刻まれたもの
『グルゥ…?』
疑問のような唸りが漏れたのは、突然肩口の氷が削ぎ落とされたからだった。ゲルドは視線を自身の体に落とすと、そこに突き刺さっているものは銀色の短刀。対峙していた少年の獲物だった。
認識したと同時、いつの間にか目の前にいたリヒトが柄を握り、思い切り引き戻す。蒼色の氷が無理やり削られる。
何も見えなかった。強化を経たボスでさえ追いきれない速度。
「………」
リヒトは何か異様な雰囲気を纏っていた。いや実際に、それは姿として現れていた。
赤色。
日本人の特徴である闇のような黒色の瞳がそれに染まっている。瞳は獣のようにぎらつき、全身が薄く同色の光に包まれていた。
《ヴァイト》。
リヒトの持つ魔法。これもある塔をクリアしたときに得たものだ。
効果はSTR(筋力)・DEX(敏捷)・TOU(頑強)の上昇。発動中は魔力を消費し、発動を解くまで、または魔力が尽きるまで、全身の身体能力が上昇する。
とはいってもこの上昇効果自体はそこまで高いものではない。《修羅の呪縛》の上昇率に比べたら、かなり控えめな性能である。
特徴となるものはその他の効果。
張り付くリヒトを鬱陶しがって、ゲルドが叫びながら全身から氷柱を乱射する。
リヒトは降りかかる無数の氷の角に対し、無理やり体を捻りそのまま突っ込む。
左肩と脇腹に氷が突き刺さる。だが、全く怯まず両手剣を振り下ろす。
『ゴアァァ!?』
戦意の向上。
ゲームでは『狂暴化』とも言われる状態。
この状態では戦闘に不必要な思考・情報は削ぎ落とされ、ただ敵を倒すことだけに全力が注がれる。
アドレナリンが大量に分泌され、痛覚が鈍化。攻撃だけに意識を集中させる。
体に突き刺さった氷が激しい動作によってこぼれ落ち、傷口から血が吹き出る。今までのダメージも相まって全身は既に真紅に染まっている。
ただそんなことは些事だと言うように、リヒトは両手で【大樹の黒剣】を振り下ろす。既に左手の痛みも意識の外だ。
致命傷となる攻撃のみ回避して、その他の攻撃は受けながらも斬りつける。斬る。斬る。斬る。
ゲルドの核があると考えられる首まわりだけではなく、とにかく全身を斬りつける。反撃するゲルドの隙間に体をねじ込んで、蒼色の氷の鎧を削る。
ドーヴァが手助けをしようと飛びかかってくるが、相手にしない。噛みつきを避けてそのまま頭を蹴り、再度ゲルドに突っ込む。
まず一体殺し切る。
血赤に染まった瞳は雄弁に語っていた。
文字通り休む暇もなかった。本当の意味で息をつく暇もない連撃。
異常と言っていいほどの運動量の理由はもう一つの効果にあった。
疲労、及びCON(体力)の無視。
この魔法の発動中は体力……スタミナの減少が停止する。
どれだけ息が上がっていたとしても、どれほど体に疲労が溜まっていたとしても、魔法を発動したその瞬間から疲れることなく動き続けることができる。物理的に可能ならば、現在の身体能力の限界まで動くことができる。
主が反応できないほどのスピードを出せるのも、能力の上昇より、こちらの影響が大きい。
純粋なDEXが上がっているのではなく、本来痛みや疲れでセーブされている速さを引き出しているだけだ。
それを証明するかのように、リヒトは更に速度を上げる。短刀と両手剣を器用にスイッチしながら、獣の主達の命を散らしにかかる。
リヒトも今になって実感したことだが、この魔法と《修羅の呪縛》の新しい効果……『ダメージを負うほど能力が上がる』という効果は恐ろしく相性が良いものだった。能力の絶対値が上がったとしても、通常、傷が増えればそれを十全に扱いきれない。しかし、魔法の効果によって、リヒトは上昇した能力を全力で利用できていた。今や瞬発力のみならず、さっきまで負けていた純粋なスピードでも完全にドーヴァとゲルドを置き去りにしていた。
