第1話
ジリリリリ。ジリリリリ。
けたたましい音をあげる目覚まし時計を止めて、ベッドを離れる。
眠りが深かったのか、気持ちの良い朝だ。
いつも通り朝のメールチェックを行おうとスマホを開き、息が止まる。
「7時半!?」
1時間の寝坊である。慌てて目覚まし時計を見ると写し出されている「6:30」という数字。
どうやら故障したらしい。
慌てて洗面台に駆け込み、顔を洗い、コンタクトを入れ、歯磨きをしながら何をどうやって出勤時刻に間に合わせようかと頭を働かせる。
朝食は当然パス。
朝食よりかは優先順位が高いお化粧も、残念ながらしている場合ではない。
ほぼ1日中マスクを着ける職業なのが不幸中の幸いだろう。
車でいつも通勤しているが、今日は電車にしよう。オペが長引いて終電を逃すことが常なため、電車を使わず遠回りをして、毎日渋滞の激しい車通勤にしていたのだ。
歯磨きを終えて髪を一括りにする。最低限の見た目のマナーとして寝癖は直す。
コーディネートも何もなく、慌てて近くにあるセーターとジーンズを掴み、パジャマを脱ぎ捨てる。
いつもの通勤バッグを手に取って走って家を出る。
エレベーターを使おうとすると『故障中』の張り紙が貼ってある。
今日に限ってついてない。
慌てて8階分の階段を降りた。
医者になってすぐ、勤務する病院が決まってからここに越してきて2年。
当初は電車通勤の予定だったため駅近が絶対条件だった。
働き始めて1ヶ月もしないうちに定刻通りに帰れない新人医師の過酷な労働環境を目の当たりにして、今までの貯金を全て使って車を買った。
休日はあってもないようなもので、この町に来て2年も経つのに、近くの商店街すらまともに散策したことはない。ひたすら自宅と病院の往復である。
早々に駅近の有益性は必要なくなったが、もう一度引っ越す気力などなく、2年間駅近ゆえの間取りの割に高すぎる家賃を払い続けた甲斐あって、あっという間に最寄駅に到着した。
久しぶりの電車なので乗る電車を間違えないようにスマホをこまめにチェックする。
どうやらギリギリ間に合いそうだ。
夢を叶えて医者になったものの、喜びを噛み締めたのはほんの少しの間だけで、待っていたのは目まぐるしい日々だった。
昨日も夜中に急患が来て家に帰ってきたのは日を跨いでから。
1時間遅く起きたにも関わらず、電車に揺られてウトウトし始める。
意識が飛びかけて起きることを繰り返し、病院近くの駅に到着する。
改札を抜けたらすぐに病院がある。
今日も1日頑張ろう、そう思ってICカードを当てると通行止めがかかる。
『残金が足りません』
駆け足でチャージ場所へ向かい、お財布を取り出そうとするが見つからない。
冷や汗が出てくる。
何度も何度も探すが、ない。
昨晩の記憶を辿る。
病院を出る直前、病院の駐車場の自販機でカフェオレを買った。
その後車に乗り込み、座席横のスペースに財布を置いてきたのだ。
やらかした。絶体絶命。
遅刻うんぬんの話ではなく、このままでは病院に辿り着けない。誰かにお金を借りるか?
この時間に出勤する同僚も多いはずだ。
改札に向かう人混みと睨めっこする。
誰か知り合いがいますように。
「何してるんですか?」
低い声に顔を向けると同じ病院で働く桜場智喜先生が立っていた。
眠そうな顔を怪訝そうにこちらに向けている。
「あ、桜場先生、おはようございます。えっと、ちょっとお金を貸してくれそうな人を探してて」
「借金取りにでも追われてるんですか?」
「ちっ、違いますよ!お財布を家に忘れてきちゃって、改札を通れなくて困ってるんです」
桜場先生はへぇ、と興味のなさそうな相槌をうつ。
同じ救命科所属の医師だが個人的な話をしたことはほとんどない。患者には優しいがその他には無愛想な人、という印象だ。人とつるまず、まるで症例以外には興味がないといった様子の。
「じゃあ、頑張ってください」
桜場先生はそう一言発すると私の元を離れて改札に向かおうとする。なんて冷たい人だ。こんなに困ってる人がいるのに手を差し伸べないなんてそれでも医者?
