第10話
「じゃあ俺ここで待ってるから」
匠は軽く手を振った。いつからこんなに気の利く男になったのか。嬉しいようで寂しかった。
「ありがとう。すぐ戻るね」
そう答えて、私はひとりでお寺の境内へと続く石段を上り始めた。
ざく、ざく、と足元で砂利が擦れ合う音が静寂の中に響く。
冬の冷たい木枯らしが吹き抜け、首筋を痛いほどに刺した。見上げると、葉を落とした枯れ木の隙間から、透き通った冬の空が広がっている。
水汲み場で桶に柄杓を浮かべ、冷たい水を汲む。そのまま重い桶を持ち、傑くんのお墓がある奥の区画へと歩みを進めた。
お墓の前に立つ。
そこだけが周囲の時間から切り離されているようだった。
桶の水を柄杓ですくい、静かに墓石へとかける。打ち水が勢いよく流れ落ち、石の表面が黒く光った。
花立てに挿さっていた枯れた花を取り除き、持参した新しい花を生ける。
彼が好きだった青紫色のリンドウの花だ。
「傑くん、来たよ」
墓前に手を合わせ、ゆっくりと目を瞑る。
心の中で、静かに彼へ語りかけた。
『もう10年だって。私、ちゃんと医者になったよ。毎日覚えることが多くて大変だけど、なんとかやってる。匠もこんなに大きくなっちゃった。……傑くんの時間はあの頃のまま止まってるのに、私だけどんどん歳を取っちゃって、ごめんね』
楽しい思いをしちゃって、ごめんね。
美味しいご飯を食べて、ごめんね。
…幸せと思ってしまって、ごめんね。
浮かんでくるのは謝罪の言葉ばかりだ。
もし彼が生きていたら、一緒に同じ医療現場で働けていただろうか。ずっと、彼の背中を追いかけていただろうか。
胸の奥がキュッと締め付けられる。
溢れそうになる涙を必死に堪え、私は深く息を吐いて目を開けた。
「また来るね」
軽く一礼をし、お墓を後にしようと振り返ったその時だった。
墓地の少し離れた区画で、異質な人の気配を感じて不意に足を止めた。
木陰の向こう、誰かが立っている。
なんとなく居心地の悪さを感じ、私は近くにあった大きな幹の陰にすっと身を隠した。
葉の隙間から、そっとその様子を伺う。
背の高い男性の背中が見えた。白シャツの肩が、どこか小さく丸まっている。
……桜場先生だ。
どうして桜場先生がこんな場所にいるのだろう。
胸の中に、ざらりとした予感が走る。
声をかける勇気は出ず、私は固唾をのんで見つめた。
桜場先生は深く俯いており、その表情は読み取れない。
そして、彼の前に立っているもう一人の女性。
小柄で、ひどく痩せ細った背中。
記憶の奥底にある引き出しを必死に手繰り寄せ、私はそれが誰なのかを思い出して息を呑んだ。
傑くんのお母さんだ。
だが、私の知っている彼女の面影はほとんど残っていなかった。当時は町でも評判の美人で、いつも綺麗な洋服を着て、温かい笑顔を絶やさない人だった。
名医の夫と美しい妻、そして成績優秀で誰からも愛される一人息子の傑くん。彼らの家庭は、この町のお手本のような憧れの象徴だったのだ。
しかし、目の前に立つ女性はすっかり目の光を失い、髪には白いものが混じり、全体的に力なく縮こまっていた。
その時、お母さんが抱えていた色鮮やかな百合の花束を、全身の力を振り絞るようにして桜場先生へ投げつけた。
「——っ!」
美しい白い花びらが、散り散りになって空中に舞う。
重い音を立てて地表に落ちた花束を、桜場先生は責める色ひとつ見せず、悲しそうに拾い上げようとした。
お母さんはそんな彼を拒絶するように、追い討ちをかけて桜場先生の胸を強く突き放した。
後ろによろめいた桜場先生に向かって、お母さんは顔を歪ませ、こちらまで刺さるような大声で罵声を浴びせた。
「あなたが……っ! あなたが死ねばよかったのに!!」
その言葉が、墓地に響き渡った。
時間が止まった気がした。
息が、できない。
どうして? 桜場先生は傑くんの何なの?
頭の中がパニックを起こし、激しい眩暈が襲う。
お母さんは冷たい背を向け、フラフラとした足取りで去っていった。その姿が見えなくなるまで、私は必死に息を殺し、冷や汗を流していた。
桜場先生は、地面に投げ捨てられてすっかり萎れてしまった花束を拾い上げ、優しく砂を払うと、傑くんのお墓の前に静かに置いた。その背中があまりにも切なく、私は恐怖で体が震えた。
ここにいちゃいけない、と本能が叫ぶ。
息ができなくて、怖くて、こんなに寒いのに汗が止まらなかった。
離れなきゃと慌てて後ずさりした瞬間、足元に置いていたカバンに引っかかり、私は派手に砂利の上へ尻餅をついた。
ガシャリ、と大きな音が静寂を破る。
「……光島先生?」
ハッと顔を上げた桜場先生と、視線が合ってしまう。彼の目は驚きと、深い傷を負ったような色で揺れていた。
逃げなきゃ。
どんな事実が明かされようと、今の私には受け止めきれない。
私は立ち上がり、足の痛みも忘れて走り出した。
後ろから、桜場先生が必死に追ってくる気配がした。
お願い、来ないで。
夢中で駆け上がったのは、来たときとは違う、雑草が鬱蒼と茂る不細工な山道だった。
「光島先生、待って」
桜場先生の苦しそうな声を無視して足元の悪い坂道を駆け上がりながら、喉の奥が焼けつくように痛む。
ふと我に返り、自分が迷い込んだ道の危うさに気づいて恐ろしくなった。踵を返して山道を下ろうとした、まさにその瞬間だった。
足元の腐葉土がズルリと崩れ、私の身体は宙に浮いた。
終わりだ、と冷静な頭で思った。
きっと私は今日、ここで死ぬのだ。
そう諦めて目を瞑ろうとした次の瞬間、右腕を強く引き上げられる感触があった。
「——くっ!」
振り返ると、目の前には必死の形相で私の腕を掴む、桜場先生の顔があった。
あ……先生、泣いてる。
そう認識できたのは一瞬のことだった。
私の体重に引っ張られ、桜場先生も体勢を崩す。
次の瞬間には、私たちは二人一緒に、急斜面の山道を転げ落ちていた。