主達はなんとか捉えようとするが、先ほどとは比べ物にならない速度に完全に翻弄されている。二対一で包囲網を敷こうとしても悠々と抜けられていた。数分前とは一転、一方的な展開。
ただし、スタミナ無視という強力無比な効果の裏には、当然デメリットも存在する。
それが疲労の蓄積。
発動中に動いた分の疲労は確実に溜まっていく。そしてその疲労は魔法を解いたその瞬間に全身を襲うのだ。
動いた分の疲労がそっくりそのまま還るわけではない。経験上、蓄積される疲労は通常時よりは減っている。が、動いた分に比例して解除時の衝撃は多くなることは確かだ。
そしてそれだけではない。
魔力の余力は精神力に影響を及ぼす。魔力が空になったらそれこそ、身体的な疲労とは違う、強い倦怠感に襲われるのだ。
つまり、もし魔力切れを起こしてしまったら、疲労のフィードバックの上に魔力切れによる精神へのダメージも受けてしまう。
リヒトの魔力……POWだと《ヴァイト》の最大発動時間は五分。それを過ぎたら、五分間全力で動いた分の衝撃が一気に襲いかかる。その上、魔力が空になったことで、精神への負担もかかる。
今の満身創痍の状況でそんなことになったら、確実に戦闘不能である。
つまり五分間で倒しきらなければ、死ぬ。
魔法を発動してから既に二分は経過した。その事実を直感的に理解したリヒトは一体の息の根を止めにかかる。
尻尾の薙ぎ払いをジャンプで躱し、獣のようにゲルドに飛びつく。そしてそのまま短刀を思い切り、狼の右目に突き刺した。
『ギィィィ!!!』
流血の代わりにけたたましい叫び声があたりに響き渡る。しがみついたリヒトを振りほどこうと首を振り回し暴れるゲルドだが、即座にリヒトは離脱して、両手剣を構える。
怒りのまま爪を振り上げるが、一手遅い。
リヒトは思い切り振りかぶった【大樹の黒剣】を首元へ叩きつけた。
黒色の両手剣は度重なる攻撃で、凸凹に削られていた氷の鎧ごとゲルドの首を斬断した。
『ァ!!───ァ』
琥珀色の瞳が限界まで開かれ、そのままごとりと、首が転がった。そして断面から見えるのは蒼色の核。
少年はそれを掴み取ると、核は光と共にアイテムストレージへと格納された。
「…あと一体」
無感動に呟くリヒト。血走った瞳は理性のない獣のようであったが、それはどこか機械的な色も含んでいた。
「……大丈夫、すぐ、殺すから」
誰に話しかけるでもなく、呟く。
言葉も通じない獣に向けるその目は虚ろだった。体は既に気息奄々たる有り様。だが、その足は迷いなく地面を蹴る。
凄まじい勢いで突貫してくるその姿を見て、ドーヴァは受けて立つと言わんばかりに鬨の声を上げた。
血を求める野性的な瞳にギラついた爪。灰色の毛皮に覆われた筋肉が荒々しく隆起して、思い切り前へ踏み出し…。
次の瞬間、その瞳に奇妙な光が走った。
一瞬、瞼が閉じ、すぐに開く。
すると先ほどまで存在していた、目に見えるほどの凶暴な戦意が跡形もなく霧散していた。代わりに灯るのは理性的な光。冷静であることを証明するかのようにバックステップを踏み、紋章を展開。威嚇するようにこちらを睨みつける。
(これは……)
気づかれた。
戦意に侵された脳内でリヒトは悟る。
ドーヴァの動き……いや、狙いが変わる。先ほどまでの直接リヒトを仕留めようとする動きから、時間を稼ぐためのそれに。
ゲルドが生きていた時は爪や牙での近接攻撃を主としてしたのに、氷柱の射出による遠距離攻撃を多用するような立ち回りへと。
さらに指示を出したのか、周囲を取り囲んでいた氷狼達も前に出て、攻撃を仕掛けてくる。
即ち時間稼ぎ。何らかの制限時間付きの強化だと気づかれたのだ。
獣がそこまでの判断をしていることにはリヒトはもう驚かない。考えることはどうすればあと一分足らずで目の前の相手を殺しきれるかということだけ。
