第2話
「光島先生、あとこれよろしく」
「あ、光島先生、これも」
先輩医師に押し付けられた(口が裂けてもそんなことは本人の前で言えないが)職務を淡々とこなしながら時計を見ると20:00。
そろそろ帰ろう。今日は電車だし。
周りのデスクを眺めるとほとんどの人が帰宅済みだが、変わらずパソコンに向かう桜場先生の姿があった。
そういえば彼より先に帰った記憶があまりない。私でさえ残業が多い方なのに。
いつもは絶対声など掛けないのに、今日ハプニングがあって助けてもらってから(こちらが言うまで助けてくれなかったけど)謎の親近感が生まれたようだ。自然と口が開いた。
「桜場先生、まだ帰らないんですか?今日当
直じゃないですよね」
桜先生はチラッとこちらを見るとすぐにパソコンに目を戻す。
「まだ見終えてない資料があるので」
「資料?なんのですか?」
「今日外来できた上野さんの症状に気になる点があって。あまり聞いたことないものだったので文献を調べてるんです」
「常田先生はなんて?」
「ただの高血圧だろうって。でも気になるんです」
桜場先生の影の努力を初めて知った。やはり彼はいい医者だ。
「ところでとっとと帰ったらどうです?」
「なっ!」
訂正。やはり性格はあまりよろしくないと思われる。
「言われなくても帰りますよ!さよなら!」
「どうも」
全くなんて人だと思いながら席を立った途端、無線がなる。
「急患です!」
慌てて初療室へと走った。
「荒川英明さん52歳、頭から血を流してる所を緊急搬送されました、意識はあります」
看護師の声を聞きながら応急処置をしていく。
どうみても酔っ払いだ。
「俺に触るんじゃねえ!家に帰らせるっつってんだよ!」
「荒川さん、今あなたは頭を怪我されてるんです。処置が終わりましたらすぐに帰れますから、もう少しじっとしていただけると助かります」
桜場先生の優しい声かけが響く。そうそう、これが私が知っている患者にのみ優しい桜場先生だ。
止血をしようとガーゼを当てた瞬間、荒川さんが勢いよく抵抗し、バランスが崩れて後ろに吹き飛ばされる。
「わぁ!」
スタッフの声が上がる。
慌てて立ち上がると右足首がズキンと痛む。どうやら捻ってしまったようだ。
「光島先生大丈夫ですか?!」
看護師の声に精いっぱいの笑顔を向ける。
「全然大丈夫!私ったら鈍臭くてごめんなさい」
すぐに止血を再開する。幸い脳に異常はなく、頭皮を数針塗られて荒川さんは帰って行った。
あれからさらに数件急患が来てデスクに戻った頃には23時を回っていた。
帰ろうと思うも先ほどから右足首の痛みで冷や汗が出ている。
歩いて帰るのは厳しそうだ。この時間は帰宅ラッシュで座れないし。
今日は病院に泊まるしかないか、と足を引き摺りながら仮眠室へ入るものの、暖房がつかない。
何度スイッチを押しても無理だ。嫌な音がエアコンからするため、故障中なのだろう。
こんな寒い真冬に暖房なしの部屋で眠るなど自殺行為だと仮眠室のベッドに置かれた薄っぺらいブランケットを睨みながら泣きそうになる。
タクシーで帰ることにしようか。
いや、お金がない。
桜場先生が貸してくれた1万円で足りるか?今朝の電車代と昼食代で使ったので残りは7000円程度。
今時みんながやっているスマホ決済というものを登録が面倒だからと避けてきた過去の自分を恨む。
家に着いてからタクシーに少し待ってもらい財布を取りに行けばいいのか。
いや待て、この足の調子じゃまともに歩けないのに朝どうやってここに来ればいいのだと頭を抱える。
しかも私の家のマンションは絶賛エレベーター故障中で階段しか使えないのだ。
右足なら車の運転も厳しいだろう。家に帰ったとしても朝までに治ってる保証はない。
親友の未奈の家に泊まりに行こうかと思ったが、彼女は同じく高校の同級生である川西泰介と新婚旅行中だった。
仮眠室のブランケットを拝借し、デスクに戻って暖房の効き具合を確認してから覚悟を決める。
今日はここで寝よう。桜場先生には明後日お金を返すことになるが仕方ない。
ブランケットにくるまり、デスクに突っ伏していると上から声がした。
「何してるんですか?」
慌てて起き上がると桜場先生がこちらを見下ろしていた。
「寝るなら仮眠室で寝てください。仕事するのに邪魔ですから」
「あ、ごめんなさい」
もう少し優しい言い方してくれてもいいのに、と思いながらも確かに邪魔だろう。
桜場先生が帰るまで私も仕事しよう。
彼が帰ってからここで1人眠ることにする。
パソコンに向かい始めるとまた声をかけられる。
「テーピングしました?」
「え?」
驚いて彼の方を見ると不機嫌そうにこちらを見ている。
「右足首さっき捻ってましたよね」
「バレてましたか...」
心配の声かけくらいしてくれてもよかったのに。
「で、テーピングしたんですか?」
「してないです」
病院の物を自分のために使うのはなんだか申し訳なくて。
桜場先生がため息を吐く。
「それでも救命医ですか?応急処置しない医者がどこにいるんですか」
グサリと心に刺さる。
もう今日は散々だ。目覚まし時計は壊れるし、お財布忘れるし。酔っ払いに飛ばされるし。桜場先生にも怒られて。
何も言い返せず俯いていると桜場先生が救急箱を持って寄ってくる。
「出してください、足」
言われるがまま靴と靴下を脱ぐと紫色に変色し腫れ上がっていた。こんなに痛いわけだ。
桜場先生は慣れた手つきでテーピングをしていく。先ほどからの口調に反して一つ一つの動作はじられないほど優しかった。
私の足が痛まないよう丁寧に、ゆっくりと。
「できました。おそらく捻挫ですけど、明日念のためレントゲンを撮ってもらってください」
「ありがとうございます」
「仮眠室へも歩くのもきついですか?」
「え?」
「どうしてここで寝ようと?」
「仮眠室の暖房が壊れていて寒かったので」
「この部屋も24時を回ったら暖房が消えます。そんなブランケット一枚で寝れるわけないじゃないですか」
相変わらず言い方はぶっきらぼうだが、案外悪い人じゃないかもしれない。
「お金なら好きなだけ貸しますから、タクシーで帰ってください」
「いやそれが...住んでいるマンションが今エレベーター故障中で部屋が8階なんです...」
私のバカ。ちょっとくらい景色が良さそうだからってなんで8階の部屋なんて借りたんだ。
窓からの景色を楽しんだのなんて住み始めた初日だけだ。
桜場先生は呆れたように小さく息を吐くと、腕を組んで少し考え込んだ。
「……松葉杖で8階まで階段を登る気ですか。明日、確実に悪化して欠勤ですね」
「う、うぐ……」
ぐうの音も出ない。救命の現場で一人欠けたらどうなるか、私が一番よくわかっている。
「俺の家、ここから車で5分です。エレベーターもありますし、予備の部屋もあります」
桜場先生は淡々と、まるで明日の当番を決めるかのようなトーンで言った。
「俺の家来ますか?」




