第9話
「お疲れさまでした」
医者がぞろぞろと会場を後にする。
全国の救急医療をテーマとする学会が静岡で行われたのだ。
私は座って話を聞いているだけだったが、あまりの人の多さに疲れを隠せない。
「結衣ちゃん、桜場くん、パーっと飲みに行かない?」
常田先生の提案は嬉しかったが、あいにく予定がある。
「ごめんなさい、常田先生。近くに実家があって顔出す予定なんです」
「そういえば実家静岡って言ってたね。桜場くんは? 飲み行く?」
「僕も予定あるので」
「予定ってなによ?」
桜場先生は少し考えてから小さな声で答えた。
「人に会う予定があって」
「誰? 彼女?」
「違いますよ」
ドクン、と鼓動が鳴る。
「デートかぁ、若いね」
「違いますって」
モヤモヤした気持ちに晒されながら、「私行きますね」と声を掛けて足早にその場を離れた。
会場から駅は遠い。バスに乗ろうかと考えていると、後ろから歩いてきた桜場先生に声をかけられた。
「乗って行きますか?」
何度目かの桜場先生の車。なんだか落ち着くなんて言ったら気味悪がられるだろうか。
乗せてもらったものの、沈黙が気まずくて口を開く。
「私は歳の離れた弟がいるんです。今高校生なんですが、小さい頃から可愛い可愛いと言って育てたせいか、今になって反抗期がきてるんです。遅いですよね」
先ほどのモヤモヤを晴らすように聞かれてもいないことをペラペラと喋った。
「桜場先生は反抗期ありました? いつでした?」
「中高はずっと反抗していた気がします」
「え、桜場先生が? 想像できません」
「光島先生は反抗期なさそうですね」
「人より反抗期が早かったんです。中学上がるか上がらないかの頃に反抗期に差し掛かって弟が生まれたので、反抗期が消えました」
「乳幼児の癒しパワーは偉大です」
そうこうしているうちに実家に到着した。すると大きな音を立てて扉を閉めて歩いていく弟の背中が見えた。
「たっちゃん!」
慌てて声をかけると、匠は驚いた表情でこちらを見た。着崩した制服のまま、少し尖った視線をこちらに寄越す。
「誰そいつ? 姉ちゃんの彼氏?」
何て口を聞くんだと慌てて桜場先生を見ると、桜場先生は嫌な顔ひとつせず、穏やかな微笑みを浮かべていた。
まるで眩しいものでも見つめるような、慈愛に満ちた表情で。
「親父と喧嘩した。俺もう家帰らないから姉ちゃんの家入れろよ」
「無理だし、そうやって何でもかんでも反抗するのやめな? お父さんだってもう結構いい歳なんだから」
「あのクソジジイ」
「こら! 高校生にもなっていつまでも子どもじみたこと言わないの」
「姉ちゃんもババアみたいな説教すんなよ。男の車なんかで来ちゃってさ」
「なっ!」
「おい、何笑ってんだよ」
匠は眉をひそめて桜場先生を睨みつける。それでも桜場先生は、どこか懐かしむように小さく笑いながら匠の姿を見つめていた。
「桜場先生、ごめんなさい。送ってくれてありがとうございました。私、降ります」
車の扉を開ける。
「帰りも連絡をくれればここに迎えに行きますよ」
「今日は実家に泊まるので大丈夫です。何から何までありがとうございます。桜場先生も人に会うんですよね? 楽しんできてください」
桜場先生は一瞬、寂しげに目を伏せてから、何とも言えない表情で頷いた。
「じゃあ」と軽く会釈をして桜場先生の車が走り去ったのを確認して、私は匠の手を引きながら実家に帰った。
「姉ちゃん、後で買い出し行ってきてー」
匠の声が響く。「わかった」と大声で返事すると、「結衣をこき使うんじゃないよ」という母さんの声が聞こえてくる。
久しぶりの自分の部屋に、懐かしい騒がしさ。
高校生の頃に戻ったようだった。
感覚はあの頃のままなのに、ここにいるみんなあの頃から10年も年を取ったのだと思うと不思議だった。
私の帰省に両親は喜んだが、同時に気を遣われていることもひしひしと感じた。むしろ適当に扱ってくれる匠の存在がありがたかった。
今日ここに来たのは、たまたま学会で近くに来たからだけではないからだ。
今まで近くに用があっても、なかなか帰ってくることはなかった。極力避けていたのだ。
自分の部屋の床に力なく座る。
あの頃と何も変わらない。
部屋を見渡すとそこら中に彼の面影があった。
傑くんがくれた小説。
傑くんが渡してくれたノート。
傑くんと撮った写真。
傑くんと行った海でとった砂。
『将来、一緒に病院を建てよう』
そんなふうに言ってくれた時、これからも一緒にいてくれるんだとどれほど嬉しかったことか。
側にいられなかったとしても、私はあなたがいるだけで、それだけでよかったというのに。
どうして死んじゃったの?
「姉ちゃん、墓参り行こうや」
匠の声かけに振り返る。体に力が入らなかった。
「傑兄ちゃん、寂しがってるよ、きっと。会いに行こうや」
傑くんはしょっちゅう私の家に遊びに来ていたので、匠も両親も、みんな傑くんのことが大好きだった。
彼のことを嫌いな人なんていなかった。
誰のことだって、あの蕩けそうな笑顔で夢中にさせてしまうんだ。
「もう10年も経つんだね、あの日から」
今日は彼の命日だった。
あの日私は、走ったのだ。
彼の命がそんな簡単に奪われるわけないだろう、奪われていいわけないだろうと必死な思いで。
「俺さ、もう姉ちゃんは十分苦しんだと思ってるよ」
「……どういうこと?」
「10年だよ。姉ちゃんが傑兄ちゃんのことずっと大事にしてきたのは知ってるけど……いつまでも自分を責めるみたいに縛り付けなくてもいいんじゃないの」
匠は視線を少し外しながら、ぶっきらぼうに続けた。
「さっきの人といる時の姉ちゃん、昔の顔に戻ってた。なんか久しぶりに、ちゃんと『今』を生きてる顔してたよ」
「……っ」
「墓参り行くなら、バイク乗せてやるから声かけて」
匠はそう言い残すと、素っ気なく部屋から出て行った。
1人残されて、頬につたう涙の存在に気付いた。
否定したかったのに、認めまいと意固地になるほど、心が痛んだ。
今日は傑くんの命日。
10年前の今日、傑くんは亡くなった。そんな大事な日に、私は、桜場先生のことを考えていた。
今まで傑くんを思いださない日はなかったのに。
今日は初めて、高校生の頃の自分が顔を出さなかった。
桜場先生を見て、胸が高鳴った。
桜場先生の車に乗ったとき、このまま遠くに走り出したいと願った。
ごめんね、傑くん。
私たちは恋人ではなかったし、恋心を抱いていたのは私だけだったかもしれない。
でも間違いなく彼は私の1番の友達で、かけがえのない仲間だった。彼にとっても私は、そういう存在のはずだった。
未奈と川西が手を取り先に歩みを進める中で、私は傑くんと手を繋いでともに道端に座り込んでいた。
そうすることで自分を守った。
でももし私も前を向いて歩き始めるのならば、固く握っていた手を離さなければならない。
それが今日なのだと、息を吐いた。




