第8話
マンションに到着すると、桜場先生は手際よく未奈をベッドへ寝かせた。
「部屋の温度を少し下げてください。足元を少し高くして……うん、脈も落ち着いてきました。このまま静かに休ませましょう」
テキパキと的確に指示を出す横顔は完全に『頼れる医師』そのもので、私は言われるがままに動きながら、彼の無駄のない手つきと頼もしさに安心感を覚える。
私も同じ救命医なのにテンパってしまって情けない。
未奈が安心したようにすーすーと小さな寝息を立て始めたのを確認する。
大切な人を失うのは怖い。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
そっとベッドの横を離れ、静かにドアを閉めてリビングへ戻った。
ちょうどその時、私のスマホが胸ポケットで振動した。画面には『川西泰介』の文字。
「あ、川西! 未奈なら大丈夫だよ、今うちのベッドでぐっすり寝てる」
『本当か……! よかったぁぁ……! ごめんな光島、マジで助かった! お店、片付けてから向かうから1時間くらい寝かせてやってくれ』
電話の向こうで心底安堵して泣きそうになっている川西の声に、私も思わず緊張が解けて笑みがこぼれる。
「うん、気をつけて来てね」
電話を切って振り返ると、桜場先生がリビングの真ん中でどこか落ち着きがなさそうに佇んでいた。
「……川西、1時間くらいで来るって」
「わかりました。では、僕はこれで」
帰ろうとする彼を引き止めるように、私は慌てて声をかけた。
「あ、待ってください! 桜場先生、さっきのお店で一口も食べてないですよね? 私、何か作ります! パニックになりそうな私を助けてくれたお礼もしたいですし」
「いえ、お構いなく。医師として当然の対応をしただけですし、料理ならコンビニで買えば——」
「私が誰かと一緒に食べたいんです! すぐできるので座って待っててください!」
半ば強引に押し切るようにキッチンへ向かうと、桜場先生は小さな声で「……ありがとうございます」と言って、素直にダイニングの椅子に腰を下ろした。
普段の過酷なシフトを考えれば、医者にじっくり自炊をする時間なんてない。
以前見た、桜場先生の家の棚が即席麺や缶詰で埋まっていたことを思い出す。
殺風景で生活感のない部屋。
きっと毎日、自分自身を労う暇すらないまま、命と向き合って必死に生きているんだろう。
『結衣、よく聞いてね。きついなぁ、もうこのまま寝ちゃいたいなぁ、毎日苦しいなぁってそう思う忙しいときほど、お疲れ様、がんばったねって自分に美味しいものを作ってあげるのよ』
幼い頃、母からずっと言われ続けてきた言葉。
医者になってからは女子力なんてどこかに捨ててしまったけれど、食事を丁寧に作って食べることだけはずっと大切にしてきた。
手早くキャベツを千切りにし、下味をつけておいた鶏肉に粉をまぶして油に落とす。パチパチと心地よい音とともに揚げ物の香ばしい匂いがキッチンに満ち、おみそ汁の湯気がふわりと立ち上った。
「大したものは作れませんでしたけど、どうぞ!」
テーブルに並べられた、揚げたての唐揚げとおみそ汁、温かいご飯。桜場先生はどこか戸惑ったように箸を握りしめ、じっと茶碗を見つめていた。
もしかして和食は嫌いだった...?
「……お口に合わなさそうですか?」
「いえ……いただきます」
少し緊張した様子で、桜場先生が大きめの唐揚げを一口かじった。
サクッと軽い音が響き、その瞬間、彼の手がピタリと止まる。
数秒の静寂。まさか揚げ方が足りなかった? と焦る私をよそに、彼はゆっくりと口を動かし、飲み込むと同時にポツリと漏らした。
「……温かいです」
「え?」
「……すごく美味しくて、温かいです」
かみ締めるように吐き出されたその言葉に、胸がギュッと締め付けられた。
彼の横顔に滲む孤独が痛いほど伝わってくる。
桜場先生ってどうしていつもこんな寂しそうな顔をするんだろう・・・?
「……すみません、変なこと言って」
「ううん、全然! 美味しいって言ってもらえてすごく嬉しいです。たくさん食べてくださいね」
「はい」
桜場先生はそれから、本当に美味しそうに、そして一粒一粒を愛おしむように大切そうに料理を口へ運んだ。
きれいに完食してくれたお皿を見て、私の心までじんわりと温かいもので満たされていく。
病院での冷徹で近寄りがたい姿からは想像もつかない、素朴で、少し不器用な一人の男性としての姿。
普段は無機質な場所にしかいない彼が、私の部屋の柔らかな照明や、クッション、壁の雑貨を珍しそうに眺めている横顔を見て、胸がトクンと小さく跳ねた。
ほどなくして駆けつけた川西は、眠っている未奈を愛おしそうに抱きかかえ、何度も何度も私たちにお礼を言っていった。
二人を見送り、桜場先生も玄関へ向かう。
「光島先生、今日は色々とお世話になりました」
「こちらこそ! 未奈のこと、本当にありがとうございました」
ドアノブに手をかけた桜場先生だったが、ふと足を止め、背を向けたまま小さな声で言った。
「……ごちそうさまでした。今日食べたもの……全部、すごく美味しかったです」
「ふふ、またいつでも作りますよ」
すると彼はくるりと振り返り、ほんの少しだけ目元をゆるめて言った。
「……じゃあ、また作ってください」
照れ隠しのように少し早足でマンションの廊下を去っていく背中を見送りながら、私は静かにドアを閉めた。
胸の奥が、なんだか甘くキュンと痛む。
冷たい人だと思っていた桜場先生の、隠された温もりに触れてしまった夜だった。




