番外:小さなうさぎ
父に娘として認められてから、ドラリスは正式に、青血貴族の娘としての生活を送るようになった。
これには良い面も悪い面もあった。もともとの彼女も、食べる物や着る物は上等で、召使いに世話をされていただけだったが、今は堂々と美しい服を着て、さまざまな場に出席できる。けれど身の回りには、強制的に多くの護衛が付き、いつも彼女を守っていた。
それに、ようやくパパと毎日会えるようになったし、こっそりパパと呼ばなくてもよくなった。
彼女のパパは、彼女の前ではこの上なく優しく、彼女がどんな宝物を欲しがっても買ってくれて、彼女に腹を立てたことは一度もない。けれど、他の人たちにはあまり優しくない。その点は、彼女にも分かっていた。
部下を叱りつけたあと、ヤンはドラリスのほうに顔を向け、一瞬でいくらか柔らかい表情になった。彼は彼女の髪を撫でて言った。「お腹は空いたかい?何が食べたい?」
ドラリスは顔を上げて言った。「パパ、質問してもいい?もしパパが答えられなかったら、わたしのお願いを聞いてくれる?」
ヤンは目を細めて言った。「もちろんいいとも、お姫様」
「パパ、どうして今まで、わたしを迎えに来てくれなかったの?」
ヤンは何も答えなかった。
ドラリスは笑顔を作って言った。「答えられないんだ。だから、わたしのお願いを聞いてね!」
ヤンは言った。「何が欲しいんだい?パパが何でも買ってあげるよ」
「ラヴェニお姉ちゃんに会いたい」
ドラリスは小さい頃に、何度かラヴェニに会ったことがあった。陶器のように壊れやすく繊細な外見なのに、内面は太陽のように明るい雰囲気を持っている。そのギャップが、強く印象に残っていた。
今回、ラヴェニが自分をエドウィンに攫われるように仕組んだのだと知って、ドラリスはどうしても問いただしたかった。
ラヴェニは、どうしてそんなことをしたのだろう?
ドラリスがラヴェニとカードで遊んだ印象では、ラヴェニは運が良いことが多く、その打ち方は誠実で、良い札を適切な位置に置く、特別に高度な策略を使う必要のない戦い方だった。ドラリスは、この親しみやすいお姉さんが、自分を危険にさらすなんて思ってもみなかった。
ヤンは他の贈り物で気を引こうとしたが、ドラリスはすべて断り、最後にはヤンも根負けして、ラヴェニを呼んだ。
そのころ、ラヴェニは国境へ出発する準備をしていた。王子を守り、アクミリン家の少主を討った功績で、ラヴェニは本来なら褒賞を受けるはずだったが、彼女は自分が実はアクミリン家の血を半分引いていると「調べ出し」、それを理由に、四王子との婚約を取り下げた。王族はそれでも、ラヴェニのもう一つの母方の家であるロゼン家に褒賞を与え、ついでにラヴェニに、アクミリン家がかつて掌握していた国境の領地の調査に赴かせた。
ラヴェニのもう半分の血が、クランシュ家直系のものであることは、ひそかに伏せられた。ヤンによれば、それがラヴェニの望んだ結果で、彼女はもともとロゼン家を継いで、遠くへ出て発展したいと考えていたのだという。ヤン自身も、ラヴェニがクランシュ家との関係を突き止められることは望まなかったので、彼女の望みを叶えてやったのだ。
これらのことは、ドラリスは聞いたあとで頭の中で整理してみたが、どうして大人たちがそうするのか、あまりよく分からなかった。それは彼女の関心の中心でもない。彼女が知りたいのは、ただ、知っている人が、どうして「悪い人」になるのかということだけだった。
ラヴェニに会ったとき、記憶の中よりずっとやつれて痩せた姿に、ドラリスは一瞬、人違いだと思ったほどだった。
ラヴェニは心ここにあらずの様子で、ドラリスを見るなり言った。「ごめんなさい、ドラリス」
ドラリスは尋ねた。「どうして、わたしを売ったの?」
ラヴェニは言った。「あなたの年頃には難しすぎる話だけど、わたしがやろうとしたことには、あなたの立場が必要だったの。あなたのお父さまはあなたをとても可愛がっているから、売られる子があなたでなければ、やり方を変えてはくれなかった。本当にごめんなさい。あなたがこの機会をくれなかったら、あなたのお父さまは、二度とわたしをあなたに会わせてくれなかったでしょうし、こうして謝ることもできなかった」
