第15話
塾の授業が終わり、夜の9時を過ぎた頃。
暗くなった帰り道を歩いていると、少し先をフラフラと覚束ない足取りで歩く人影が見えた。
作業着の上に制服のブレザーを羽織ったその背中は、見間違えるはずもない。智喜だ。
「智喜……!?」
声をかけて駆け寄ると、彼はゆっくりと振り返った。街灯の下に照らし出された顔は土気色で、目元には濃い隈が落ちている。重い現場作業でもしてきたのか、制服のあちこちにうっすらと砂埃がついていた。
「……光島? なんでこんな時間に」
「それは私のセリフだよ! 智喜、顔色が……っ!」
返事をしようとした智喜の膝がガクリと折れ、身体が大きく傾く。
私は咄嗟に彼の腕を掴み、自分の肩に担ぐようにして支えた。伝わってくる体温が少し熱い。
「大丈夫!?」
「ちょっと疲れてるだけ…」
「大丈夫なわけないでしょ! 」
「先輩に言って早めに上がらせてもらったし」
もうこんな時間なのに、いつももっと遅くまで働いてるの…?
強がる彼の言葉を無視して、肩を掴む。こんな状態で一人でアパートに帰せるわけがない。
「もういい、うちに来て!」
「なんでお前の家に……おい、光島!」
嫌がる智喜を引きずるようにして、私は彼を自宅へと連れて行った。
「ただいま! お母さん、大変なの!」
玄関のドアを開けると、奥からお母さんが顔を出した。
私の肩にぐったりと体重を預けている智喜を見るなり、お母さんは驚いて目を丸くした。
「あらあら、どうしたの!? 結衣、そのお友達……!」
「学校の同級生なんだけど、早瀬智喜くんっていって…バイト帰りに倒れそうになってて」
状況を察したお母さんは、すぐに智喜の腕をとって居間へと案内してくれた。
「いいから、上がりなさい! 寒かったでしょう、そこのソファに横になって」
「いえ……俺、こんな汚れ……」
「いいのいいの。気にしないで」
居間に通され、暖かい毛布をかけられた智喜は、あまりの出来事に呆然としている。
お母さんはすぐにおでこに貼る冷却シートを持ってきて彼の額に貼り、温かいお茶を差し出した。
お父さんも仕事部屋から出てきて、「大丈夫か? 病院行くか?」と心配そうに顔を覗き込んでいる。
智喜は戸惑いと気まずさで、身を縮こませていた。
「結衣、夕飯まだだったでしょ? 智喜くんも食べていきなさい。ちょうどお鍋がたくさん余ってるのよ」
「……あ、あの、俺は本当に申し訳ないので……」
「遠慮しないの! 男子高校生がそんなに痩せこけてたらダメよ。しっかり食べなさい!」
お母さんの強引な押しに負け、智喜は居間の食卓に座ることになった。
テーブルに並べられたのは、温かい豚しゃぶ鍋と、山盛りの炊きたてのご飯、そして手作りの卵焼き。
智喜は箸を持ったまま、湯気が立つお茶碗をじっと見つめて固まっていた。
「智喜? 食べられない?」
私が尋ねると、彼ははっと正気に戻り、小さく首を振った。
「……ううん。いただきます」
智喜は一口、鍋の具材を口に運んだ。
咀嚼し、飲み込んだ瞬間、彼の瞳が大きく揺れた。それから、吸い寄せられるようにご飯を口に放り込み、黙々と、だけどどこか愛おしそうに箸を動かし始めた。
「美味しい?」とお母さんが聞くと、智喜は口に食べ物を詰めたまま、深く深く頷いた。その目元がほんの少しだけ潤んでいるのを、私は見逃さなかった。
「だぁれ…?」
匠が目を擦りながら寝室から出て来る。
「あ、匠、起きちゃったのね。お姉ちゃんのお友達の智喜くんよ」
匠は嬉しそうに智喜の膝の上に乗る。
「こら、匠、食べてるんだから邪魔しないの!ごめんね、智喜くん」
「いや、いいんです」
お母さんの言葉に智喜は優しく笑う。
「ねえねえ、食べ終わったら僕と戦いごっこしよ」
「いいよ」
「仮面ライダーベルト貸してあげる」
「いいの?」
「うん、特別ね!」
匠にもこんな可愛い時代があったのだ。
10年後は反抗期真っ只中で、口を開けばうるせえだのババアだの暴言ばかり…
そんなこと今のお母さんに伝えたら、ショックで倒れちゃうかもな。
お腹いっぱいご飯を食べ、体調が少し落ち着いた智喜を、私はアパートの近くまで送ることにした。夜の風が心地よく頬を撫でる。
「……光島の家、温かいな」
智喜がぽつりと呟いた。
「ううん、お母さんたち押しが強くてごめんね」
「……嬉しかった。ごちそうさまでしたって、お母さんに伝えてくれ」
「自分で伝えてよ。また食べに来ればいいじゃん」
私の言葉に、智喜はふっと柔らかく目を細めた。
「また匠とも遊んでやって」
「あんなに泣いてくれるなんて思わなかった」
智喜が帰る時、帰って欲しくなくて匠が大泣きして大変だったのだ。
今頃泣き疲れて寝てるだろう。
私の胸の中にはずっと引っかかっていた疑問があった。
「ねえ……智喜。授業中もずっと寝てるし、こんな夜遅くまで身体を使う現場のバイトして……なんでそこまで無理するの? 10年前……ううん、高校生の智喜は、こんなに無理してなかったでしょ?」
智喜の足が止まった。
彼は夜空を見上げ、深く息を吐き出した。
「……学費を稼がないといけないから」
「退学しないため?」
「ああ」
智喜はゆっくりと私の方を振り返った。その瞳には、かつての冷たい諦めではなく、真っ直ぐで温かい光が宿っていた。
「……今、楽しいんだ」
「え……?」
「光島がいて、桜場がいて……クラスの奴らがいて。こんな風にくだらないことで笑って、誰かの家で温かい飯食って……俺、ずっとこんな時間を知りたかったんだと思う」
智喜は照れくさそうに頭を掻きながら、小さく笑った。
「学校に行きたいって思ってる。お前たちと……普通に学校通って、卒業したいんだ」
胸がぎゅっと締め付けられた。
「でも……! だからってそんなに無理して、身体壊したら意味ないよ。 倒れちゃったら、元も子もないじゃない」
私の声が震える。必死に涙を堪える私を見て、智喜は優しく微笑んだ。
そして、私の頭にポンと手を乗せた。大人になった桜場先生が、たまに見せてくれていた優しい表情だった。
「大丈夫だよ」
「……何が大丈夫なのよ」
「そんなに心配するな。身体を壊す前に、ちゃんと解決するから」
「解決って……学費、どうするの?」
私が尋ねると、智喜は少しだけ寂しそうな、だけど固い決意を秘めた瞳で私を見つめ返した。
「……大丈夫。学費の当てはあるから」
「え……?」
それ以上、彼は何も語らなかった。
だけど、その静かな言葉の裏に、私がまだ知らない大きな覚悟が隠されていることだけは、ハッキリと伝わってきた。




