃破したという話、特殊なスキルを持っているという話。
ただどこか実感として掴めなかったのは、暗闇の中で聞いたその声が、あまりに普通の少年だったからであろう。
別に信じていなかったわけではない。実際に洞窟に置いてきた私の槍を持っていたこと、倒したボスの情報を持っていたこと。だから、事実として認識してはいた。
だが、そんな認識ではまったく足りていなかった。
「……」
言葉が出なかった。私も。隣にいるバロウさんも。
それほどまでに目の前の戦いは、速く、強く、苛烈であった。
あまりに巨大な鎖の隙間から、最初に見えたのは蒼色の氷。まるで氷山の頂点から無理やり削り取ったようなそれは、真っ白な雪に何本も突き刺さっている。
目を引くのはその先。
まず視界に移るのは人の数倍もの体躯をした狼だった。深い蒼色の氷に身を包む獣は、その巨体では考えられないほどの速度で雪原を駆け巡る。
『ゴォォ!!!』
だだ広い平原に響き渡るのは人のものではない喚声。理性を失っているそれはまさしく獣の咆哮。
それが、三つ。
「……三体」
≪氷狼の長:ドーヴァ≫
≪氷狼の長:スティンガー≫
≪氷狼の長:ゲルド≫
アイコンの色は全てボスを示す黒色。即ち三体全てがこの塔を守護するボス。
そして、その三対の琥珀色の視線は一点に注がれていた。
「なんでそれが避けれるんだよ……」
呆然とした様子でバロウさんが呟いたその言葉ではっとする。そこで初めて私は息もつかないほど、激闘に見入っていたことを自覚した。
所々切り裂かれている灰色の外套に身を包む黒髪の少年。震えあがるほどの敵意はただその人一人に向けられる。
おそらく彼があのときの……。
少年は、思ったよりもずっと幼かった。
遠くて顔こそ見えないが、小柄で、いっそ頼りないと言ってもいいほどの線の細さ。身長も私と同じか、もしかしたら低いかもしれない。戦いなんて言葉と、最もかけ離れた風貌。
だが、そんな言葉を投げかけることを、眼前の戦闘の光景は許さなかった。
少年が装備するのは短刀と闇のように黒い両手剣。器用にもそれら二種類を入れ替えて戦っていた。
基本は右手に装備した短刀。取り回しの良いそれは少年の驚異的なAGIとも相まって、複数体のボスに対し、ヒットアンドアウェイの戦法を成立させていた。それだけではなく、その軽さを利用して射出される氷柱を弾くなど防御にも一役買っている。
そして、ここぞという時に取りだすのは黒色の両手剣。植物の枝のようなものが巻き付いているそれは、一振りするごとに分厚い氷の鎧を削り取る。剣の形をしているものの、その音は鈍く、まるで鈍器を叩きつけているかのようだ。
戦いは拮抗していた。
多少、少年の方が分が悪そうではあるが、決定打を与えられずにいるのはお互いだった。
しかし、そもそも戦いが成立していることが異常なのだ。
この何もない雪原の中で、複数いるボスの猛攻を搔い潜り、ダメージを与える。それを単独で成しているだけで信じられない。
主達も一向に捉えられない少年の姿にどこか苛立っているように感じるのは気のせいであろうか。
とにかく速い。反応も、判断も、そして純粋なスピードも。
人外染みたその速度が通常成し得ない接戦を可能としていた。
信じられなかった。
ボスに取り巻きが出てくることは私の経験でもあった。だが、ボス自体が複数出てくることなんてことは見たことがない。その上、見た感じ、一体一体の強さも先ほど倒した≪メドベル≫と同じかそれ以上……。
ただし、それも途中までだった。
三体の獣が蒼色の液体を纏いだす。元となったのは取り巻きである雑兵の狼。主たちが群れの子分を生贄に得たのは新たな力だった。
背中から花弁のように広がるのは氷と同色である蒼色の紋章。そこから絶えず射出される氷柱が少年を狙う。
まるで嵐のようだった。
菱形の紋章から吹き荒れるのは蒼色の氷刃。巨大な波のように辺り一面を呑み込む蒼の嵐は、人一人を捉えるには過剰に過ぎた。
いくら回避能力に長けているといっても、この物量は人間が対応できる範囲を超えている。