ドラリスは小さな声で言った。「わたし、今、毎日悪い夢を見るの」
「ごめんなさい」
ドラリスは言った。「変な夢なの。エドウィン少主は、わたしが怖くて泣いたとき、髪を整えてくれた。その夢ばかり見るの。エドウィン少主は、わたしを叩かなかった。叩かれたのは一度だけで、パパが知ってすぐにその先生を替えてくれた。でも、エドウィン少主が髪を整えてくれたとき、わたし、初めて先生に叩かれたときよりもっと怖くて、すごく震えたの。どうしてなのかな。あの人がいないときは、ずっと手錠を擦ってたの。手が擦り切れるまで擦っても、手錠は開かなかった。それから、机の上に紙があるのに、ペンがないのに気づいて、召使いに、息苦しいから窓を開けてって言って、隙を見て紙を鳥に折って、外に投げたの。全部、すごく怖かった。それで、帰ってきたら、パパが、ラヴェニお姉ちゃんがわたしを売ったんだって言ったの」
ラヴェニは目を閉じ、再び開いたとき、その奥には苦痛があった。「もう、あなたに謝ることもできないわ。わたしには、許される価値なんてないんだもの」
ドラリスは言った。「パパが言ってた。お姉ちゃんの親友が、お姉ちゃんをかばって怪我をして、まだ目を覚まさないって」
その話になると、ラヴェニは少し声を荒らげた。「それは計画にはなかったの!わたしがやったことは全部、自分の命を賭けてのことだった。まさか、あの子がわたしをかばうなんて思うわけがないでしょう!わたしは最初から最後まで、自分の力で家を倒そうとしていた。友達の命を利用するつもりなんてなかった!」彼女は少し落ち着いてから言った。「わたしが、結果を十分に考えていなかったの。あなたのことも含めて」
ドラリスは言った。「お姉ちゃんのこと、いい人だと思ってた」
ラヴェニは黙ったあとで言った。「わたしにも、もう分からないの。何がいい人で、何が悪い人なのか」
ドラリスは首を振って言った。「わたしが知ってるのは、わたしを愛してくれる人と、愛してくれない人だけ」
ラヴェニは苦く笑って言った。「多くの人が、一生をかけて、そんな人生を求めているのよ」
ドラリスは眉をひそめて言った。「よく分かんない。わたしのこと、嫌い?」
ラヴェニは言った。「わたしはあなたが大好きよ。いい叔母になりたかった。それなのに、わたしはあんな決断をした。今回、わたしが一番申し訳ないと思っているのは、あなたに対してよ。あなたには、何の罪もないのに」
ドラリスは言った。「わたし、聞いたの。わたしは生まれたことが間違いだって。それに、他の人が持ってないものをたくさん享受してるから、誘拐されても当然だって」
ラヴェニはすぐに言った。「そんなの、本当じゃない!あなたはいい子よ」
ドラリスは言った。「あと、ラヴェニお姉ちゃんのおかげで、パパに認めてもらえる機会ができたんだから、感謝しなさいって言う人もいた」
ラヴェニは言った。「その言葉も違うわ。わたしのしたことが、たとえあなたに何か利益をもたらしたとしても、わたしがあなたに負っている借りは変わらないもの」
「エドウィン少主は、悪い人?」
「ええ。少主なんて呼ばなくていい。彼に敬称をつける資格はないわ」
「じゃあ、パパは悪い人?他の子たちが誘拐されてるって知ってたのに、誰も助けなかった」
ラヴェニは答えた。「彼が良い人なのは、あなたに対してだけよ」
その答えに、ドラリスは長いこと考え込んだ。
再びパパに会ったとき、「欲しかった答えは手に入ったかい?」と尋ねられた。
ドラリスはヤンに尋ねた。「パパ、わたしのことがすごく大切だから、守るために、前はわたしを隠してたんだよね?」
ヤンは言った。「ああ、とてもとても大切だ。お前が閉じ込められているのを見たとき、危うく我を失うところだった。ごめんよ、これからはもう二度と、お前を危険な目に遭わせない。昔は、あれがお前のためだと思っていた。間違いだったんだ」
それは、ドラリスが聞きたい答えではなかった。
彼女は尋ねた。「もしわたしがパパの娘じゃなかったら、それでも愛してくれる?」
ヤンは言った。「いつまでも愛しているよ」
ドラリスは言った。「それは、パパがわたしのパパだからでしょう?パパは他の人には優しくない。他の子たちもエドウィンに売られてるって知ってたのに、止めなかった」