「ちょ、ちょっと待ってください!お金、貸して欲しいです...!明日必ず返しますから」
桜場先生はこちらを振り返る。背が高いので見下ろされる形になる。
「どうぞ」
桜場先生は表情1つ変えずにお札を手渡した。
ありがとうございます、と深くお辞儀をして受け取る。頭を上げると桜場先生はこちらを気に留める様子もなく歩き出していた。
変な人...。
けど助かった。
朝から疲れたな、とため息を吐きながら病院に向かった。
病院に着き、更衣室に入ってスクラブに着替える。
救命科のスタッフルームに入ると既に桜場先生はスクラブ姿でデスクに座っていた。先輩女医の常田先生と目が合う。
常田先生は30代前半の、目鼻立ちがくっきりした派手な顔立ちの美人で、院内屈指のモテ女だ。噂では彼氏が月に一回変わるという。
「ちょっと、結衣ちゃん!」
大きな目をさらに広げてこちらに駆け寄って
くる常田先生の迫力たるや。
「な、なんですか、常田先生」
「結衣ちゃん、彼氏いたの?!」
「...はぁ?」
素っ頓狂な声が漏れる。
「なんですかいきなり」
「誤魔化してもバレバレ!化粧してない顔、慌ててねた髪の毛!私には分かるわ、彼氏と熱い夜を過ごしてそのまま彼の家から出勤したんでしょ」
お見通しなんだから、と常田先生はいたずらつ子のように笑う。
そっちが事実ならどんなによかっただろう。
彼氏はいません。ただの寝坊なんです。
女として欠けている自覚がビシバシと芽生えて胸が痛い。
「本当に違いますから!」
「それにいつも車なのに今日だけ電車通勤じゃない!」
駅から歩いてるところ見ちゃった、と常田先生は証拠を掴んだような口ぶりで言う。
残念ながら、寝坊なんです...。
「桜場くんもそう思わない?」
常田先生が面白そうに桜場先生を見ると、彼は心底興味がないといった様子でパソコンに目を向けたまま答える。
「…さあ」
相変わらず無愛想な人だ。
桜場先生とはほとんど話したことがないのに印象が強烈に残っているのはその"桜場”という名字のせいだろう。
よくいるわけではないが決して珍しくない名字。しかし私にとっては特別な思いがある。
初めてここに来た時、「桜場です、どうも」とニコリともせずに浅いお辞儀をした彼の言葉に一瞬固まってしまったくらいには。
初恋の人と同じ名字。
高校時代の青春を捧げたといっても過言ではないくらいに夢中になっていた男の子は、桜場傑という名前だった。
背が高くてただひたすらに優しくて、笑った顔がかわいらしい人。
頭が良くて学校では常に成績が1位だった。
「父さんみたいな医者になるのが夢なんだ」とよく言っていた。傑くんのお父さんは有名な名医だった。
片思いだったと思う。
誰にでも優しかったから、私へ向けられる善意もその他大勢に向けるものと同じだったはずだ。
それでも彼のことが大好きだったし、告白してフラれるくらいなら仲のいい友達でいたいと思っていた。
でも思いを伝えなかったことを今は後悔している。
彼は高校3年の夏、受験勉強が本格化する頃に自動車に轢かれて亡くなった。相手の運転手は、飲酒運転をしていたらしい。
「人を助けたい」と言っていた傑くんが、人に殺されたのだ。
彼のおかげで助かる命が未来にたくさんあったはずなのに。
私は今でも彼を忘れることができない。
大学に入ってから今まで彼氏はできたが長続きしないのは本気で愛せていないからだ、と親友の未奈に指摘されたことがある。
あの時告白してフラれてれば、今頃前を向けていたのだろうか。
それともあなたは、忘れられないことを望ん
でる?
答えの見えない問いが彼の目指していた医者になってからも続いている。
「やっぱりそうなんだ!いいなぁ!」
勘違いしたまま1人舞い上がる常田先生を訂正するのも面倒になって口を閉ざす。
目の前のデスクの桜場先生に目をやる。傑くんとは似ても似つかない無愛想な男。ちょっぴり変な人。それでも“桜場先生"と呼ぶたびに、決して会うことの出来ない傑くんの未来の姿を重ねてしまう。
今も生きていればあなたも桜場先生と呼ばれて、患者さんから慕われていたのだろう。
桜場傑先生。
天国で元気にしていますか?




