第43話 お父さんとホットケーキ
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「好きなものを頼んで」
「うん。ありがと……」
気まずい空気など気にならない様子で、お父さんは分厚いメニュー表を私の目の前に滑らせた。
私はお父さんに「少し話そう」と言われ、駅の近くにあるホテル内のカフェに来ていた。
結婚式もできてしまうくらい大きくて立派なホテルで、もちろんカフェもホテルに相応しい豪華で上品な場所だった。
天井にはキラキラしたシャンデリアがぶら下がっていて、とてもまぶしい。真っ白のテーブルクロスの縁には、金色の刺繍がほどこされているし、深紅の色のソファはふかふかすぎて、むしろ落ち着かない。
メニュー表も見るからに格式高い。食べ物の写真やイラストはもちろんなくて、小さい日本語と英語ばかりが連なっている。分かるのは値段がとても高いことくらい。
「りんごジュースが飲みたい……です」
「それだけか?」
りんごジュースだって、《りんごの木》の3倍くらいの金額だ。
私が遠慮がちに希望を伝えると、お父さんは顔をしかめたまま、近くにいた店員さんを手招きした。
「ブレンドコーヒー。名物のミックスジュースとホットケーキをこの子に」
「えっ」
私がお願いしたメニューじゃない。目を丸くして顔を上げると、お父さんは「子どもが遠慮するんじゃない」と淡々と言いながら、お水のグラスを傾けた。
私は何も言えなくて、黙って自分もお水を飲んだ。
「……お母さんのこと……残念だったな」
頼んできたものが運ばれてきた後、唐突にお父さんは切り出した。
お父さんはお母さんのお葬式にはいなかった。多分、おじいちゃんとおばあちゃんが呼ばなかったのだろう。連絡先を知らなかったからか、そもそも呼ぶ必要がないと思ったからかもしれない。
お父さんは、お母さんと共通の友人からお葬式の話を聞かされたのだと言った。
「つらかったな、ましろ」
「うん……」
私の小さな返事は、ホットケーキの湯気に吸い込まれていく。
二段重ねのふっくらとしたホットケーキの上には、四角いバターとたっぷりのはちみつがかかっていた。ミックスジュースはたくさんの果物とミルクが混ざっているらしく、太いストローが刺さっている。
美味しそうだけれど、なかなか手が伸びない。なんだか食欲が湧かなかった。
「悲しい時、そばにいてやれなくてすまなかった」
「……いなかったのは、悲しい時だけじゃないじゃん」
「……そうだな。お父さんは、ずっといなかった」
お父さんはコーヒーをひと口だけ飲むと、そっとお皿の上に戻した。
「ましろ」
改まった口調に私はまた少し緊張した。
正面からお父さんを見つめると、昔のガラス玉みたいな目はしていなかった。昔とは違う、キリリと光る黒い宝石みたいな目が、私をじっと見据えていた。
「お父さんと暮らさないか?」
よく響く声が、耳の中でコダマした。
「お父さんと、暮らす?」
少しも想像していなかった言葉に心底戸惑った。思わずきょろきょろしてしまうけれど、誰かが代わりに答えてくれることはない。お父さんは黙って私の答えを待っていた。
「……どうして?」
やっと絞り出した言葉には、言い切れないたくさんの意味が含まれていた。
自由になりたがっていたのに。
自分から出て行ったのに。
今まで連絡もしてこなかったのに。
私はひとりぼっちじゃないのに。
どうして?