ヤンは次第に真剣な顔になって言った。「ドラリス、大人のことには、お前には分からないこともある。大きくなれば分かるようになる」
ドラリスは言った。「ラヴェニお姉ちゃんが言ってた。わたしは、本当ならパパと同じ人間になるところだったけど、今はもうならないって」
ヤンは言った。「彼女の言うことは聞くな。お前が羨ましいんだ。お前はクランシュ家の娘で、彼女は認められていないからな。お前のほうが、彼女よりずっと尊い」
ドラリスはヤンをじっと見つめて言った。「わたしはただ、どうして他の子たちを助けないのか知りたいだけ」
ヤンは口を開いて何か言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。
ドラリスは言った。「他の子たちは、小さな檻に閉じ込められてるって聞いた」
ヤンはドラリスを抱きしめた。
ドラリスの胸の中の、あの奇妙な気持ちは、それでも消えなかった。
以前、パパは紙の折り方を教えてくれて、いろいろな贈り物を持って会いに来てくれた。パパは、彼女を少しでも軽んじる召使いを怒鳴りつけ、時が来たら、必ず尊い令嬢に戻してやると言ってくれた。
今、ここに来て、最初は同じように良い人だと思っていたエドウィンが、冷酷に自分を騙し、傷つけたのを見た。それなら、パパにも、二つの顔があるのではないか?ラヴェニお姉ちゃんはパパをあんなに嫌っていて、パパも多くの悪いことをしたと言っていた。
パパが自分を愛していることは、ドラリスにも分かっている。けれど、それだけで、十分なのだろうか?
ドラリスは、自分の髪のリボンとメモを持っていったエルフ、マリリンのことを思い出した。あのときドラリスは怖くてたまらず、一時は泣きやまず、たくさんのことを話した。うさぎは寂しいと死んでしまうと聞いたこと、パパがめったに会いに来てくれないから、自分も寂しくて死んでしまうかもしれないと怖いことまで。
マリリンは、紙で小さなうさぎを折ってくれて、こう言った。「うさぎって可愛いでしょう?でも実は、寂しくても死んだりしないの。あれは言い伝えよ。ドラリスも同じ。可愛い小さなうさぎに見えるけど、本当はとても勇敢で強いのよ。わたしと約束する。必ず、あなたのパパを連れて会いに来るわ。ドラリス、パパを何日か待てるかな?」
ドラリスは、マリリンはいい人のようだと思ったが、エドウィンだって、いい人だと思ったことがある。だから、やはりマリリンの言った通り、パパ自身に迎えに来てほしいと思った。その後、パパは本当に来てくれた。マリリンは、誓いを破らなかった。
ただ、ドラリスは今、パパを疑い始めている。パパに抱きしめられているのに、胸の奥が冷たいと感じていた。
部屋に戻ると、彼女はパパから教わって折った紙の鳥を、すべてほどいて、うさぎに折り直した。
彼女はゆっくりとほどいた。紙の鳥を一羽ほどくたびに、パパがどんなふうに彼女の手を握って、辛抱強く折り方を教えてくれたかを思い出すからだ。紙に付いた折り目は、そのまま伸ばして消すことはできない。いつまでもそこに残る。けれど、彼女はこの紙を、そのままゴミ箱に捨てて、何もなかったかのように新しい紙を取り出すことはできなかった。
「うさぎって、本当はとても勇敢なんだから」
彼女は自分にそう言い聞かせ、ラヴェニの最後の言葉を思い出した。
ラヴェニは言った。「あなたは、クランシュ家の本当の娘よ。違う選択をする力があるわ。もし何か考えがあるなら、大きくなってから、わたしを訪ねてきなさい。わたしは国境で、やり直すから」
ドラリスは、ラヴェニがいい人なのか悪い人なのか、やはり確信が持てなかった。
でも、ラヴェニは正直な人だった。
檻の中の鳥のように、自由を支えきれない翼を持つよりも、ドラリスは、おとなしいうさぎでいたかった。無害なふりをして、静かに大きなうさぎに育っていくのだ。
身分を公表する舞踏会で、ドラリスは、これ以上ないほど華やかな装いをしていた。これは、彼女が以前から夢に見ていたことだった。けれど今この瞬間、彼女は全身が落ち着かなかった。
この場に、心から彼女を祝福している人はいるのだろうか?
