第12話
「結衣?大丈夫?」
傑くんの声にハッとして体を離す。咄嗟に抱きしめてしまったことに恥ずかしさが込み上げてくる。
私の頬に伝う涙に気づいて、傑くんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「もう大丈夫だよ」
背中をさすられてさらに涙が溢れる。
怖かった。けど涙はそのせいじゃない。
あなたに会えて嬉しくて、懐かしくて。
傑くんが亡くなってからのすぐの間は、きっと何かの手違いで、傑くんは本当は生きていて、ふとした時にふらっとまた現れてくれると信じていた。
ずっと、信じていたのだ。
「少しおさまった?」
「うん、助けてくれてありがとう」
傑さんに差し出された水を座りながら飲む。
桜場先生はハンカチを傷口にあてていた。
「桜場先生もありがとう」
口に出してから過ちに気付く。
「桜場先生?」
傑くんは不思議そうに桜場先生を見つめた。
「いや、えっと、桜場くん」
「早瀬くんのこと?」
「え?」
傑くんは桜場先生の前に立つ。
桜場先生は表情ひとつ変えなかった。
「早瀬智喜くんだよね。初めましてかな。噂は聞いてたけど。桜場傑です、よろしく」
「…どうも」
どういうことだ。桜場先生は桜場智喜という名前だったはず。
「結衣を守ってくれたようでありがとう。でも、そちらの喧嘩にこの子を巻き込まないでくれるかな」
「違うよ、傑くん。私が勝手に声かけたから」
「なんで結衣が声かけるの?不良たちには関わるなっていつも言われてるじゃん」
10年前の記憶が蘇る。
“早瀬智喜”
なんで気付かなかったんだろう。
早瀬智喜は、私の高校で有名な不良だった。
高2の冬に転校してきたのに、ろくに学校に顔を出さず、喧嘩ばかりしているという噂だった。
転校時は話題になったがクラスも違い、彼は授業に出席しなかったから喋ったこともなかった。
それがまさか桜場先生だったなんて。
詳しいことはよく分からないが事情あって名字が変わったのだろう。
数年一緒に働いていたのに、同じ高校のあの“早瀬智喜”であることに気付かなかった。
「今日って何日?」
「4月9日だよ。始業式の日」
桜場先生と目が合う。
「…退学」
早瀬智喜は高2の冬に転校してきて、高3の4月、始業式の日に退学した。
問題児の退学ということで、学年中がその話題で持ちきりだったからよく覚えている。
「学校行こう」
何がなんだか分からないけれど、とにかく落ち着こうと学校に向かった。
「同じクラスだね、結衣。これで3年連続だ」
下駄箱の前に張り出されたクラス替えの表を見つめる。
『31番 光島結衣』と書かれた紙に違和感を覚える。
私は確か、高3の時の出席番号は30番だったはずだ。というのも、高1から高3まですっと出席番号が30番だったため、30という数字を気に入っていて、大人になってもスマートフォンの暗証番号は誕生日4桁の最後に30を加えた6桁だった。
私の記憶違いだろうか?
ふと気になって30番を見てハッとする。
『30番 早瀬智喜』
そうか。早瀬智喜が高3の始業式の日、登校せず退学したことで私は一度も彼と顔を合わせることなく、クラスの出席番号が1繰り上がったのだ。
あまりの衝撃に鼓動が早まる。
教室に入ると未奈が駆け寄ってきた。
「結衣!大丈夫だった?」
「未奈」
「ここ着いたら誰かが結衣が喧嘩に巻き込まれたとか言ってて、私不安で先生呼んだの」
「何ともなかったから大丈夫だよ」
「もう心配したんだから。不良に目つけられたらどうするの?」
「気をつけるよ」
「見境なく暴力振るう連中なんて相手したらダメだよ」
高校生の未奈は記憶よりもずっと幼くて、可愛らしかった。
「未奈!川西が呼んでるよ」
廊下から声をかけられて未奈は離れていく。あの頃の記憶が次々と順を追って思い出されてきた。
確か私と傑くんと未奈は同じクラスで、川西だけ別のクラスだったのだ。
川西はひどく落ち込んでいたけど、結果的にずっと一緒に育ってきた2人に初めてちゃんとした距離が生まれたことが、お互いの恋心を自覚する決め手となった。
今のように川西は休み時間の度、しょっちゅう未奈に教科書を借りるふりをして話しかけていたものだ。
