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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第三部 故郷での再出発
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第六十章 受け継がれる記憶

その日は、珍しく家族全員が集まっていた。


いつもなら、食卓には食事の声や笑い声が満ちている。


けれど、その夜は違った。誰もがどこか落ち着かず、箸を持つ手を止めては、互いの顔色をうかがっていた。


清子が、みんなに話したいことがあると言ったからだった。



「お母さんね。」


清子は、ゆっくりと口を開いた。


声は静かだったが、その奥には長い年月を抱えてきた重みがあった。膝の上で重ねた手が、わずかに震えている。


「今まで、あまり昔の話をしてこなかったね。」


子どもたちは黙って母を見つめた。


静香は、清子の横顔に目を落とした。いつもと変わらない穏やかな表情なのに、その奥には、簡単には触れられない痛みが隠れている気がした。


清子は、戦争の話を避けてきた。


子どもたちに、自分と同じ苦しみを背負わせたくなかったからだ。思い出すたびに胸が締めつけられ、夜中に目を覚ますこともあった。それでも、食卓では笑い、何事もなかったように日々をつないできた。


けれど、孫たちが成長した今なら、伝えられる気がした。


伝えなければならないと思った。



「私はね、日本で生まれて、日本人として満州へ行った。」


清子は、一つひとつ言葉を選ぶように話し始めた。


孫たちは息をひそめるようにして聞いていた。誰も茶碗を持ち上げない。部屋の中には、清子の声だけが静かに落ちていく。


「でも、戦争が終わった時、私の人生は大きく変わった。」


その瞬間、清子のまぶたがかすかに揺れた。


故郷へ帰れないこと。


日本人としても、中国人としても、完全には受け入れられないこと。


行き場のない孤独の中で、食べるものにも困り、明日をどう生きるかさえ分からない日々があった。


それでも清子は、幼い子どもたちの顔を思い浮かべてきた。泣きたい気持ちを飲み込み、ただ前へ進むしかなかったあの頃の自分を、今もはっきり覚えていた。



静香は、母の横顔を見つめていた。


自分が知っている母は、いつも強い人だった。


どんな困難があっても、少し眉を寄せるだけで、すぐに台所へ立ち、家族のために手を動かしていた。


けれど、その強さの裏に、こんなにも深い痛みがあったことを、静香は知らなかった。


胸の奥がじんと熱くなる。母がどれほどの思いを飲み込みながら、自分たちを育ててくれたのかを思うと、言葉が出てこなかった。


「お母さん……。」


静香が小さく呟いた。


清子はその声に気づき、静かに微笑んだ。


「大丈夫だよ。」


娘の目が潤んでいるのを見て、清子の胸にも温かなものが広がった。


「今はもう、辛い思い出だけじゃないから。」



清子は続けた。


「一番辛かったのはね、自分が苦しいことじゃなかった。」


少し間を置いてから、まっすぐに言った。


「あなたたちを守れるか分からなかったことだった。」


その言葉に、一新は目を伏せた。


新潔も、正恵も、静香も、みな同じ思いだった。


母が自分たちのために、どれほど無理をしてきたのか。


夜遅くまで働いた手。


疲れていても笑ってくれた顔。


自分たちが不安を見せれば、先に安心させようとしてくれた背中。


その一つひとつが、今になって胸に迫ってくる。



「貧しくても。」


「周りから何を言われても。」


「母親だけは、子どもの味方でいなきゃいけないと思った。」


清子の声には、ただの決意ではなく、何度も自分に言い聞かせてきた祈りのような響きがあった。


静香は、ふと幼い頃の記憶を思い出した。泣きそうになった自分の手を、清子が何も言わずに包んでくれたこと。あの温もりが、どれほど自分を支えていたのか、今なら分かる。


その強さは、静香にも正恵にも受け継がれていた。


どれだけ傷ついても、子どもを守る。


その覚悟が、母から娘へ、静かに渡されていた。



幸江が、そっと尋ねた。


「おばあちゃん。怖くなかったの?」


小さな声だったが、部屋の空気をやわらかく揺らした。


清子は少し考えた。


