第35話 おばあちゃんの家出①
「あ~、疲れた。凛悟の店、なかなか見つからないんだもの。店の立地、悪いんじゃないの?」
おばあちゃんは4人掛けの席に座ると、深々とため息を吐き出した。
私がよく冷えたアイスコーヒーを差し出すと、おばあちゃんは美味しそうにごくごくとそれを飲み干した。
「おばあちゃん、《りんごの木》に来るの初めてなの?」
「そうだね。凛悟ってば、全然連絡をくれないんだもの」
「そうなんだ」
チラリとりんごおじさんを見上げると、本人は珍しく目を魚のように泳がせていた。私のお母さんには年に数回電話をしていたと教えてくれたけれど、おじいちゃんとおばあちゃんに対しては違っていたらしい。息子と親、弟と姉とでは、事情が異なるのだろうか。
「母さん、そんなことよりも家出について話してください。僕のところに来るなんて、相当ですよね?」
「まったく。アンタはせっかちね」
「……父さんと何かありましたか?」
りんごおじさんは困った顔で、おばあちゃんの正面に座っている。私はどっちの隣に座ろうか迷ったけれど、結局りんごおじさん側の椅子に控えめに腰かけた。
おばあちゃんは、改まった様子で口を開く。
「おじいちゃんは、やってはいけないことをしたの。それはもう、許せないことをね」
「えっ! もしかして浮気? 犯罪?」
お店の空気が緊張する。私とりんごおじさんがごくりと唾を飲み込むと、おばあちゃんはグッと言葉をためて言った。
「結婚記念日を忘れたのよ!」
おばあちゃんはダンッとテーブルを叩いたけれど、正直「なぁんだ」と思ってしまった。
(おじいちゃんが、罪を犯していなくてよかった……)
「父さんが犯罪を犯していなくてよかったです」
「凛悟! アンタねぇ! 結婚記念日がどれだけ大切か分かってないからそんなことを!!!!!」
「あ……はい、すみません!」
(ひえっ)
言わなくてよかった。りんごおじさん、生贄にしちゃってごめんねと、私は身を縮こませた。
おばあちゃんは真っ赤になって怒っている。いつもは穏やかなおばあちゃんがこんなに腹を立てているところは初めてみた。
「貧乏でお式ができなかった私にとっては、結婚記念日ってのは、ものすごく重要なんだよ! 毎年、ささやかでもいいから祝ってきたの。それなのにあの人ときたら!」
「そうでした。母さんは、結婚記念日をとても大切にしてたんでした」
多分、昔からそうだったのだろう。息子のりんごおじさんは、鮮明に思い出したという顔をして、必死にコクコクと頷いている。
「父さん、忘れていたんですね」
「そうなの! 私が今夜は久々の外食かしら? なん浮かれていたら、『晩飯は簡単なものでいい。トンカツとか』って言うのよ! トンカツは楽じゃないのよ! そこも許せない! そう言ったら、『じゃあコロッケ』って。ますます大変じゃないの!」
「それは心中お察しします……」
「私も分かるよ、おばあちゃん」
私も加勢して、おばあちゃんを2人がかりでなだめる。
しばらくすると、おばあちゃんは少し落ち着いたのか、お茶請けのミニアイスを「溶けちゃいけないから」と言いながら食べ始めた。いいクールダウンになったのか、おばあちゃんのしかめっ面はいつもの柔らかさを取り戻していく。
「だから私ね、家を飛び出してきたの。おじいちゃん、トンカツもコロッケも自分で作ってみたらいいのよ。というわけで、凛悟、ましろ。しばらく厄介になるわね」
「えっ」
というわけで、と言われても。
当然のように世話になる気満々のおばあちゃんに、私とりんごおじさんは顔を見合わせた。
おじいちゃんがものすごく困ることは、目に見えていた。