ドーヴァの核の位置はおそらく背中。まるで背中を魚のヒレのように覆っている氷の鎧を見れば、類推は可能。
だが、いちいち背中周りの氷を削っている暇などない。かといって一撃で無理やり核まで攻撃を届かせることも難しい。一工夫が必要。
しかし、作戦をじっくり考えている暇などない。近づいて核を斬り捨てる。元より一気に攻めきる以外の選択肢はないと即座に断じた。
短刀を手に走り出す。だが、出端を挫くように氷柱の連弾が降り注いだ。合間に取り巻きの氷狼の攻撃も。
ただ、リヒトには攻撃の軌道が先程よりもはるかによく見えていた。魔法で上昇した身体能力に情報の取捨選択能力。それは鯨波のように襲い来る数々の攻撃にも冷静な対処を可能とさせた。次々と繰り出される連撃も、今のリヒトにはさながらスローモーションのように感じられる。
氷弾も、雪の中から飛び出てくる取り巻きの姿も、難なく反応して切り捨てる。
しかし。
(捉えきれない)
既に速度は優にドーヴァを上回っている。だが、遠距離を主体とした防御よりの立ち回り、子分である氷狼の支援、何より、それらを突破したとしても、先刻も見せていた超反応の回避の存在があった。防御を抜いたとしても、致命傷を外される。
時間さえあれば確実に殺しきれると言って良い。だが、その時間が最大の問題だった。
かといって、焦りなどはリヒトは一瞬たりとも感じない。
何も言わずに、ただただ速度を上げる。
再度、思い切り踏み込む。
速度に対応しきれていないドーヴァの氷の鎧に両手剣がクリーンヒットする。
反撃するかのように爪牙を振り回すが、リヒトは既にその時には裏を取っていた。背後から再度主の体躯を削ろうと横薙ぎを繰り出す。
だが、そのとき、またもドーヴァはぐにゃりと体を不自然に反らし回避する。それはまるで後ろに目がついているかのよう。
両手剣は空を切り、それを見たドーヴァは反撃の一撃を繰り出し……それよりも先にリヒトが再度放った斬撃が狼の主に命中した。
『ガァァァァ!!?』
空振った勢いのまま、体を回転させ放った斬撃。
ドーヴァが時折見せる超反応の回避。厄介極まりないが、それをしてくることがわかっているならば、対策も可能である。対策とはいっても、ただの力業ではあるが。
つまり、ただ単に攻撃の速度を上げて、逃げた先を追って斬っただけである。
怯んだ隙に一気にたたみかけようと両手剣をかざす。
しかし、追撃を防ぐように、氷狼がリヒトを取り囲んだ。六体。おそらく最後の取り巻き。
「邪魔」
両手剣を納刀し、代わりに右手で握った短刀を閃かせる。ステップを繰り返し、一息で全ての個体を斬り付ける。
ボスとは異なり、雑兵の核の位置は統一されている。既に核の位置を完全に把握した今ならば、両手剣よりも短刀の方が効率が良い。それを証明するかのように、リヒトの獲物は的確に核を破壊していた。
獣の断末魔と共に氷狼が灰となる。取り巻きの処理はこれで全て完了。
リヒトはその勢いのまま、両手剣に持ち替え、勢いよく一歩を踏み出した。
黒色の刃が反応しきれていないドーヴァに吸い込まれ、そして。
意識が反転した。
***
ぷつり、と糸が切れたような感覚がした。
精神力、集中力といったような目に見えない力の中にある、何かの貯蔵が切れる。同時、身体的な疲労ではない、精神というものに直接降りかかるような疲れに襲われる。
魔力切れ。
この世界に来てから初めて知った、独特の感覚。
激しい発汗と倦怠感に襲われ、両手剣を取りこぼしそうになり……さらに直後、それをはるかに上回る衝撃が体を襲った。
「がッ!!!?」
掴みなおした両手剣が今度こそ地面に転がる。
≪ヴァイト≫の副作用となる、発動中の疲労の反映。約五分間全力で動き回った分の衝撃が一気に体に返る。
心臓を鷲掴みされたかのような痛みが叩き込まれる。