避けて、とも言えない。口を開いて見ることしかできない私達を横目に、氷柱は無慈悲にも少年に殺到する。
しかし、あらゆる角度から飛来する蒼色の矛先に、全力で少年は抗って見せた。
ステップと切り払い、ボス自身の体をも利用して回避を試みる。
だが、避けきれない。数多の氷の杭が少年の腕を、足を、頬を削ぐ。
卓越した回避能力も物理的に避けれるスペースがなければ意味をなさない。
やがて一瞬の隙を突かれ、まともに攻撃を受ける。あまりにも巨大な体躯の突進を受け、小柄な体が車に轢かれたかのように地面を転がる。
「リヒト!!」
バロウさんが叫ぶ。私は声もあげれず、ただ目の前の光景を見ることしかできない。
少年はなんとか立ち上がったもののその足取りは鈍い。ふらつきながらも得物を構えるその姿に、三体の獣たちは容赦なく襲い掛かる。
丸太のような尻尾が、数多の氷の弾が、ナイフのように尖った爪が。少年の命を散らしにかかる。
そして、ついに。一撃が彼の姿を捉え。
少年の足が止まり、大きな隙を晒し。
一体の狼の牙が彼の体に食い込んで。
そのまま、少年は一体の主の息の根を止めた。
「……え?」
「……は?」
自覚もなしに驚きの声が漏れる。それは隣にいたバロウさんもだった。
震えあがるほどの断末魔を響かせて一体の主が倒れる。核を抜き取られ灰へと還る狼。
馬鹿みたいに口を開いたまま、その光景を私たちは見つめた。
流れるような動きだった。
自身の左腕を犠牲に短刀を突き刺し、相手の視界を奪う。両手剣によって相手の防御を剥がし、そのまま核を抜き取る。一連の流れは淀みなく、まるで台本に書かれている事象をなぞったようだった。
そんな私の反応も露知らず。血まみれの手でモンスターの命となる核をつかみ取る。
少年が、薄く笑った気がした。
***
核というのは、文字通りそのモンスターを形成する中心となる部分だ。人間でいう心臓と同等の器官。
だからこそほとんどの人型のモンスターの核は心臓にあるし、動物や異形のモンスターでも核の位置はある程度予想がつく。大体が体の中心部、もしくは脳がある顔付近に位置しているからだ。
その経験があるからこそ、先ほど倒したスティンガーの核の位置には虚をつかれた。
腹の下部。ほとんど表皮に近い部分に位置していたそれは、考えようによっては酷く脆い。実際に俺が素手で核を無理やり抜き取れたこともそれは明らかだ。だからこそ、それを補うだけの氷による防御を纏っていたのだが。
何故そんな位置に核があったのかというのはわからない。
ただ一つ言えることは、こいつらはただのモンスターではないということ。
それは塔を守護するボスである、という意味ではない。言葉の通り、他の今まで倒してきたモンスターとは根本から異なるということだ。
核の位置がずれていること、出血しないこと、そもそもとしてモンスターの強さに大きく差があること。
一つ一つは小さなことかもしれないが、それが重なるとやはり違和感がある。
そんなことを考えて、博打染みた勝負を仕掛けた。いや、正確にはそんなことを考えていた、が正しい。実際に体が動いたのはほぼ無意識だったから。
灰となって消失したスティンガー。右手に掴んでいた核が光となって消えたのを確認してから、短刀を構えなおす。
ドーヴァとゲルドは瞬く間に一体倒した俺を警戒するように唸っていた。
かなり強引だったが頭数を減らせたのは大きい。二体と三体では天と地ほどの差がある。
ただ、その代償としてかなりの傷を負ってしまった。ちらりと左手を見ると、先ほど無理やり牙を受けたせいか、手首周辺の装備がかみ切られ、真っ赤に染まっている。一度試しに両手剣を握り直してみるが、鋭い痛みが走った。
使えないほどではないが、握力が低下している。両手剣を長時間使うのは難しそうか。
いや、そもそも…。
ぐらり、と視界がぶれる。
その前のダメージが残っている。左手だけではない。長時間の戦闘によって、全身が悲鳴を上げているのがわかる。
