第11話
「え?」
眩しい太陽の光に思わず目を逸らす。
視界が整うと、そこは見慣れた自分の部屋のベッドの上だった。
ついさっき山から落ちて、桜場先生がここまで運んでくれたのだろうか。
あんなに派手に転げ落ちたはずなのに、立ち上がってみても体に何の痛みもない。
「あら結衣、今日は随分と早起きじゃない」
階段の下から、母さんの声が聞こえる。
眠い目を擦りながらリビングに向かう。
「母さん、若返った? そんなにお肌ツヤツヤだったっけ?」
「そんなに褒めても何も出ないわよ」
可笑しそうに笑いながらキッチンで朝食の準備をする母さんの姿を見つめる。
何かがおかしかった。
「結衣、たっちゃんを起こしてきてくれない?」
匠の部屋に向かって扉を開ける。高校生にもなって、まだ親に起こしてもらってるなんて——と呆れ半分に声をかけた。
「たっちゃん起きて、朝だよ」
「……まだ眠い〜」
女の子のような甲高い声に、思わず足が止まる。
匠の声は随分前に低くなっていたはずだ。
恐る恐る布団を剥がすと、そこには小さな子どもが丸くなって寝ていた。
「誰?!」
「匠だけど。姉ちゃんも寝ぼけてるの?」
子どもは目をこすりながら、不思議そうにこちらを見る。
息が止まる。これは、夢?
「……今、何才?」
「7才」
愛らしい瞳が、じっと私を見つめている。
私は背筋に冷や汗をかきながら、走って自分の部屋へ戻った。
壁のカレンダーを見上げる。そこには『2015.04』と書かれていた。
ベッドの傍らには、あの頃毎日のように着ていた高校の制服が綺麗に畳んで置いてある。
これは夢だ。絶対に夢だ。
「結衣! 早く準備しなさい〜!」
リアルすぎる夢。そう思い込もうとしながら、急かされるまま朝の支度を進める。
10年ぶりに袖を通す制服。鏡を見て驚く。若い。肌も綺麗で、ケアが面倒でやめた前髪がそこにある。
髪の結び方もすっかり忘れていて、適当に一つ結びにすると「いつもと違うわね」と母に笑われた。
確かあの頃は、ずっと三つ編みをしていたっけ。
「行ってきます」
「今日は随分と早いのね」
不思議そうな顔をした母に見送られて家を出た。
「わぁ…」
家の周りの道も、空気の匂いすらも鮮明だった。同じ制服を着た生徒たちが歩いている。
そういえば私は、朝起きるのが当時から苦手で、いつも遅刻ギリギリだった。
10年ぶりの登校でも、学校への通学路は完璧に覚えている。懐かしさに胸が熱くなる。
なんてリアルな夢だろう。
その時だった。
「お前ふざけんじゃねえよ!」
自販機のそばで、男子生徒4、5人が1人の男の子を囲んでいるのが見えた。同じ制服だ。
「見ちゃだめよ、行きましょ」「また喧嘩だ」と通り過ぎる女子生徒たちの呟きが聞こえる。
「お前に俺らのダチがやられてんだよ昨日。やり返さねえと気が済まねえ」
男たちが容赦なくその子の腹を蹴りつけた。
見ていられなくなり、私は居ても立っても居られずに駆け寄った。
「何してるの、あなたたち!」
不良たちは呆気にとられたような顔をして、互いに顔を見合わせる。
「誰だお前、こいつの女か?」
地面にうずくまり、全身を丸めて耐えている青年。その背中に手を差し出し、顔を覗き込んだ瞬間、私は息を呑んだ。
「桜場先生……!?」
顔に血を散らしたその青年は、桜場先生にそっくりだったのだ。
「……光島先生、逃げて」
“光島先生”と呼ばれたことに、さらに強い衝撃が走る。
本当に桜場先生なの?
どうしてここにいるの?
なぜ私のことが分かるの?
「こいつら気色悪い。学生同士で先生って呼び合ってるぜ」
「せっかくだから女も殴っとくか」
大柄な男に肩を掴まれ、身動きが取れなくなる。高校生だからと甘く見ていた自分が間違いだった。大きな拳がこちらに向かって振り下ろされる。目を瞑った。
ドン、と鈍い音が響く。
痛くはなかった。目を開けると、桜場先生が私の前に立ち、大柄な男が尻もちをついていた。
どうやら桜場先生が男を殴り返したらしい。
「てめえ、やっぱりやれば出来んじゃねえかよ。ヨシをやった割にさっきから弱っちくてびっくりしてたんだ」
「本気出してなかったのかよ」
男たちが再びじりじりと近づいてくる。
「光島先生、逃げて。危険だから」
私は怖くて、思わず桜場先生の手を強く握りしめた。
「嫌です。一緒に逃げます!」
振り払われそうになる手を必死に繋ぎ止める。
「これ、夢じゃないです。俺たち10年前に戻ってきたみたいです」
夢じゃない?
私たちはあの山で転げ落ちて、10年前にタイムスリップしたというの……?
「どうして?どうやって?」
「今はそんなことより…」
男たちが迫ってくる。桜場先生の背中に身体を預ける。握った手にさらに力を込める。
「やめろ!」
その時、鋭い声が響き渡った。
「先生たちを呼んだ。すぐに向かってくる。今すぐ離れなさい!」
男たちはつまらなさそうに舌打ちをすると、ぞろぞろと離れていった。私は安堵で膝の力が抜け、その場に座り込んだ。
「大丈夫? 結衣」
駆け寄ってきた“救世主”の顔を、私は直視できなかった。
呼吸の仕方を忘れたかのように胸が苦しい。
背中を優しくさすられる。
「怖かったよね。すぐ来てあげられなくて、ごめん」
ゆっくりと顔を上げる。
そこにあったのは、忘れかけていた、あの綺麗で優しい瞳。
「……すぐる、くん」
10年ぶりの、再会だった。