直接ダメージを受けたわけではないのにも関わらず、全身の骨を砕かれたような衝撃。体中のあらゆる器官の隅々まで疲労とダメージが行き渡る。
あまりの衝撃に握っていた両手剣を取りこぼし、地面に倒れこむ。そのまま心臓を抑え、みっともなくうずくまった。
「………ぁ゙…──ッ!!」
そのまま血が絡まった痰を吐き出しながら、何度も嘔吐く。
魔法の発動中は頭の一部が働きながらも、戦闘に関係ない思考がカットされていた。その壁が剥がれ落ち、痛みや疲労がはっきりと認識される。
大量のアドレナリンが分泌されていただろう、その状態が解除されたことで、全身の神経をミキサーに掛けられたような痛みが走る。
これは、まずい。
もう無理だと。心ではない、体中の全細胞がそう言っていた。
数多の負傷からくる失血が、何度も打ち拉がれた肢体が、悲鳴を上げている。
先ほどまで覆われていた不必要な思考に関する靄が晴れ、現状を認識できるようになった途端、直接体が脳味噌に訴えかけてきた。
──ここが限界だと。
ドーヴァはしばらく警戒していたが、痛みを堪える俺が演技ではないと悟ったのだろう。
とどめを刺すためにゆっくりと近づいてきた。
立ち上がろうと手に力を込めるが、すぐにその活力は霧散する。
激痛は既に熱へと変わり、疲労は鎖のように全身を締め上げた。
ドーヴァは既に置物と化した男の前に立ち止まると、口を大きく開く。避けなければならないが、意思に反して体が言うことを聞かない。
眼前に、空恐ろしいほど鋭利な牙が迫る。俺の胴なんて一口で噛み切られてしまいそうな鋭さ。
眼の前のことなのに、どこか他人事のよう。
(……ここまでか)
死ぬ。
赤黒い灼熱に脳内を曝されながら、一パーセントにも満たない思考で悟る。
自分はこの後すぐ死ぬのだと。
まだ策も手札もある。ただそれも体が動かなければ意味はない。
体力などもうない。魔力も使い切った。全身に刻まれた傷は発火しているかのような熱を放っており、息一つ吸うのにも激痛が走る。
諦める、諦めないの話ではない。冷静に立て直すことが不可能だと現実は突きつけてくる。ただただ、体を走る暴力的なまでの痛みと疲労がどこまでも死の事実を肯定していた。
視界が影に覆われる。もう見えるのは、返り血がこびりついた白灰色の牙と赤黒い口内だけ。
死が迫っているというのに、何故か恐怖はなかった。
頭も奇妙なほど冷静に、穏やかに回っていた。
だから、考えたのは今までのことではなく、これからのことだった。
取り敢えず、四体いた長の内、三体は討伐したから、最低限の役割は果たせたはずだ。
あと一体はバロウ達に任せれば良い。かなり厄介なボスではあるが、単体なら問題なく倒すことが可能だろう。こいつで最後の長のため、無事次の塔へは進めるはずだ。攻略的には問題ないはず。
だが、あれほど良くしてもらったバロウには申し訳ない気持ちが残る。
バロウはきっと悔やむだろう。俺を一人で行動させてしまったこと、パーティへ誘えなかったこと。例え彼自身に責任がなかったとしても。
ただ、それでもあの男なら立ち上がって進んでくれるはずだ。
大人で、リーダシップがあって、どこまでも優しい。主人公みたいなあの男ならば。
気になるのはあの少女だが、この先バロウ達のパーティと一緒に行動すれば大丈夫なはずだ。できれば戦わずに済めばとも思うが、それは彼女次第であり、俺が関与することではない。
だから、俺はここで死んでしまっても、特に問題はない。
十分に仕事は果たしたと、そう言って良い。
そんなことを考えて。
───そんなことを考えながら、俺の体は全力で致死の一撃となる攻撃を回避した。
がり、と嫌な音。満身創痍の肢体を無理やり捻ることで、既に何本もいかれているだろう肋付近の骨が悲鳴をあげた。だが、その代わりに絶命だけは回避する。