せめて回復アイテムを使いたいが、主の機動力からしてそんな隙はない。一対一ですら回復タイミングはシビアなのだ。対多数で隙も作らずに回復アイテムを使用するなど自殺行為に近い。
回復無しで倒し切るしかない。
まだ足も動くし、頭も回る。戦闘は続行可能。
それにまだ手札は何枚か残っている。勝ち筋はある。
方針を固めたや否や、ドーヴァとゲルドが突進してくる。両手剣を鞘にしまい、短刀で二体の獣と対峙する。
『グォォ!!』
氷狼の主達が遠吠えと共に全身の紋章を光らせると、蒼色の氷柱を射出する。今の体力を考えると一発でも貰いたくはない。氷柱一発で致命傷になるわけではないが、これ以上攻撃を食らうわけにもいかない。
先ほどと同様に走り回って避けて、避けきれないものは短刀で弾く。
シンプルだが、何もない雪原ではやはりこの弾幕が厄介である。一体減ったため先ほどよりはましだが、それでも厄介なことに変わりはない。
弾幕を防げるアイテムがあれば良いが、そんなものは今手元にない。そもそも前の塔……【新緑の塔】でもこの【深雪の塔】でも碌なアイテムを調達できなかったのだ。どちらの塔もあまり文明が発達してそうな塔ではなかったから仕方がないが。
使えそうなアイテムは、回復アイテムを除けば、【新緑の塔】で買えた【投げナイフ】とバロウからもらったあるアイテムのみ。
とにかく、今持っている手札で何とかするしかない……と、その時気づく。
先ほどよりも相手の攻撃が軽い。
いや、これはそうではなく……。
俺の力が上がっている。力だけではない、速さもおそらく防御力も。
何故かと考え、一つ思い当たることがあった。
この世界のスキルには熟練度がある。例えば≪片手剣≫や≪短刀≫といった武器スキルは対応する武器を使えば使うほど能力値に補正がかかるし、≪毒耐性≫のような耐性スキルは毒にかかる度、耐性の強化が施される。現実世界のトレーニングなどと同様に効果を発動すればするほど、鍛えられていくのだ。
そんな中でごく稀に、そのスキルに対し強化ではなく、変化が起こることがある。
通常であれば、能力値の上昇幅が大きくなる純粋な強化が起こるのが、効果自体に変化が生じたり、新たな効果が追加されたりするのだ。
そして、その変化が俺のスキルにも起こっていた。
ゲルドの爪と俺の短刀がせめぎ合う。正面からのぶつかり合いの場合、先ほどだとなすすべなく吹っ飛ばされていたが、今は違う。押し込むとはいかなくても確かに力は均衡していた。
【新緑の塔】でボスを倒した後、自身のステータスを確認していた時のこと。自分のあるスキルが変化していることに気付いた。
スキル名≪修羅の呪縛≫。敵対するモンスターの強化と逃走を防ぐ『鎖』の顕現と引き換えに、自身の能力値を上昇させるふざけたスキル。そのスキルに次の一文が加わっていた。
『自身のダメージ量に応じた能力値の上昇』
最初に見たときは半信半疑であったが、今はっきりと実感した。
これは俺自身が傷を追えば追うほど基礎能力値が強化されるスキルだ。
ぎちりと。
何かに胸を締め付けられるような感じがした。
唇を噛んでそれを無視する。今は余計なことを考えているときじゃない。
これが何故追加されたかは不明だ。≪修羅の呪縛≫は常時発動する。だからこそ、熟練度などないと思っていたが……。考えられるとしたら、強化したモンスターの撃破数が熟練度に繋がっているなどだろうか。
とにかくこの効果が有用であることに変わりはない。かといってこのスキル自体に感謝などする気などはさらさらないが。≪スケルトン・サーペント≫やローグとの戦いでは、大きなダメージを負わなかったため、恩恵を感じられなかったが、今ははっきりとわかる。
懐に潜り込み、右手で握った両手剣をゲルドの首元に叩きつける。黒剣は分厚い氷を穿ち、覆われていた毛皮に確かな傷を刻む。
明らかに力が湧くのだ。戦闘前よりも確実に疲労も傷も負っているのに、パフォーマンスが落ちないというのはありえない。そうなると能力の上限値が上がっているとしか思えないし、事実、感覚としても扱える力が上昇していることを感じている。両手剣である【大樹の黒剣】を片手でも扱えているのがその証拠だ。