お父さんは私に名刺を手渡してきた。角がピンと尖った白い紙に縦書きで漢字が連なっている。読めない字がいくつかあったけれど、お父さんの話と合わせて理解できた。
「五年前にやっと弁護士になれたんだ。あの時は心に余裕がなくて、ましろたちと別れることを選んだが……今は違う。今なら、きちんとましろと向き合える」
名刺を見下ろして、情報を噛み締める。
そうだったんだ、という発見が胸の奥に下りてきて、何度も咀嚼する。だからといって、それが納得の味がするわけではなかったけれど。
「私と向き合うって、どういうこと?」
「養ってやれる。もう、肩身の狭い思いはしなくていいんだ」
お父さんの具体的な言葉に、私は目を剥いた。けれど、お父さんは気が付かない。
「ましろは凛悟君の世話になっているだろう? レストランにいるところも見たよ。住まわせてもらうのが申し訳なくて、手伝いをしているんだろう? まだ小学生なのに、遊びや習い事もできないなんて……可哀想に」
「可哀想じゃないよ!」
つい、大きな声が出てしまった。
カフェで優雅にお茶をしていたお客さんたちの視線が集まって、お父さんは慌てていた。
「こら、ましろ。静かにしないと――」
「私は自分からお手伝いしてるの! りんごおじさんと一緒にいたいからだよ。だから可哀想なんかじゃない!」
私が勢いよく立ち上がると、テーブルの上のミックスジュースの液面が揺れた。お父さんが良かれと思って頼んでくれたそれは、私が飲みたいものではなかった。私は昔から、りんごジュースが一番好きだった。
「りんごおじさんは優しいんだ! 一緒にご飯を食べようって、言ったくれた! 忙しくても、学校行事に絶対に来てくれる! 料理だって教えてくれる。話だって真剣に聞いてくれる。怒る時もあるけど、突き放したり逃げたりしない!」
「…………そうかもしれない。だが――」
お父さんは「ふーッ」と長いため息を吐き出した。そして、重たそうに唇を動かす。
「凛悟君は『叔父』だ。いつまでも『姪』のお前といてくれるのか? 彼はまだ若い。そのうち、奥さんや子どもだってできるかもしれない。その時、ましろはどうするんだ?」
「……っ」
グサリと刃物が胸に刺さったような心地がした。暴かれた、という気もした。
私がりんごおじさんと小折シェフの関係が気になって仕方がなかった、その興味の底にあったもの――それは、私の居場所がなくなるのではないかという不安だった。今まで考えないようにしていたことだった。
小折シェフと笑い合うりんごおじさんの姿が浮かび、頭がガンガンと痛くなる。2人の間に私は入れない。入るべきじゃない。
「ましろだって嫌だろう? 凛悟君の自由を奪うのは」
「私が……自由を、奪う? イヤだ……そんなのイヤだよ……!」
私がいるせいで、りんごおじさんのやりたいことができなかったり、いたい人と一緒にいられなかったら――。
優しいりんごおじさんは、きっと文句も愚痴も言わない。だからといって、そのことが私がりんごおじさんに不自由を強いていい理由にはならない。そんなこと、私自身が耐えられない。
「あれ……」
視界が歪んで見えた。お父さんの顔がぐにゃぐにゃに曲がっていて、どんな表情をしているのかが分からない。頭痛だけじゃなくて、涙で前がよく見えなくなっていた。
私はがくんっと足の力が抜けてしまって、ソファに体を深く沈み込ませた。このまま底なし沼みたいに果てしなく沈んでいきそうな気持だった。
「お父さんのところに来るといい。父と娘なんだから」
「…………」
「送ろうか?」
「……大丈夫。ひとりで帰れる」
「そうか……。お父さんはしばらくこのホテルにいる。決心したら、連絡をくれ」
お父さんは、黙って俯く私の頭をなでようとして手を伸ばしたけれど、そっと腕ごと引っ込めた。代わりに会計伝票を持って立ち上がり、先にカフェを出て行った。
お父さんの後ろ姿が見えなくなってから、私はのろのろとナイフとフォークに手を伸ばした。すっかり冷めてしまっていて、しょんぼりとしたホットケーキだ。量も多くて一人では食べ切れそうにない。
(一緒に食べてくれたらよかったのに)
私は甘過ぎるミックスジュースでホットケーキを胃に流しこみながら、手の甲で涙をぐいと拭った。