四王子が祝いの言葉を述べに来たとき、ドラリスは、ラヴェニが四王子について語った評価を思い出した。
あのとき、ドラリスは尋ねたのだ。「みんな、あの人は完璧な王子さまだって言うのに、どうして、本当に結婚しなかったの?」
ラヴェニは苦く笑って言った。「確かに、彼は完璧よ。わたしなんかが、彼にふさわしいわけがないでしょう?」
ドラリスは、そこに別の意味を聞き取った。
「ラヴェニお姉ちゃん、王子さまのことが好きなの?」
ラヴェニは、自分にも分からないと言った。
今、四王子を目の前にして、エドウィンに一度騙されていなければ、ドラリスはきっと、すぐに四王子に夢中になっていただろう。彼は、おとぎ話に出てくる王子さまそのままだった。優しく、礼儀正しく、美しく、優雅。彼女はこっそり観察して、誰に対しても四王子が同じ態度であることに気づいた。背を向けた途端に別の顔になったりせず、少しも苛立つ様子がない。
パパが、この四王子も、以前は彼女と同じように、本当の身分を隠して暮らしていたと話していたのを思い出すと、彼と話してみたくなった。
「四王子殿下」
四王子は尋ねた。「ドラリスさん、今日の舞踏会には慣れましたか?」
ドラリスは言った。「舞踏会に出るのは初めて。楽しくない」
四王子は尋ねた。「どうしてですか?」
「みんながお祝いしてくれるのは、わたしがパパの娘だからで、本当にわたしのことを気にかけてるからじゃないもの」
「分かりますよ。確かに、それは嫌なものですね」
「王子殿下も、そういうふうに感じることがあるの?」
「王子だと知られてから、特にはっきりしたかな。元の学院にはもう通えなくなって、みんなが僕が誰なのかを知って、僕に取り入ろうとしたり、怖がったりするようになった」
「王子殿下が王子殿下だと知られる前は、みんなはどんな感じだったの?」
四王子は言った。「道で昼食に誘ってくれる人もいたし、授業のノートについて話してくれる人もいた。今は皆が恭しい口調で、今日はいかがお過ごしですかと聞いてくる。宮廷にいた頃と同じようにね」
ドラリスは尋ねた。「サイフィ学院に通っていたって聞いたけど?」
「ええ」
ドラリスは目をくるりと動かして言った。「今日はわたしのお祝いの舞踏会でしょ。プレゼントを一つ、お願いしてもいい?」
「何が欲しいのですか?」
「サイフィ学院で、ここ数日、花火があるって聞いたの。お父さまは行かせてくれない。四王子殿下、連れていってくれない?」四王子がためらっている間に、ドラリスはわざと言った。「閉じ込められてたとき、すごく怖かった。今もお父さまは遊びに行かせてくれなくて、毎日部屋の中にいて……すごく、寂しい……」
四王子は不憫そうな表情を浮かべて言った。「あなたのお父上に聞いてみましょう」
ドラリスはすぐに言った。「お父さまは許してくれないから、殿下にお願いしたいの。ちょっとだけ見せてくれればいいの」
四王子は、噂に聞く通り心の優しい人で、ドラリスの憐れを誘う眼差しでの頼みに、ついには承諾してしまった。
翌日の夕方、四王子はこっそりドラリスを連れ出した。気づかれないように、四王子は茶色の髪に緑の瞳へと姿を変え、同じく貴族が多いサイフィ学院の学生たちの中に混じっても、浮かない姿になった。ドラリスは彼の妹に扮し、外見を同じように変えた。
二人は自然に手を繋いだ。エドウィンに騙されたばかりだというのに、四王子はドラリスに、不思議な頼もしさを感じさせた。彼の瞳は、あまりにも誠実だった。
ドラリスは何気なく尋ねた。「ラヴェニお姉ちゃんのこと、見たことあるでしょ?きれいだよね?」
四王子は言った。「ええ、そうですね」
「じゃあ、好きになった?」
ドラリスは、四王子がためらったり、口ごもったりすると思っていたが、意外にも、彼はあっさり言った。「彼女には、尊敬の念しかありません」