だが、裏を返せば、能力値の上昇を実感できるほどダメージを負っているということでもある。このまま押している内に倒しきりたい。
スキルの効果を実感し、思考を切り替える。
休ませていた血まみれの左手も両手剣に。柄を握ると電撃が走ったかのような痛みが左腕を襲うが、無視して握り続ける。
ある程度回復するまで左手は使わないことを考えていたが、作戦変更だ。一気に攻めきる。
再度、ドーヴァの氷柱による攻撃。
射出する直前、俺は上がった身体能力を活かしてゲルドの後ろに回り込む。紋章による跳弾があるとはいえ、射線から壁になるようにすればさすがに当たらない。
反応しきれていないゲルドの真後ろから両手剣を振り下ろす。狙いは先ほど同様、首元。他の個体に比べて、不自然に盛り上がった氷の鎧を削ぎにかかる。
核がある位置は氷の鎧が分厚い。これは弱点となる部位の防御力が上がるという意味では厄介極まりないが、逆に言えば、核の位置をわざわざ教えてくれているということでもある。
つまりゲルドの核はおそらくこの首元。
核ごと叩き切る!
スキルによって力の増している、さらに先ほどとは違い、両手での一撃。
体重を掛けた袈裟斬りが当たる──その瞬間、ぴくりとゲルドが不自然に動き……ぐにゃりと首を曲げた。
「な!?」
渾身の一撃が首元すれすれの空を切り、真っ白な雪を巻き上げた。その光景に呆然とする。
(見もせず避けた…!?)
何だ今のは。
当たる直前までゲルドは俺の位置の把握すらできてなかったはずだ。にも関わらず、最小限の動きで回避をした。
獣らしく、野生の勘で避けたとでも言うのか。
いや野生の勘だろうが、獣の嗅覚だろうが、今の回避はありえない。確実に当たる間合い、タイミング。直前に感知できたとしても間に合わないに決まっている。
そもそも回避方法からしておかしい。今までの運動能力にものを言わせた回避ではなく、最小限の動作での回避。それはまるで人間が行うような…。
だが、考える暇もなく、ゲルドが反撃を行ってくる。左腕の振り下ろし、噛み付きに尻尾の叩きつけ。
全て避けることはできたが、最後の叩きつけによって勢いよく雪が舞い上がり一瞬視界が奪われる。
目眩まし!?
瞬間、雪煙を切り裂いて勢いよくドーヴァが現れた。
(こいつら急に動きが......!?)
変わった。
右腕の振り下ろしを間一髪横っ飛びで回避する。だが逃げた先を追うように既にゲルドの氷柱が放たれていた。無理矢理体を捻って避けるが、何本かが体を削る。
「ぐっ……」
先ほどまで全くと言っていいほど協力し合う気のなかった主の二体が連携を取り始めている。
わざと視界を奪うような攻撃をして隙を作る役目に徹したり、細かく入れ替わりをしたり。さっきまでのお互いが邪魔をし合うような動きとは雲泥の差。普通の狼が狩りを行うときのような協力した動き。
いや、そうじゃない。
追い詰められたときに行動パターンが変わるボスは存在する。だが、これはそういった類のものではない。
獣が群れとして連携を取るようになるとか、攻撃パターンが広くなるなんてものではなく、もっと根本的な違い。
言うなれば、戦場を俯瞰した動き。
それは、まるで誰かが上からゲームのコントローラーで操っているかのような。
考えている暇などないと言うかのように主達の攻撃の勢いが増す。先程までの野性的な殺意はそのままに、お互いの隙をかばい合うような戦略性も取り入れて。
矢継ぎ早に繰り出される連撃を対処し、なんとか反撃を試みるものの通用しない。繰り出した攻撃は防がれ、逆手に取られ、追い詰められる。
またも、形成が逆転する。確かにこちらが押していた戦況は、既にあちら側の手に渡った。
動かされている感覚があった。何をするにも後手となり、先回りされている。
なんとか打開策を練らなければ…。そこまで考えたとき、焦りにつけ込むように、未だ雪煙が立ったままの後方から三体、狼が飛び出してくる。主ではない、ただの氷狼。
(まだいたのか…!)