そして、そのまま握り込んだ右手をドーヴァの左目に叩きつけた。
『ガァ!?』
目潰しをまともに食らったドーヴァは叫び声を上げて両腕を振り回す。体が引きちぎれるような痛みに歯を食いしばりながら、横っ飛びで回避する。
無意識だった。
頭と身体が分離しているかのような。身体だけ誰かに操られているかのような。
「……ああそうか」
死という結果を弾き出していた脳味噌とは異なり、身体はそれを受け入れていなかった。そして、おそらく心も。
「……あー…そうだ、まだだめだ、だめだ、だめ」
心に湧き上がった言葉がそのまま口に出る。それは果たして俺の言葉なのか。それとも心の奥底で叫んでいる別の誰かなのか。
わからないが、言葉は続く。
だめだ。何勝手に死のうとしているのか。別に死んだって良い。だが、まだだめだ。まだ許されない。
矛盾している思考がぐるぐると頭をかき乱す。熱にかかったように思考が纏まらない。ただただ本能が言葉を紡ぐ。
「……ごめん、ごめんなさい。大丈夫まだ戦える」
転がっていた両手剣を拾い、杖のようにして立ち上がる。
大丈夫。まだ、戦える。戦える、だから。
だから。
答えるものはいない。ただ立ち上がる。
***
俺は立ち上がると同時、メニュー画面を開く。そして、すぐさま取り出せるようにしていたあるアイテムを実体化させる。
もう出し惜しみしている暇はない。持っている手札を全力で叩きつける。
ドーヴァはそんな隙はないと言わんばかりに、怒りのまま飛びかかろうと前足に力を込め……しかし、接近することはなく全身の紋章から氷柱を射出する。先ほどまで怒りでつり上がっていた目つきは通常時に戻っていた。
また、さっきと同じ、気持ちの悪い冷静な瞳。
接近戦だとリスクが有ると判断して、このまま遠距離攻撃で削り殺すつもりだろう。
正しい判断だ。
この死に体では短期決戦を仕掛けるしかこちらの勝ち筋はない。具体的にはスティンガーやゲルドのとき同様、核がある部分を直接攻撃するしかない。それを防ぐにはそもそも接近を拒むのが、手っ取り早い。
しかも、今までこの遠距離攻撃はスピードで無理矢理避けるか、それとも別の個体を壁にして防ぐかしかしていない。前ほど速度を出せず、また、壁となる他の個体もいないこの状況では、最も厄介と断言できる。
だが、さっきまでと違い、今は一体のみ。そしてどうせ俺がまた逃げ回ると考えているのだろう。かなり攻撃範囲を広くし、俺の逃げ先がないように氷を波のように飛ばしている。
だから、無理矢理押し通ることにした。
走り回って避けるなんてことをしていたら、振り絞っている体力がすぐに尽きる。だから、強引にでも前に進む。
気を抜いたら今にも気絶しそうな意識の中で、痛みで散っている集中力をかき集める。両手剣をしまって、短刀のみ左手に装備する。
思い切り地面を蹴る。横ではない、前へ。
人の顔面ほどもあるだろう大きさの氷刃が迫りくる。
限界まで体を倒し、攻撃に触れる面を小さくする。
体の正中線。致命傷となりうる氷柱のみを切り捨て、その他は無視し、体をねじ込むようにさらに前へ。
『!?』
まさかの正面突破にドーヴァの目が大きく見開かれる。
氷柱の間を強引に突き進む。
既に指先の感覚は寒さで無くなっている。だがそんなことはもう知ったことではない。腕に神経が通っていて、刃を握れるならば後はもう些事だ。
文字通り捨て身の接近に、慌てて広げた攻撃範囲を絞るドーヴァ。射出口となる菱形の紋章を一気に体の前面に集め、攻撃を集中させる。
まるでレーザーかと見間違う密度の氷柱が地面を這う。防御は不可能。押し通るなんて以ての外。
だからここしかない。
俺は右手に握っていた拳大の緋色の欠片を思い切り投げる。狙いは前方斜め下、ドーヴァと俺のちょうど中間地点の地面。