ドラリスは食い下がった。「きれいなお姫様は、王子さまと一緒になるものじゃないの?見た瞬間に好きになるものじゃないの?」
「愛は、外見だけで成り立つものじゃありません。誰もが、それぞれの美しさを持っていて、僕が人を愛するときに見るのは、その人の心なんです」
「それとも……ラヴェニお姉ちゃんがお姫様じゃないから?どこかの国のお姫様だったら、好きになったの?」
四王子はすぐに言った。「絶対に違います!生まれは関係ありません」
「でもラヴェニお姉ちゃんは、王子さまのこと、ちょっと好きだったみたいだったよ」
四王子は呟いた。「そう、だったのか……」
ドラリスはさらに尋ねた。「今聞いたら、ラヴェニお姉ちゃんのこと、好きになる?」
「僕たちは、お互いを知る機会を逃してしまいました。本当に残念です。愛か愛でないかはさておき、僕は彼女と友達になりたかった。けれど、僕たちは、一時の盟友にすぎなかった」
ドラリスがさらに聞こうとしたとき、一人の人物が彼らに向かって歩いてきた。
その人は黒髪に黒い瞳で、ドラリスは、自分が唯一見たことのある黒髪黒目の男性——エドウィンを連想した。けれど目の前のその人はとても穏やかな雰囲気で、エドウィンの気迫とはまるで違い、ドラリスは少しも怖くなかった。
その人は言った。「弦羽」
四王子は驚いて言った。「どうして僕だと分かったんだ?」
その人は笑って言った。「見れば分かるよ」
四王子はドラリスに言った。「ドラリス、この人は僕の親友です。空と呼べばいい。あなたが折った紙を拾ってくれた人で、マリリンとも友達なんです」
ドラリスは空と握手をした。
空は言った。「こんにちは。マリリンから聞いてるよ。君は勇敢で賢いって」
四王子は空に尋ねた。「最近は、あまり学院に来ていなかっただろう?今日はどうして急に?」
空は言った。「カワ先生が、学院の中に、僕が興味を持ちそうな場所があるって教えてくれたんだ。ちょうどいい、一緒に行かない?」
ドラリスは先に言った。「行く!」
期待いっぱいの彼女を見て、四王子も承諾した。
空は二人を指定の場所へ連れていき、ドラリスに紹介した。「ここは工学部で、ここの学生は、思いもよらないものをたくさん開発してるんだ。先生が教えてくれた部屋は、ここにある」
そこは埃だらけの小さな部屋で、壁には立て鏡が一枚あった。それもやはり埃をかぶって灰色にくすんでいる。ドラリスが疑わしそうに目を細めて、尋ねようとしたとき、四王子が先に鏡へ歩み寄った。
鏡は実は扉で、開けると、向こう側は真っ暗だった。
四王子は空に尋ねた。「この向こうには何が?」
空は言った。「先生は、工学部の新作としか言ってなかった。悪い気持ちを洗い流せるらしい。ある種の療法みたいなものかな」
四王子はドラリスを見て、腰を折って、彼女に招くように手を差し出した。
ドラリスは手を伸ばした。
鏡の扉の向こう側に来ると、ねっとりした感触が広がった。
ドラリスは悲鳴を上げ、ローブに滴り落ちた濃い青の絵の具を払おうとしたが、かえって塗り広げてしまった。
天井からさまざまな絵の具が滴り落ち、空も四王子も浴びてしまった。だが不思議なことに、その絵の具は、彼らの顔や体の他の部分には、まったく直接落ちてこなかった。
ドラリスが尋ねようとしたとき、突然、強い恐怖を感じた。
小さな部屋に閉じ込められていたとき、エドウィンは彼女に暴力を振るわなかった。ただゆっくりと、帳簿を整理していた。
彼は言った。「貴族の子供は繊細だから、叩くどころか、叱ることさえできない。そうしておけば、君たちがこの先、『主人』の罰を受けるとき、生まれて初めての種類の恐怖が引き出される。今、怖いか?その後に比べたら、今の恐怖など、千分の一にも満たない」彼は首を振った。「いや、何が起きるかは教えられない」
