小さな贈り物
たどり着いた先では、小道に沿って延びる土管が、途中で壊れていた。
その切り口からお湯が溢れ出ている。
流れ出たお湯から湯気が立ち上り、周囲をほんのりと白く染めていた。
牡丹さんは前掛けが濡れないようにたくし上げると、土管から少し離れた湯溜まりにしゃがみ込み、そっと手を湯につけた。
「ちょうどよい塩梅ですね」
少し寂しそうな表情が、周囲の暗さをいっそう際立たせていた。
立ち上がった牡丹さんに俺は尋ねた。
「ここはどういった場所なのですか」
「ここから少し先に源泉があって、そこからこの土管で宿まで温泉を引いていたんです。
それが突然、宿のお湯が出なくなって、調べに来てみれば、この有り様です」
淡々と話すことで、かえってそこに怒りや悲しみが込められているような気がした。
「どうしてこうなったのか、原因は分かっているんですか」
俺はどうしても、そう尋ねずにはいられなかった。
「分かりません……
周りの人は落石だったと言うんですけど、私にはそうは思えなくて……
さあ、吉田様!その手を湯につけてくださいな。
この温泉は切り傷によく効くんですよ。」
そう言って牡丹さんは俺に場所を譲った。
導かれるままに俺は傷だらけの手をおそるおそる湯につけた。
しみるかと思ったが、ほとんどしみなかった。
しばらくすると手の表面がぬるりとした膜に包まれたような感覚になった。
さっきまでヒリヒリしていた擦り傷の痛みも、いつの間にか和らいでいる。
無言のまま、5分ほど手を湯につけていただろうか。
牡丹さんがそろそろ止めたほうが良いというので、俺は立ち上がり、ポケットからハンカチを取り出して手を拭いた。
「とても見事な染め物ですね」
思わずといった感じで牡丹さんが呟く。
俺の手元を照らしてくれるために、牡丹さんがかざしてくれた提灯の灯りが、俺の白い手とタータンチェックのハンカチを浮かび上がらせた。
「さあ、そろそろ戻りましょう」
◇
帰り道、牡丹さんの後ろ姿を追いながら声をかけた。
「ねえ、牡丹さん。あの土管直せないのかな」
俺は思いついたことを口にした。
「それは難しいですね。
あれは父がこの宿を開いたときに、高名な土魔道士の先生にお願いして作っていただいたものと聞いております。
私にはそんな伝手もお金もございませんもの」
牡丹さんはどんな表情をしていたのだろうか。
それ以上に俺はどんな表情をしたのだろうか。
見られなかったのは幸いなのだろう。
土魔道士って言ったよな?
ギルドカードとか大銅貨とか、どうなってるの?
異世界に迷い込んだってことなのかな……
それとも並行世界ってやつなのか?
今更になって考え始めた俺は無言のまま、牡丹さんの後ろ姿を見失わないように歩いた。
◇
気がつくと玄関まで戻ってきていた。
牡丹さんに促されるままに靴を脱ぎ、廊下を歩く。
廊下の右側は広間と台所、左側には客間が続き、廊下の突き当たりには厠と風呂場があるらしい。
俺は一番奥の客間に案内された。
牡丹さんが部屋を整える間、少し廊下で待たされた。
彼女が用意してくれた寝床は、畳の上に敷布と掛布を重ねただけの簡素なものだった。
それでも野宿することに比べたら天国だ。
俺がお礼を言うよりも先に、牡丹さんが口を開いた。
「吉田様、お着替えはお持ちではありませんよね。
今、お持ちしますからもう少しお待ちくださいな」
そう言うや否や、小走りで廊下の奥に消えていった。
彼女がいなくなると提灯も一緒になくなり、廊下は真っ暗だ。
暗闇の中では、ほんの数分でも時間の感覚がなくなるものだと初めて知った。
あっという間だったのか、かなりの時間がたったのか分からないが、着替えを持って戻ってきてくれた。
「着古しで申し訳ございませんが、せっかくのお着物がシワになってしまいますから、お使いくださいませ。
お着替えの間は灯りをかざしておきます。
廊下におりますので、お着替えが終わったらお声がけくださいませ」
そう言われた俺は部屋の中に入って着替えることにした。
麻布のゴワゴワした小袖に細紐が添えられていた。
着ていた服を脱いでTシャツとトランクスだけの姿になる。
廊下の向こうには牡丹さんがいる。
それを意識した途端、妙に落ち着かなくなった。
「お待たせしました。着替え終わりました」
それを聞いた牡丹さんが廊下から現れる。
俺を見て一瞬だけ目を細めた。
懐かしいものを見るような、どこか寂しげな表情だった。
そして何事もなかったように彼女が言った。
「簡素な寝具で申し訳ございませんが、ゆっくりお休みください。
それと、厠は廊下の突き当たりを右に曲がったところにございます。
その先は階段になっており、二階に通じるのですが、家族もおりますので、決して二階に上がってこないようにしてくださいませ」
そう言って立ち去ろうとする彼女を呼び止めた。
「あの、牡丹さん。
今日は本当にありがとうございます。
泊めていただけるだけじゃなくて、手の治療までしていただいて、お陰で痛みもだいぶ取れました。
それで、大したものじゃなくて恐縮なんですけど……
これ、よろしかったら使ってください」
そう言って、俺はハンカチを手渡した。
ハンカチ一つじゃお礼にもならないだろう。
そんなことはわかっている。
でも、牡丹さんが「見事」と言ってくれたし、ブラックウォッチのタータンチェック柄は彼女に似合う気がした。
「ありがとうございます。大事にしますね」
この日一番の笑顔でそう言うと、そそくさと牡丹さんは去っていった。




