第13話
「この1年はお前たちの人生において大事な1年だ。ボーッと生きてちゃダメだぞ。まずはイメージすること!これから配る用紙に進路希望を書いて今週中に提出するように」
懐かしい。
ムキムキな身体を持つ熱血教師で評判だった熊谷先生。
生徒からは“熊”と呼ばれていた。
高校3年生の初日は軽いオリエンテーションで終了した。
ホームルームを終えると傑くんが近づいて来た。
「結衣、志望校決めた?」
「え、えっと…いや、まだ。傑くんは?」
傑くんは嬉しそうに大きな目を輝かせた。
「今朝も思ったけど、傑くんって呼んでくれて嬉しい。今まで桜場くんだったのに」
しまった。
そういえばこの時はまだ桜場くんと呼んでいたっけ。
「あ、ごめん…桜場くん」
「傑でいいよ、俺は結衣って呼んでるんだし」
ニカっと笑う姿が現実のものだと思えなくて、混乱する。
「未奈は?」
「さきに川西と一緒に帰ったよ」
クラスの違う川西と未奈は下校の時間だけが2人きりでいられる特別なものだったのだ。
「結衣は今日自習室行くでしょ?」
川西と未奈が距離を縮めるということは、私と傑くんが2人きりになるということ。
桜場先生をチラッと見ると、気だるそうに荷物をまとめて教室を出ようとしていた。
慌てて桜場先生の腕を掴む。
「さく…早瀬くんも一緒に帰ろ」
桜場先生は少し驚いた顔をして頷いた。
なぜかこの人を放っておけないんだ。
自習室へ向かう道中、傑くんはいつも通り屈託のない笑顔で桜場先生に話しかけた。
「早瀬くんも自習室行く? 額の傷、大丈夫?」
「……ああ、大したことない」
「そうか! 良かった。噂で色々言われてるけど、話してみたら全然普通じゃん」
傑くんのまっすぐで悪意のない言葉に、桜場先生は拍子抜けしたように目を丸くしていた。
今まで周囲から警戒され、腫れ物扱いされてきた彼にとって、こんな風に当たり前に輪の中に入れられるのは初めてのことなのかもしれない。
自習室に着き、机に進路希望調査票を広げる。
傑くんが「早瀬くんはどこ目指すの?」と無邪気に尋ねると、桜場先生は白紙の紙をポケットに押し込みながら「別に……」と言葉を濁した。
「はぁ…」
ため息を吐いて机に突っ伏す。
こんなに勉強が辛いなんて。
高校3年生の頃の自分を尊敬する。
自習室で勉強して3時間が経ったが、もう体力の限界だ。
自習室を出てすぐにある休憩スペースで天を仰ぐ。
「全然分かんないし…」
10年前の記憶などほとんどない。
数学や物理なんて、全く手に負えない。
でも明日までの宿題だし…。
「大丈夫ですか?」
低い声に振り返ると桜場先生がカフェオレを手渡してくれた。右手には缶コーヒー。
「ありがとうございます」
甘いカフェオレが身体に染みる。
桜場先生は肩凝りをほぐすように首を回し、缶コーヒーを口につける。
見た目は若いのに何も変わっていないのがなんだかおかしくて、思わず笑みが溢れる。
「…なに笑ってんですか」
「そんなにブラックコーヒーが似合う高校生、他にいないなって」
「老けてるって言いたいんですか?」
「貫禄があるって褒めてるんです」
「それはどうも」
いつも通りの私たちだ。
また笑みが溢れる。
高校生の桜場先生はいつもどこか寂しげで、苦しそうな顔をしている。
「やっといつも通りの桜場先生に戻ってくれましたね」
「…中身は俺のままなんだから当たり前でしょう」
3人で自習室に向かう道中、桜場先生は終始静かだった。
学校でも、まるで存在を消すかのように、桜場先生は過ごしている。
「私たちっていつ未来に戻るんですかね…」
「さぁ…今日寝たら明日元に戻ってるかもしれません」
早く戻った方がいいだろう。
でも戻ったら、もう傑くんには会えない。
「だったら、今勉強しても意味ないですね、ハハッ」
乾いた笑い声に桜場先生はまた悲しそうな顔をする。
「もし長くここにいるとして、勉強サボったら未来に戻った時医者じゃなくなってるかもしれませんよ」
「それは困ります。…でももし、未来に戻れなかったらどうしよう」
不安が襲って来る。
「その時はその時です」
桜場先生の無機質な声が今は心地いい。
「今は高校生同士なんですから、敬語使うの辞めませんか?光島先生呼びも変だし」
「そっちだって今日何回か桜場先生って言いかけてましたよ」
「なっ…!」
早瀬くん、というのは呼び慣れない。
だって桜場先生は桜場先生だもの…。
「これからは友達として!ね、智喜」
「わかった。…光島」
不意の呼び捨てにトクンと胸が高鳴る。
「あ、2人ともサボってる!」
傑くんが自習室から出て来る。
「だって全然分からないんだもん」
「数学?教えるよ」
「本当に?助かる」
3人で並んで机を囲む。
不自然。
だけどまるでこうなる運命だったんだと納得してしまうほどに、不思議としっくりきた。
「じゃあな、結衣、早瀬! また明日!」
途中で傑くんと別れ、夕暮れ時の街を桜場先生、いや、智喜と2人で歩く。
というか、いつのまにか早瀬呼びになってるし…。
傑くんを見ると若くて瑞々しい、なんて言葉がぴったりに思う。
「……今日、なんか不思議だった。こんな風に誰かと話しながら帰るの久しぶり」
智喜がぽつりと呟いた。その表情は、今朝出会った時よりもずっと柔らかい。
だが、その温かい空気は、彼のアパートの前に差し掛かったところで一変した。
アパートの階段から、派手な服を着た見知らぬ男性と、派手なメイクをした女性が下りてくる。その女性の顔に見覚えはなかったが、智喜とどこか似た面影があった。彼の母親だ。
母親は智喜の姿を認めると、眉をひそめて露骨に嫌そうな顔をした。
「ちょっと智喜、また学校なんて行ってたの? そんな暇あるならバイト増やして生活費入れなさいよ。誰のおかげでアパート置いてもらってると思ってんの」
「……」
智喜は何も言わず、ただ拳を強く握りしめて俯いている。
母親は隣の男性と談笑しながら、智喜を一瞥もせずに去っていった。
刺さるような静寂が立ち込める。
「……見苦しいとこ見せてごめん。じゃあ」
智喜は気まずそうに目を逸らし、背を向けて歩き出す。
桜場先生の顔じゃなかった。
寂しそうで、何かに怯えてて、何かを諦めたような…高校生の早瀬智喜の顔だった。