ドラリスは、再び口を塞がれる前に尋ねた。「昨日、大声で泣いてた男の子は?」
エドウィンは言った。「取引に失敗した。もう価値がない」
しばらくして、彼はようやく再びドラリスを見て、はっと気づいたように言った。「分からないのか?賢い子だと思っていたが。彼は死んだんだ」
ドラリスは怯えて声も出せなかった。エドウィンは彼女を見て言った。「そんなに小さいと、死ぬというのがどういうことか、想像しにくいだろう?何もなくなるということだ。じきに、君を覚えていた人も君を忘れる。君は、この世界から完全に消えるんだ」
誰も、もう彼女を覚えていない。
他の人はまだいい。もともと彼女を大切にしていなかったのだから。
でも、パパまでもが、彼女が「死んだ」あとすぐに、彼女のことをすっかり忘れてしまうのだろうか?
その記憶を思い出したドラリスの体は、青い絵の具にまみれていた。
空はしゃがんで彼女に言った。「心配しないで。ここは、いろんな感情を思い出させるけど、最後にはきれいに洗い流されるらしいよ」
彼が言い終えたばかりのとき、赤い絵の具がまた滴り落ちてきて、ドラリスの服はまた汚れた。
今度、彼女が思い出したのは、数日前のことだった。
舞踏会なんて、いらない!きれいに着飾った貴族たちは、彼女の前ではうやうやしくしているようで、陰では、彼女の血が純粋でないこと、母親が誰かすら分からないことを笑っている。それがドラリスを、とても怒らせた。大人だけでなく、彼女より小さな子供たちまでもが、彼女が隅に隠れると、他の人に「私生児だって、恥ずかしいね!」と言っていた。怒りと恥ずかしさで、ドラリスは壁の陰から出ていけなかった。
ドラリスは、こっそり耳を澄ました。この人たちの口から、彼女は聞いてしまった。もしヤン・クランシュが正式に誰かと結婚して、新しい娘が生まれたら、ドラリスのような不名誉な子は、すぐに忘れ去られてしまうだろう、と。
パパのあの愛情のこもった振る舞いが、すべて、見知らぬ別の子供に移ってしまうのだと思うと、ドラリスは絶望を感じた。
彼女はスカートの裾を握りしめて皺だらけにし、涙を何度も落としては拭い、空気に向かって笑顔の練習をした。
泣いてはだめ。
クランシュ家の子らしく振る舞えば、あんな噂は本当にならないし、パパも愛し続けてくれる。
ようやく涙を止められるようになると、彼女は笑顔を貼りつけて出ていき、「クランシュ家のお嬢さん」として、この偽りの人たちと言葉を交わした。
次の瞬間、黄色い絵の具が体に染まると、まったく違う感情が胸に入り込んできた。
彼女は思い出した。何度か、ミチェルおじさんが、家に会いに来てくれたことを。
彼は気まずそうに言った。「君は、何が好きなんだい?」
「宝石」
「え?これしか、用意してなくて」
ミチェルおじさんは、ピンク色のうさぎのぬいぐるみを取り出して、気まずそうにそう言った。
ドラリスはぬいぐるみを抱いたまま、ミチェルおじさんと、しばらく無言で見つめ合った。
「君は……気に入ったかい?」
ドラリスはそのとき、まだ幼すぎて、どう伝えればいいのか分からなかった。嫌いではなかった。
ミチェルおじさんは、ときどき、こっそり彼女を外へ連れ出した。
今思い返すと、本当にめちゃくちゃだった。小さな女の子を連れていくなら、花園でケーキを食べるのが普通なのに、ミチェルおじさんは、あろうことか、釣りに連れていったのだ。
釣り竿に当たりが来るのを待つあいだ、ミチェルおじさんは、あまり関係のない話をたくさんし始めた。今日生まれたのは二頭とも小さな雌牛で、雄の子牛のように、どこかへやらなくて済む、といったこと。彼は、ドラリスに、生まれたばかりの子牛の名前をつけてほしいと頼んだ。
