一杯の粥
牡丹さんが去ると、部屋は再び暗闇と静寂に包まれた。
スマホの灯りを頼りに寝床に潜り込む。
畳に直接横になるのと変わらない硬い感触だ。
疲れてはいたが、慣れない寝床と混乱する意識に引きずられて、浅い眠りに落ちていった。
◇
朝になるまで幾度か目が覚めかけた。
誰かがトイレに行く足音や、扉を閉める音が聞こえるたびに意識が浮上する。
音が止み、再び静寂が訪れると、意識はまた沈んでいった。
それが夢なのか現実なのかも定かではないが、その繰り返しだったような気がする。
はっきりと目が覚めたのは、襖を叩く音が聞こえ、その直後に声がかかったときだった。
「おはようございます。吉田様、お目覚めでしょうか」
まるで耳元で囁かれたように感じ、俺は身震いして飛び起きた。
しかし、そんなことはなかった。
襖の向こうに人がいる気配がする。
「ええ、起きてます」
カラカラに乾いた喉から、かすれた声が出る。
「朝餉の用意ができております。広間までお越しくださいませ」
今度は牡丹さんの声が襖越しに聞こえる。
寝ぼけていたのだろう。
「すみません。食事の前に顔を洗ったり、口を濯いだりしたいのですが」
唾液を飲み込み、少しでも喉を湿らせてから話す。
「かしこまりました。庭の井戸にご案内しますね」
慌てて着替えようと立ち上がると、物音に気づいた牡丹さんから『庭に出るだけだから、そのままでいい』と声をかけられた。
待たせてしまっていることに気づき、急いで襖を開けた。
宿の入口の扉は開け放たれており、そこから朝の光が差し込んでいた。
俺は入口まで歩いて下駄に履き替え、牡丹さんに連れられて庭の井戸へ向かった。
◇
井戸は時代劇で見るような木桶を下ろして、綱を引き上げるタイプだ。
水桶から柄杓で水をすくい、まずは口を濯ぐ。
そして、立て続けに柄杓で三杯水を飲んだ。
(生き返る!)
こちらの世界に来て初めて口にする水は冷たかった。
(井戸水って冷たいんだな)
そんなことを考えながら残りの水で顔を洗った。
そこにすっと、横合いから生成りの手ぬぐいが差し出された。
灰汁と日なたの乾いた香りが残っている手ぬぐいで濡れた顔を拭く。
水に夢中になっていた俺を、彼女はじっと待っていてくれたのだ。
お礼を言って手ぬぐいを返す。
玄関に向かって歩を進める彼女の後ろを、昨日より少し距離を詰めて歩いた。
手ぬぐいの匂いを、昨晩のような甘い匂いで上書きできないかと思い、深く息を吸い込んだ。
しかし、感じられたのは、うっすらとした潮の香りと草木の匂いだけだった。
◇
広間の中央には囲炉裏があった。
囲炉裏を囲むように薄い藁座がいくつか置かれている。
俺はそのうちの一つにあぐらをかいて座った。
すると台所から牡丹さんが木盆を持ってやってきた。
膝をついて座り、俺の前に木盆を置く。
そこには木椀に注がれた粥と湯呑みに注がれた白湯が置かれていた。
「さあ、どうぞ召し上がってくださいませ」
「それじゃ、いただきます」
そう言って粥の椀を手に取り、木匙を持つ。
その時、背を向けた牡丹さんから小さく「ぐぅ」と音が聞こえた。
彼女は歩調を早めてそそくさと廊下に消えていった。
まじまじと粥を眺める。
米だけじゃなく何かの雑穀が混じっている。
米の粒が確認できるかどうかあやしい。
一匙すくって口に入れたが、塩気はほとんど感じられなかった。
米でとろみをつけた雑穀スープといった感じだ。
これがこの辺の普通の朝食なのだろうか?
これじゃ腹一杯にならないんじゃないか?
そこまで考えてはたと気づいた。
俺の分の食事を用意するために、水を増やして薄くしたのか?
いや、それなら彼女も同じ粥を食べているはずだ。
それに、いつもより薄いからといって食後すぐに腹の虫が鳴くだろうか。
単に彼女の食事がこれからということもあり得る。
ただ、どう見てもガスや電気があるようには見えない。
薪で煮炊きをしているとするならば、温め直すのも手間がかかるだろう。
普通は先に食事を済ませるよな。
いや、後で冷めた食事で済ませるかもしれない。
でも、もしかしたら自分の分を俺にくれたんじゃないか?
そう仮説を立てると、俺の勘がそれが正解だと囁いた。
もっとも、あまり勘の鋭い方ではないのだが。
いずれにしろ、一旦、状況を整理したほうが良さそうだ。
俺は少し冷めた粥を一気にかき込むと湯呑みの中身を飲み干し、
合掌して牡丹さんに聞こえるような声量で「ごちそうさま」と言った。
すると廊下から彼女が戻ってきた。
「お口に合いましたか」
探るように尋ねてきた。
「ええ、とても美味しかったです。ありがとうございます」
正直、薄味すぎて、ほとんど味はしなかった。
それでも、この粥は美味かった。
「あの、牡丹さん。この後時間ありますか。
少し自分なりに考えをまとめる時間が必要なんですけど。
その後、話をする時間をもらえませんか」
牡丹さんの目をまっすぐ見て言った。
彼女の瞳の中で感情が揺れていると思った。
いったいどんな感情なんだろう。
「わかりました。
私もこの後は片付けがありますので、その後でしたら構いません。
お部屋の木戸を開けておきましたから、縁側にも出られます。
後ほどお部屋にお伺いしますね」
そう言うと彼女は木盆を持って台所に消えていった。