それはこの真っ白な塔に相応しくない、およそ真逆と言っていいアイテム。
【火晶石】と呼ばれるアイテムだった。それも通常よりも特別大きなサイズのもの。
耳をつんざくような爆発音が白の空間に響き渡る。
『───!!』
主の体を丸ごと覆い隠すほどの紅の爆発。衝撃で氷柱が砕け、辺りに飛び散る。そして同時に辺りに埋まっていた大量の雪も。
獣の叫び声も轟音に阻まれて聞こえない。爆発音で耳がイカれたのを頭の隅で自覚しながら、雪煙の中へ勢いよく踏み込む。
立ち昇る白い霧と頭の中で響く音。視覚も聴覚も潰されながら、それでも前へ。
五感は潰れた。それはお互い様である。
ただ、目の前の獣はそれだけではない。致命傷を何度も回避した、その優れた感覚を以って俺の位置を割り出し、全身の紋章から氷柱を繰り出す。
だが俺はそのときには既に、地面を蹴っていた。両手剣を抜き、空中へ身を躍らせる。
何もない空間を蒼の弾丸が通り過ぎる。
氷柱攻撃は全身を廻る紋章のどこからでも射出できるとは言え、常に放出できるわけではない。出した後、一瞬だがためができる。
今しかない。
呼吸を止め、剣先を前に突き出したまま体を引き絞る。刺突の構え。刺すような痛みが全身を駆け回るが、歯を食いしばり、体幹を維持する。
既に体は限界。この一撃で決める。
全身全霊を込め、思い切り突きを繰り出す──そのとき、ゲルドと目が合った。
攻撃を空振り、無防備となっている狼の長は、焦ったように回避行動に移る……わけではなく、ただ口を大きく開けた。
そして、紋章からの攻撃ばかりで気を取られていたのではないかと。跳んだのは悪手だと。
そう豪語するかのように口から一際大きく、鋭い氷柱を射出した。
加速する時間の中で、顔面に蒼色の刃が迫り──
「おぼえてる」
──左手で抜いた短刀で受け流す。
最初に大きく傷をつけられた攻撃だ。忘れるはずもない。
首の横を通り抜けていく音を聞きながら、俺はそのまま短刀を投擲する。
投げられた短刀はドーヴァの左目に勢いよく突き刺さり、口から悲鳴を引き出した。
そして、その開いた口に、黒色の刃が突きささった。
『ガァァァァァァァァ!!!!!!!!』
落下の勢いもプラスされて剣は喉を刺し貫く。
決して短くはない刀身の七割ほどが体躯に埋まったその状態で、俺は思い切り柄を踏みつける。
梃子の原理に従い、両手剣は柄付近を支点に跳ね上がる。即ち、ドーヴァの体内を斬りながら、上へ。
「外が、かたいなら……中から、こわせば、いい」
足裏から響く絶叫と、細胞を引き裂く感覚。【大樹の黒剣】は打撃属性が主であるため、硬い肉の間を無理やりかき分けていく。
体が縦にぱっくりと割れる形となるドーヴァ。同じタイミングで、ガキン、と。硬い石のようなものを断つ音が聞こえた。
『ガァァァ……───ァ……』
その音が背中付近にある核の破壊だと気付いたと同時、主の絶叫が止まる。
一瞬の静寂。
そして、弾けるように灰色の体がぼろぼろと崩れ落ちていった。
***
「……おわっ、た」
灰となっていくドーヴァの姿を見ながら呟く。
否応なしに力が抜け、両手剣を取りこぼし、正面から崩れ落ちる。
体が白の大地に倒れこむと、真っ白な大地が血を啜るが、傷口に雪が沁みる感覚すらもなかった。
「かい、ふく」
しなければ。
ほとんど音として発声できていないまま、メニューから回復薬を取り出そうとふらふらと指を掲げる。
指だけでなく、寒さで狂った体のほとんどの感覚がなくなりかけている事実に頭のどこかが赤信号を灯す。だが、認識はしていても体は全身に重しを乗せられたかのようにゆっくりとしか動かない。
やっとの思いでアイテム欄から取り出したのは、小瓶に入っている透き通った緑色の液体。アイテム名はそのまま【回復薬】。経口摂取することで体力の回復を図ることのできるそれは、傷口に振りかけることで、止血ができる効果もある。
