胸を張って泊まれるように
部屋に戻ると、障子越しに柔らかな光が差し込んでいた。
寝具は片付けられていて、俺の服は部屋の隅にきれいに畳まれて置かれていた。
障子を開けると縁側があり、気持ちの良い空間が広がっていた。
俺は縁側に座り、考え始めた。
今、考えるべきことを列挙してみる。
自分が置かれた状況。
元の世界に戻る方法。
牡丹さんやこの宿が置かれた状況。
昨日やってきた男が言っていたこと。
まずは、自分が置かれた状況について。
一瞬で知らない場所に転移した。
携帯の電波が圏外。
日本語が通じる。
古い時代、江戸時代以前のような生活様式だ。
持っているお金が使えない。
実質、一文無し。
タダで宿に泊めてもらった。
朝食までごちそうになった。
牡丹さんに出会った。
次に元の世界に戻る方法について。
可能性が最も高いのは、同じ場所で同じ状況を再現すること。
つまり、あの目印を残した岩場に戻り、夕暮れの時間帯に、海中に鈍い金色の光が見えたらルアーを落とし込む。
そしてロッドが引かれたら、その勢いに身を任せて飛び込む。
まずはこれを試してみるべきだと思う。
三つ目は、牡丹さんやこの宿が置かれた状況について。
宿には他の客がいない。
温泉宿なのに配管が壊れていて温泉が使えない。
牡丹さんには家族がいて、二階にいる。
その家族がどういった人たちなのか分からない。
食事にも余裕があるようには見えない。
経済的に困窮している可能性が高い。
最後に、考えたくもないが、昨晩やってきた男について。
先を越された?
お楽しみ?
また今度?
二度と来るな!
考えを整理したことで、自分がどうすべきなのか、少なくともどうしたいかは分かった。
庭をぼんやりと眺めながら、牡丹さんがやってくるのを待った。
◇
「吉田様。入ってもよろしいでしょうか」
牡丹さんの声で、思考の海に沈み込んでいた俺の意識がゆっくりと浮上した。
「ええ、どうぞ入ってください」
俺が立ち上がるのとほぼ同時に襖が開いた。
入ってきた牡丹さんを迎え、縁側へ視線を向ける。
「縁側、すごく気持ちのよい場所ですね。お話は縁側でいかがですか」
二人とも自然と庭に向かって座った。
庭の低木に一羽の小鳥が音もなく飛んできて、枝にとまった。
「牡丹さん、ありがとうございます」
あえて何をとは言わなかった。
言えば気持ちとズレてしまいそうな気がした。
具体的な何かではなく、昨日からの全部に「ありがとう」なんだと思う。
「それで、牡丹さんに聞きたいことがいくつかあるんです。
でもその前に、俺のことを話してもいいですか?」
左隣に座っている彼女に顔を向けて話を切り出した。
「よろしいのですか」
確認するように彼女も俺の方を見上げて口を開く。
俺は視線を庭に戻して話し始めた。
合わせるように彼女も庭へ視線を戻した。
「一度、確かめたいことがあるんです。
上手くいっても、いかなくても、すぐ戻って来られると思います。
でも、最悪の場合は戻って来られないかもしれません……
もし、戻って来れたら、その時はまた、この宿に泊めてもらえますか?」
低木にとまっていた小鳥が、今度も音を立てずに飛び去った。
「どうしてこの宿なのですか。
港まで降りていけば、そちらにも宿はございます。
そちらなら、まともな寝具も食事も用意できるはずです。
吉田様のような方が、お忍びでお泊りになるならそちらのほうが相応しいかと存じます。
私に義理立てしていただく必要はございませんよ」
感情を読み取りづらい平坦な声で、牡丹さんは淀みなく話した。
すごく牡丹さんらしいと思った。
思わず頬が緩みそうになる。
「そう言ってくれるからこそですよ。
居心地がいいんですよ。
だから、せめて胸を張って泊まれるようにしたいんです」
穏やかな日差しに助けられて、精一杯、明るく言った。
そこまで言ってから、改めて体ごと牡丹さんの方に向き直った。
「やっぱり、牡丹さんありがとう。
いろんなこと秘密にしているのに、何も聞かないでくれていて。
それと、ごめんなさい。
これから、不躾なことをいくつか尋ねます。
これまで俺の事情を深く聞かずにいてくれた牡丹さんには申し訳ないけど、教えてください。
たいしたことはできないかもしれないけど、力になりたいんです」
牡丹さんは庭のどこかを見つめながら、
じっと話を聞いていた。
そして、何も言わないまま、俺の方へ体を向けてくれた。
最初の質問は決めていた。
「食べ物の入手方法が知りたいです。
どこで、何を買っているのか。
海や山で採取できるものがあるのか。
そういったことを教えてくれませんか」
牡丹さんは少し意外そうな顔をした。
だが質問の意図を理解すると、丁寧に教えてくれた。
米や雑穀は港街の米屋から購入している。
塩は塩問屋で買うが、味噌は自家製らしい。
野菜は週に一度の朝市で農民が売りに来るものを利用している。
魚は以前なら旦那さんが持ち帰っていたらしい。
「主人が亡くなってからは、なかなか口に入らなくなりましたね」
そう言った牡丹さんは少しだけ寂しそうだった。
今は知り合いの漁師が時折分けてくれる程度。
山菜も採れるらしいが、詳しい者が必要で、牡丹さん自身は山に入ったことはほとんどないそうだ。
ここまでは穏やかな表情で丁寧に教えてくれた。
でも、次の質問で牡丹さんの表情が引きつった。
「それで、食料の備蓄はどれくらいあるんですか」
「……お米は今朝の分で最後です。
雑穀は切り詰めて七日くらいです。
あとはお味噌くらいですね」
長い沈黙のあと、消え入りそうな声で答えてくれた。