しかしあの頃と違うことが一つある。
私の目の前に、桜場先生の背中があること。
10年前の今日は空席だったのだ。
背中を指で押すと、桜場先生は軽く振り返った。
「話したいです。ここじゃあれなのでついてきてください」
桜場先生にそう呟いて教室を出る。周りの視線を感じる。ろくに学校に来てない男が頭から出血して登校してきたのだから注目されて当然だろう。
少し歩いて、音楽室に着いた。これで周りの目を気にしなくて済む。
「説明してください」
「どうやら10年前にタイムスリップしたみたいですね、俺たち2人」
「そこじゃないです」
「え?」
桜場先生の額からは血が流れたままだ。先ほどからハンカチを当てているが、止血しきれていない。
ポケットから絆創膏を取り出して渡す。
「どうしてここにいるんですか?どうして、10年前、ここにいなかったんですか?」
桜場先生は少し目を泳がせながら、ありがとうございます、と小さくお礼を述べて絆創膏を受け取った。額に貼ろうとするが、傷口から少しズレている。
桜場先生の手から絆創膏を奪って、額に貼ってやる。
「今まで言わなくてすみません。実は初めて病院に光島先生が来た日から気付いてました。同じ高校だった、光島結衣だって」
桜場先生から発せられた“光島結衣”に胸が高まる自分がいる。
「どうして言わなかったんですか?」
「覚えてないみたいだったし、俺のことを認識してないだろうと思って」
「話したことあるってことですか?高校時代に?」
思い当たる節がない。しかし桜場先生の寂しげな瞳が肯定を示していた。
「1回だけですけどね。忘れてても無理もないです」
「いつ?どこでですか?」
「それはいいんです、忘れてください」
「忘れてくださいって…この状況がもう、何がなんだか…私は桜場先生と傑くんのお墓で会って、なぜあなたであそこにいて、傑くんのお母さんと口論してて、目覚めたら10年前で、桜場先生は早瀬智喜で、私、もうさっきから分からないです。全部話してください」
何の涙かもわからない涙が頬をつたう。
桜場先生は苦しそうな顔で俯いた。
「ごめんなさい。でも、言えないです」
よく考えたら、桜場先生も混乱しているに違いなかった。何の事情かはわからないが、墓地で悪意を向けられ、暴言を吐かれた。私を助けようとして巻き込まれて、目覚めたら10年前で。喧嘩にも巻き込まれて、痛い思いもしたはずだ。
深い息を吐く。
「言えない事情があるんですよね?」
桜場先生は驚いた様子でこちらを見てから頷いた。
「どうして山で私に手を伸ばしたんですか?私が勝手に逃げたのに、追いかけて。あの時手を伸ばしてなかったら桜場先生はここに来なくて済んだかもしれないのに」
「…光島先生が怪我をすると思ったからです」
当たり前だというかのように桜場先生は答えた。その真っ直ぐな目に嘘はなかった。
そうだ。桜場先生は困っている人を放っておけない、温かい人だ。
彼があの“早瀬智喜”だったからといって、その事実が塗り替わるわけではない。
「私の記憶が正しければ、今日退学しますよね」
桜場先生は頷く。
「理由は覚えてますか?」
「自分で退学届を出しに行きました」
「自分で?どうして?」
桜場先生は俯きながら答える。
「お金がなくて、働かなきゃいけなかったので」
滅多に学校に顔を出さない不良。それが早瀬智喜について私が知っていることだ。
「それで学校も来てなかったんですか?働いてて?」
「バイトをずっとやってました。だけど授業料を払えなくなって、学校も退学に」
「喧嘩は?」
噂では喧嘩ばかりしているとのことだった。
桜場先生は不思議そうにこちらを見る。
「喧嘩?」
「よく不良同士で喧嘩してたって噂でした」
「ああ…。この身なりで学校に行ってなかったのでよく不良には間違われてましたね、そういえば。負けず嫌いの不良たちによく喧嘩を売られてました」
私の目を見て、桜場先生は続けて言う。
「でも自分から暴力を振るったことはないです、一度も」
信じたい。
信じるよ。
ピンポンパンポーン。
大きなチャイムが教室に響く。
「教室に戻りましょ」
少し引き攣っていたかもしれないけれど、精一杯の笑顔を見せると桜場先生はいつもの優しい顔で頷いた。




