第46話 白雪姫のホワイトバーグ
カランカランー……。
オレンジ色と群青色の空が溶け合う頃、《りんごの木》のドアベルが鳴り響いた。
「おかえりなさい」
「ただいま……りんごおじさん」
私が気まずそうに答えると、りんごおじさんは柔らかく顔をほころばせて、壁際の2人席の椅子を静かに引いた。
「ましろさん。一緒にご飯を食べませんか?」
「うん……!」
りんごおじさんはいったんキッチンに入り、しばらくするとトレイを持って戻ってきた。食欲をそそるチーズとお肉の香りがふわりと店全体に漂い、私の目はトレイの上の黒い鉄板に釘付けになった。
楕円形の鉄板にのっているのは、雪のように白いソースをまとったハンバーグ。付け合わせは、色鮮やかなニンジンのグラッセと、緑がきれいなインゲンと太めのフライドポテト。どれも熱々で、ジュウジュウという音すら空腹を刺激してくる。
「初めて見た。こんなメニュー、なかったよね?」
「【白雪姫のホワイトバーグ】です。我が家のお姫様のための、特別メニューですよ」
「ふふっ。誰のことだろ?」
私はテーブルに料理やカトラリーを並べるのを手伝い、りんごおじさんが席に着くのを待ってから、両手を「いただきます」と静かに合わせた。
銀色のナイフをハンバーグに差し入れると、じゅわりと肉汁が鉄板に溢れ出た。もったいないので、急いで小さく切って、口に入れた。すると、さらにたっぷりの肉汁と濃厚なチーズクリームソースが口の中で混ざり合って、思わず言葉にならない声が漏れ出た。
噛めば噛むほど、口の中が幸せになる。その幸せはお腹に滑り落ちていき、体全体にじわんわりと広がっていく。
「美味しい……」
そんな言葉だけでは足りないのは分かっていたけれど、それ以上に相応しい言葉が見つからない。料理をほめる言葉も、りんごおじさんへの感謝の言葉も、ただひたすら「美味しい」という言葉に溶かしていく。
「ましろさん」
ふと、りんごおじさんが口を開いた。
正面に座るりんごおじさんは食事の手を止めて、大切そうに、愛おしそうに私を見つめていた。
「僕は、誰もが笑顔になれる料理を作りたかった。だから、心が弱った人を木影に入れてあげられるような、疲れた人を雨宿りさせてあげられるような、お腹が空いた人に実を分けてあげられるような……、そんなお店――《りんごの木》を始めました。でも、僕自身は、そんなお店温かなを目指すと言いながら、実は家族と距離を置いてきた人間なんです」
静かに語るりんごおじさんの顔を、私は黙って見つめ返す。「そうだったの?」と口では尋ねたけれど、少しだけ思い当たる節はあった。
りんごおじさんが、おばあちゃんからコロッケのレシピを教わろうとしなかったこと。おじいちゃんが《りんごの木》に招かれて驚いていたこと。親の2人との微妙な距離感。これまでろくに連絡を取っていなかったこと。親族の集まりでも、昔からりんごおじさんの話題は、まったくと言っていいほど出てきたことがなかった。
「僕の本当の親は、ましろさんのおじいちゃんとおばあちゃんではないんです。おばあちゃんの妹が母親で……、父親はどこの誰だか分からなくて……。そして一人で僕を産んだ母親は、体が弱く、その日に亡くなってしまったそうです」
「え……」
「驚きでしょう? そんな僕をましろさんのおじいちゃんとおばあちゃんが引き取って、育ててくれたんです。なかなかできることではありません。本当に尊敬のできる人たちです。でも僕は……、自分が2人の子どもではないと知ってから、家にいることが苦しくなってしまったんです……」
りんごおじさんはメガネの奥の瞳を潤ませていた。
「父と母は嫌々僕を世話してきたんじゃないか……。姉さんだけが得るはずだったものを、僕が奪ってしまったんじゃないか……。そんなことを考えたら、自分が家族に不要な異物のように感じられて。逃げるように遠くの高校を受験して、学費を貯めて、もっと遠い専門学校に行って……。その後は料理修行でフランスへ。日本に戻っても連絡をほとんどせず、家族から逃げてばかりでした」
「りんごおじさん……」
「がっかりしましたか……? 僕はかっこ悪い大人なんです」
私はふるふると顔を横に振った。
私には、りんごおじさんの抱えてきた気持ちを全部理解することはできない。その気持ちは、りんごおじさんだけのものだから。
けれど、りんごおじさんをかっこ悪いなんて思わない。逃げることが悪いとも思わなかった。
「りんごおじさんは今、ちゃんと家族として、家族と向き合ってるもん。おじいちゃんとおばあちゃん、結婚式をすっごく喜んでた。お料理だって、『美味しい美味しい』って言って食べてたよ。またお店に行くねって、言ってたよ」
「それはましろさんのおかげです。ましろさんがいたから、僕は頑張れたんです」
「私?」
りんごおじさんは「えぇ」と頷いた。
「はじめ、僕があなたを引き取ったのは、自分と境遇が似ていると思ったから……。実の親を亡くして、ひとりぼっちになる寂しさを埋めてあげたいと思ったから……。ですが、逆に心の穴を埋めてもらったのは僕の方でした。勢いで『一緒にご飯を食べましょう』と言った僕を、ましろさんは受け入れてくれました。毎日ご飯を食べて、笑ってくれました。父と母に歩み寄る勇気をくれて、さらには愛情にも気づかせてくれました。無邪気に懐いてくれるあなたの存在が、血が繋がっていなくてもかけがえのない関係になれることを証明してくれたんです」
トクトクと胸にあたたかいものが流れていく。りんごおじさんの言葉がじんわりと全身に広がっていくような感覚がした。
「でも、もし本当にましろさんが、美鏡さん――お父さんの元へ行きたいのなら、止めません。彼は間違いなく、あなたのお父さんですから」
りんごおじさんの寂しそうな顔は、数時間前までの私とそっくりだった。相手の幸せを願うからこそ苦しい、そんな顔だ。
けれど、私はもう分かっていた。自分の気持ちと答えを──。
「初めて会った日、りんごおじさん言ってたよね。私と『家族』になるって。私、その日からずっとその意味を考えてたんだ。テイギっていうの? それが分からなくて。今でもうまくは言えないんだけど、もうとっくにりんごおじさんは私にとっての『家族』だよ。誰が何と言ってもそう! ……だからね……もっと一緒にいたい……! どこにも行きたくない……!」
父親でも娘でもない。おじさんと姪っ子。
だけど、いちばんの『家族』。それがりんごおじさんと私。
「いつか、りんごおじさんに奥さんや子どもができても……、その時も、私と『家族』でいてくれる?」
「もちろんですよ」
りんごおじさんは椅子から立ち上がると、私を背中からぎゅっと抱きしめてくれた。赤色のエプロンから、ハンバーグの香りがほんのりとする。とてもあたたかくて、幸せな気持ちになった。
「ありがとう。りんごおじさん」
大好きだよ。
ホロリと、勝手に涙が流れ出た。
安心して、嬉しくて、美味しくて、泣けてきた。
「ましろさん、泣かないで」
「えへへ。アリス君にデコピンされたのが痛くて、泣けてきちゃったよ」
大袈裟におでこをさすってみせると、りんごおじさんは「赤くなってますね」と、目頭を押さえて微笑んだ。