長達がパワーアップする際に生贄となる個体は必要だが、それは群れの中全ての氷狼が必要な訳では無い。ローグ戦のときも同じように、何体かは生き残っていた。今回もおそらく生き残りがいて、射程範囲が一気に広がった長の攻撃に巻き込まれないよう、雪の中で息を潜めていたのだ。
攻撃してきた奴らを慌てて斬り伏せるが、一体の噛み付きが左足を捉えた。瞬間、力が抜ける。
一瞬の隙。だが、それが命取りだった。
『ガァ!!』
目の前に迫ってきていたゲルドの右腕。
獣の腕が己の体を捉える。それと同時、景色が高速で移り変わる。
人の胴ほどもあるゲルドの腕。逆さまになった主達。雪が剥げて土が露出している地面。次々と景色が切り替わり、そして最後に雲に覆われた空で視界が固定される。その時になって初めて、自分がふっ飛ばされて、仰向けで上空を見上げていることを認識した。
立ち上がろうと力を入れるが、途端に全身に刺すような痛みが走る。その鋭い痛みについ眉を潜めた。
わかっていたことだが、度重なる氷柱や爪の攻撃により、既に体は傷だらけである。切り傷や刺し傷、打撲痕など怪我をしていない部分が見当たらない。特にひどいのが、左肩、左手首、右肩などもろに攻撃を受けた部位だ。
いや、痛みだけではない。長時間走り回った代償か、CON……スタミナも限界に近づいている。
四肢には乳酸が溜まり、心臓は普段の倍以上の速度で鼓動を鳴らしていた。
騙し騙しやってきたが、そろそろ限界がきている。
(……どうしようか…)
目線だけで周りを見渡す。見えるのは真っ白な雪景色と血のような赤い鎖。
当然逃げ場はないし、使えそうなものもない。そんなことは百も承知だ。
傷だらけの体と孤立無援の状況。
特に珍しくない。今までも何度もあった窮地。
どこか他人事のようにその光景を眺めながら、ぼんやりと思う。
この世界に来て学んだことはそれなりにある。まだ一年も経っていないが、学ばないと生き残れなかったからだ。まあ学びとはいっても武器の振り方だとか、モンスターの弱点だとか、そんなことばかりだが。
その経験は元の世界では到底得ることのできないものが大半であり、当然、その中には、学びたくはなかったものもある。
そして、そんな経験の中で。
絶望的な状況の打開に、何が必要かも理解した。
(こんなとき、いつも思い知る)
戦いに都合の良い奇跡なんてものは起きない。
土壇場で眠っていた力の覚醒なんてものは起きないし、ピンチのときに救ってくれるヒーローなんてものはいない。
結局、自分を助けることができるのは、用意した自分の力だけだ。
ゆっくりと立ち上がる。
全身の痛覚が悲鳴を上げるが無視して、短刀を構える。
警戒をするように唸り声を上げる主がぼやけた視界に映る。
依然旗色は悪い。正直絶望的と言ってもいいだろう。
ただ、まだ使っていないカードはある。
切り札なんて格好いいものではない。
奥の手なんて強力なものでもない。
だがそれでも、まだやれることはある。
ならば、やらなければならない。
「『 ヴァイト』」
呟いたと同時、意識が覆われた。
鋭く、激しく、血のような真っ赤な戦意に視界が染まる。