ドラリスは唇を尖らせた。牛の名前なんて、つけたくない。牧場へ行って、地面いっぱいの牛の糞と、蒸し暑くて臭い光景を見てから、牛は好きじゃなくなった。
「おじさん、つまんない」
ミチェルは慌てて釣り竿を置いて言った。「じゃあ、蛙を捕まえに行くか?蛙の鳴き声が聞こえるだろう?」
「蛙は気持ち悪い」
「じゃあ……あっ、竿が動いてる!魚がかかったぞ!」
ミチェルおじさんの手伝いで、ドラリスは素早く釣り糸を巻き取り、彼女の腕ほどもある魚を見事に釣り上げた。
ミチェルおじさんは興奮して言った。「大きな魚だ!すごいじゃないか!」
「ふーん……」
最初はドラリスもまだ興味がなさそうだったが、その日はなぜか、釣り竿には魚が次々とかかり、まるで池中の魚が、我先にと彼女に献上されようとしているようだった。ミチェルおじさんが何度も歓声を上げるうちに、ドラリスも、自分は本当に少しすごいのかもしれないと思い始め、いい気分になっていった。
昼食は川辺での焼き肉で、すべてミチェルおじさんが自分の手でやってくれた。動きが遅くて、ドラリスはずいぶん待たされ、じれったそうに言った。「おじさん、つまんない!」
ミチェルおじさんは、焼き上がった最初の一切れを箸でつまみ、火傷しない温度まで冷ましてから、ドラリスに食べさせた。「おいしいかい?」
ドラリスは苦みを飲み込んで言った。「焦げてる」
「あっ……じゃあ、先にマシュマロを焼こうか?君は、お菓子は好きかい?」
そのときは、ずっとつまらないと思っていたのに、あとから思い返すと、その日は意外と楽しかったのだ。
パパにもらった贈り物が気に入らなければ、パパはすぐに、もっと高価で、もっと希少なものを買ってきてくれる。ミチェルおじさんは、すぐにあたふたしてしまう人で、気に入らないと言われると途方に暮れた。けれど、そのうろたえた様子が、ドラリスには面白かった。
ミチェルおじさんは、パパとはまったく違った。ドラリスが、召使いにいじめられたとか、陰口を言われたとかをパパに話せば、パパはその人を消してしまう。ミチェルおじさんの対処のしかたは、そうではなかった。
おじさんの下で働く人が、こっそりドラリスに言ったことがある。「あなたのおじさんがこんなに世話をしてくれているんだから、礼儀正しくしなさい。贈り物をもらって不満そうな顔をしない。好き嫌いをしない。そんなにお嬢様ぶらない。お椀も洗えないなんて」
ドラリスは、そのことをミチェルおじさんに話した。
夜、ミチェルおじさんは、その人をドラリスの前に連れてきた。
その人は、口先だけでドラリスに謝った。
ドラリスは不満そうにミチェルおじさんを見て尋ねた。「この人、明日辞めさせるんじゃないの?」
ところがミチェルおじさんは言った。「あの発言は確かに間違っていたが、だからといって、解雇するわけにはいかないんだ」
ドラリスは言った。「この人、今だってわたしにお辞儀もしてないのに!」
最初、ドラリスは不満だったが、のちに、パパが、言葉を一つ間違えただけの小さな召使いたち——彼女と同じくらいの年頃の召使いを責め打つのを見て、彼女は、別のことを考えるようになった。
もしかすると、ミチェルおじさんのやり方のほうが、正しいのかもしれない。
パパは彼女に腹を立てたことは一度もなかったが、他の人を罵る姿を見ていると、ドラリスも怖くなることがあった。いつの日か、本当に他の人たちの言う通り、自分がパパの寵愛を失って、あの召使いたちのように、パパにひどく罵られる日が来るのではないかと。
そのことが、彼女をとても怖がらせた。
ミチェルおじさんと一緒に過ごす時間が増えるにつれて、ドラリスは、持ってはいけないような考えまで抱くようになった。
もし自分が、ミチェルおじさんの娘だったらよかったのに。