だが、指先が震えて栓を外すことができない。仕方がなく口でコルクを咥え、無理やり開けると一気にそれを頭から被った。
振りかけられた傷口に液体が染み込んでいくが、未だ感覚はない。
同じ要領で二本目も体に浴びせ、そして、三本目を口から流しこむ……が、思い切り嘔吐してしまう。あまりの疲労に胃が液体を受け付けない。
だが、飲まなければ最悪死ぬ。残りを無理やり逆流する胃液ごと流し込み、吐かないように口元を抑え、うつぶせに倒れこんだ。
湧き上がる気持ち悪さを無理やり堪え、そのまましばらく蹲ること数分。
回復薬のお陰か多少手足の感覚が戻ってきた。
「……今回は、さすがに、きつかった……な」
過去攻略した中でもトップクラスの難易度だった。複数体いるボスの一体だと高を括っていた。あれほど油断は良くないとバロウにも言ったはずなのに。自虐的な笑いが浮かびかけるが、切れた口元に鋭い痛みが走ったことで、すぐに引っ込む。もう体のどこの部位を動かすのにも苦痛が伴っていた。
バロウから……正確にはバロウ伝いにギルからだが、【火晶石】を貰っておいて良かった。あれがなかったら最後の攻撃を通すことはできなかったであろう。
帰ったらお礼を言わなければならない……その前に、この有様だと帰れるかすらも怪しいが……。そんなことを考え、ふと視線を上げる。
空を見ると、いつの間にか雪が降り始めていた。吹雪ではない。しんしんと、静かに降りてくる白。振り出したそれは激しい戦闘で所々露出している黒色の地面を覆っていく。
血みどろの自分もそれは同様で、赤く染まった肌に純白の化粧が施されていく。
それはまるで戦いを終えた体を労わるかのように。
または激戦を制した戦士を癒すかのように。
もしくは。
───もしくは、次の戦いへ備えろと神が人に宣告するかのように。
気付く。
赤色の鎖が、まだ空を漂ったまま、まったく緩んでなどいないことに。
「こんにちは」
雪とともに静かな声が降り注いだ。
響くのは鈴のように軽くて繊細な女性の声。それは平常時に聞いたら天使の声のようにも感じるかもしれない。ただ、今このときは、悪魔の囁きにしか聞こえなかった。
さくさくと雪を踏みしめる足音。その足取りはまるで自分の家の庭のように軽やかだった。
「もう大丈夫そう?待ってあげたんだから少しは感謝してよね」
台詞だけ聞けば勝気な印象を受けるが、その響きに紐づく神々しさがそんな印象を持つことを許さなかった。
声の主は続ける。
「そういえば最後の魔法は何?鎖とはまた違ったようだけど…」
未知のものを目にして、軽やかに、楽しそうに笑う。
俺は、その瞬間に到来したあらゆる感情を飲み込んで、倒れた状態のまま目線を持ち上げた。
初めに見えたのは大きな帽子であった。
闇色のつばの広い三角帽子。創作物でよく魔女が被っているようなそのとんがり帽子には、所々藍色の装飾品が埋め込まれている。身を包むのは同じく黒色のローブ。過度な装飾がないながらも、どこか神秘的な雰囲気を漂わせる布地の全面には、同じく藍のリボンが結ばれる。
そしてこちらを見下ろすのは同色の深い藍色の瞳。人間とは思えないほど整っている顔の中にあるそれは、まるで得物を前にした肉食動物のように輝いていた。
魔女、という言葉がしっくりくるだろう、その存在は、這いつくばったままの俺を見て、その端正な顔を軽やかに歪ませる。
掲げられるのは、黒色のアイコン。記されるその名は───
《深雪の主》。
「まあなんでもいっか───遊んであげる」
魔女の形をした絶望は、そう言って猫のように笑った。
手に持った蒼色の宝石がはめ込まれた杖をくるりと回して。
───この塔のクリア条件は【全ての主の撃破】。
────倒すべき主の数は、明記されていない。