おじいちゃんはご飯作りや掃除や洗濯なんかの家事が、大の苦手だった。ずっと外で働いてきた人だから、家のことはおばあちゃんに任せきりだったのだ。となれば、きっとおじいちゃんの負うダメージはとても大きい。
「おじいちゃん、大丈夫かな」
「知ったこっちゃないわよ。さぁ、ましろ~、遊びに行きましょう! 夏休みでしょう?」
わーい! と、手放しでは喜べない状況だけれど、ここはおばあちゃんと出かけるのが良さそうだ。チラリとりんごおじさんを見ると、目で「お願いします」と告げていた。
「よし、行こう! おばあちゃん!」
***
私とおばあちゃんは駅前のショッピングモールに行き、雑貨屋さんや本屋さん、服屋さんなどを回った。おばあちゃんはたくさん私を甘やかしてくれて、トートバッグは買ってもらったものでパンパンになった。いろんな場所に足を運んで私はくたくたに疲れたけれど、おばあちゃんは「まだまだ行くよ!」と元気いっぱいだ。
「やっぱり、町にはハイカラな所がたくさんあって楽しいわね~!」
「ハイカラって、どういう意味?」
「目新しくって流行ってる、みたいな意味よ。畑ばっかりの田舎とは違うわ~」
おばあちゃんの右手には買ったばかりの服の入った紙袋、左手にはカフェでテイクアウトしたコーヒー味のフラペチーノ。そして背中のリュックは、田舎のお友達へのお土産で膨れ上がっている。控えめに言っても、かなりはしゃいでいる。
「お土産買ったってことは、明日には帰るの?」
「何言ってるのよ! おじいちゃんが謝るまで帰らないわよ。お土産は日持ちをする物を選んだけど、いざとなれば宅急便で送るつもりよ」
「そ、そうなんだ」
(うわぁ! おばあちゃん本気だ)
おばあちゃんが一度決めたことを曲げない性格であることは、お母さんから聞いたことがあった。どんな時でも朝の5時に起きて散歩に行くし、ダイエットのおやつ断ちも成功。ピクニックは雨天決行だったと。
この様子だと、おじいちゃんが謝らないと帰ることはなさそうだ。
「おじいちゃんは、謝ってくれなかったの?」
ましろがケンカになった時のことをたずねると、おばあちゃんはちょっと寂しそうな顔をした。
「謝るどころか、『いまさら結婚した日を祝って意味があるのか』って。本当に結婚した日は、お祝いすらできなかったのに」
「おじいちゃんめ! 記念日は大事なのにね」
「そう。そうなんだよ……」
おばあちゃんの切なげな視線の先は、貸衣装屋さんだった。ショーウィンドウの向こうにウェディングドレスを着たマネキンが立っていて、私は「きれいだね」とつぶやいた。
純白のドレスはガラスに差し込む太陽の光で、いっそうキラキラと輝いて見えた。
もし自分が着るなら、どんなものがいいだろう。そう考えるだけで楽しくなった。
「気になるの?」
「うん! ウェディングドレスっていいよね。あ、白無垢ももちろん素敵だけど。おばあちゃんはどっちが好き?」
「こんなおばあさんにドレスか着物だなんて、聞いても意味ないわよ」
何の気なしの質問だったけれど、おばあちゃんの顔が曇ったのが分かった。
「若い時なら、こんなきれいなドレスを着てみたかったけどねぇ……」
「じゃあ、ドレス派?」
「だから、私はいいの。ましろがウェディングドレスを着る日を楽しみに待っているわ。素敵な花嫁さんになるのよ」
そして、おばあちゃんは私の手を取って再び歩き始めた。
「さぁさぁ! 次は、スーパーに行きましょう! 晩ごはんはおばあちゃんに任せなさい!」
「やったー! じゃあ、カラアゲが食べたい!」
私は元気な声でそう言ってから、小さくショーウィンドウを振り返った。
おばあちゃんの本音が垣間見えて、胸の奥が痛い気がした。