鮮やかな黄色の絵の具が、ドラリスの服をさらに汚したとき、ミチェルおじさんの思い出が、次々と溢れ出した。
もし自分が、パパの娘じゃなかったら……でも、ミチェルおじさんは、彼女が戻ってきたのを見ても、パパほど感極まった様子ではなく、ただほっと息をついただけだった。まるで、自分の家の牛が一頭迷子になって、見つかったときのように。
ドラリスはラヴェニに言ったことがある。誰がいい人で誰が悪い人か分からない、ただ、誰が自分を愛してくれるかだけ分かる、と。
ミチェルおじさんよりも、パパのほうが、きっと自分を愛している。
それなら、どうすればいいのだろう。
四王子はドラリスを抱き上げ、通路の反対側へ向かって足早に歩いていた。
彼は空に言った。「ここは、いったいどうなっているんだ?」
空は言った。「絵の具の色は、それぞれ違う気持ちなんだ。感情が具象化されてる。これが、いわゆる『洗い流す』ことの、第一歩なんだと思う」
ドラリスは、空気中に濃く漂う絵の具のにおいを嗅いで、文句を言った。「息ができない!」
四王子は言った。「すみません。ですが、ここは害を及ぼすことはなさそうです。少し我慢すれば、すぐに出られますから」
ドラリスは言った。「もう耐えられないよ!」
通路の反対側から、風と水流が彼らに向かって押し寄せてきた。水は横向きの雨のようだった。その風と水も、やはり彼らの顔を避けたので、ドラリスは、ちゃんと息ができた。
予想していたようなびしょ濡れの不快感は訪れず、ドラリスが下を見ると、ローブの上の無惨な汚れが、水の元素によって、元の翡翠色に洗い戻されていくところだった。風は暖かく、濡れた部分をすぐに乾かした。
それらの色が剥がれていくとき、彼女の心は、不思議なほど軽くなった。
怖さ、怒り……言葉にできない気持ちが、ゆっくりと、すべて洗い流されていく。まるで、きれいになっていく自分の服のように。
終わりのほうになると、彼女は四王子の腕を抜け出して、自分で降りて歩いた。
すごくさっぱりする。それに、お日さまに干したときのにおいがする。
ドラリスは笑って、廊下の突き当たりの扉を開けた。
外は、樹上の家のテラスに通じていた。ほんの短い道のりに見えたのに、なんと、工学部から自然学部へと抜けていたのだ。
光を放つ希望の樹の実の間に立って、ドラリスはにこにこしながら、二人のお兄ちゃんを振り返った。
空と四王子は、どちらも微笑んで彼女を見ていた。
空は尋ねた。「少しは、気分がよくなった?」
ドラリスは力強く頷いた。「すごくよくなった!これからは、もう悲しくならなくていいんだ」
空は言った。「ここの魔力は一時的なものなんだ。明日、嫌なことがあったら、やっぱり悲しくなるよ」
ドラリスは言った。「じゃあ、毎日来ればいいじゃん!」
空は言った。「毎日、悩み事はたくさんあるだろう?そういうことを、まったく考えないようにすることもできるけど、事は、ひとりでには解決しないんだ」
ドラリスは言った。「毎日楽しく過ごすのは、だめなの?」
空は言った。「たぶん、難しいと思う。僕もそうだし、四王子殿下もそうだ。向き合わなければならない後悔や悩みがたくさんある。でも、時間を見つけて休むことはできる。ここに来たり、誰かに一緒にいてもらったりね。四王子殿下は、喜んで君に付き合ってくれると思うよ」
四王子は真剣にドラリスに言った。「これから何かあったら、僕に助けを求めに来てください。クランシュ家の身分としてではなく、ドラリスとして。僕の名前は弦羽といいます。これからは、誰もいないところでは、そう呼んでください」
「弦羽お兄ちゃん」
ドラリスはそう言って、人差し指を唇に当てた。
弦羽も、同じ仕草をした。
小さなうさぎは知った。自分はもう、孤独じゃないのだと。