その間、孫たちはみな、清子の口元や目元をじっと見つめていた。強い人だと思っていた祖母が、どんなふうに答えるのか、誰もが息を止めて待っていた。


「怖かったよ。」


意外な答えに、孫たちは目を見開いた。


見栄は思わず目を丸くし、あずさは膝の上で指をぎゅっと握った。


「ずっと怖かった。」


清子は、少しだけ笑った。その笑みには、若い頃の自分を思い出すような切なさと、怖さを知っているからこそのやさしさがあった。


「でもね、怖くても、守りたいものがあると人は強くなれるんだよ。」



その言葉は、それぞれの胸に深く残った。


静香は、自分の人生を思い返した。


身体のことで悩んだ日々。


来真に裏切られた日。


胸の奥が冷たくなり、何も信じられなくなった夜もあった。


それでも幸江を守ってきた。


泣きたい時ほど背筋を伸ばし、子どもの前では笑おうとした。


それは、母から受け継いだ強さだった。


静香はそっと唇を結んだ。自分もまた、清子に守られてきたのだと、今さらのように思い知った。



一新もまた、黙って考えていた。


自分も父親になった。


子どもを守る責任がある。


父から受けた傷を、そのまま次の世代へ渡してはいけない。


自分の代で終わらせる。


そう、強く決めた。


一新は、膝の上で握った拳に力を込めた。過去を変えることはできなくても、これからの家族の時間は、自分の手で守れるはずだと思った。



新潔は、見えなくなっていく未来への不安を抱えていた。


けれど、母の話を聞いて思った。


清子は、何も持っていなかった。


それでも家族を守った。


ならば、自分にもできることがある。


見えなくなっても、愛することはできる。


新潔は胸の奥で、その言葉を何度も繰り返した。見えないからこそ、声を聞き、手のぬくもりを覚え、心でつながることができる。そう思うと、暗い不安の中に、かすかな光が差した気がした。



正恵は、瑞希の傷を見つめた。


自分の娘にも、苦しい経験をさせてしまった。


そのことを思うたび、胸の奥が痛んだ。何度も「ごめんね」と言いたくなったが、言葉にすれば済むものではないことも分かっていた。


でも、これからは違う。


過去を隠すのではなく、傷と共に生きる強さを教えていく。


正恵はそっと瑞希の肩に手を置いた。瑞希もまた、その手の温かさに小さく息をついた。



食事の後、孫たちは清子のそばに集まった。


誰からともなく、自然に輪ができた。幸江は清子の袖をそっとつまみ、依子は少し照れたように笑い、ヒカルは真剣な顔で祖母を見上げていた。


「おばあちゃん。」


「話してくれてありがとう。」


その言葉に、清子は目を細めた。


長いあいだ胸の奥にしまっていたものが、ようやくやさしく受け止められた気がした。


「聞いてくれてありがとう。」


清子はそう言って、ひとりひとりの顔を見た。孫たちの表情には、驚きも、切なさも、そして確かな敬意もあった。そのすべてが、清子には何よりうれしかった。



夜。


清子は一人、窓の外を眺めていた。


満州を離れた日のこと。


日本へ帰ることを夢見た日。


子どもたちを抱きしめた日。


すべてが昨日のことのようだった。


窓ガラスに映る自分の顔は、あの頃よりずっと年を重ねていた。それでも、胸の奥にある記憶だけは色あせていない。苦しみも、悲しみも、喜びも、すべてが今の自分をつくっているのだと思えた。



人生には、消えない傷がある。


忘れられない悲しみもある。


けれど、それだけではない。


傷があったから、人の痛みが分かる。


苦しかったから、優しくなれる。


失ったものがあったから、今ある幸せに気づける。


清子は静かに息をついた。胸の奥に沈んでいた重いものが、少しずつやわらいでいくのを感じていた。



清子は静かに呟いた。


「私の人生は、悪いことばかりじゃなかった。」


その声は、夜の静けさに溶けるようにやわらかかった。


「だって、こんなに大切な家族がいるから。」


その言葉を口にした瞬間、清子の目にうっすらと涙がにじんだ。けれど、それは悲しみだけの涙ではなかった。ここまで生きてきたことへの感謝と、守り抜いた命への誇りが、静かにあふれていた。



満州で残された小さな命は。


長い年月をかけて、大きな家族になった。


そして、その記憶は次の世代へ受け継がれていく。


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